アステカの幻想(22)

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村中母子と二人はハリウツドの街へ。夕方から山本女史に紹介された日本女性トミーの案内で、ミセス藤岡の家を訪ねる。




四時には三人の大人とミイはハリウッドから帰っていた。結局ハリウッドといっても、撮影所はどこにあるのか分からない。ただバスに乗って往復してきただけである。人に聞く気にもなれなかった。もっとも後からトミーに尋ねたが彼女も行ったことがないと答えていた。年中、成城の街を通っても東宝撮影所を知らない稔と同じだと思う。
帰りのバスの中では希理子と村中は黒人の少女としきりに話を続けていた。ミイを見て彼女も関心を持ったのだろう。二人の会話を聞くとすぐにスペイン語が飛び出す。その度に稔はここはアメリカ、メキシコではないよと笑いがこみ上げ出来た。
 稔は久しぶりに黄のストライプの入った派手なワイシャツを取り出し、ネクタイを希理子に結ばせた。初対面の女性となれば稔も緊張する。電話からの話によれば日系人のあるパーティーに参加させてもらえるらしかった。稔はワイシャツの小さなボタンもネクタイを締めるのも全く苦手である。特に袖のボタンは稔には手の出しようもない。それゆえ、稔は一人で旅行の場合はハイネックと開袖で通した。しかし、今度の旅には希理子がいる。稔はボストンの底に一組のワイシャツとネクタイを入れるのを忘れなかった。
 希理子はネクタイを結ぶのはなかなかうまい。むしろ日頃稔に結ぶことの少なくなった久美より慣れていたかもしれない。独り身の希理子がと不思議に思う。父親のを結び続けてきたと希理子は言う。彼女の母親は長らく病床にあった。その間、希理子は通常の娘以上に父親の影が離れなかった。
 定刻の五時、樋口トミ子はきちんとホテルのロビーに姿を現した。稔の想像に反して彼女はムスタングを駆った近代的な若い女性である。稔には女の年というものがよく分からないが二十代の後半から三十代の前半までなのだろう。なかなかの美人だった。
 「私のことをオフィスでは皆さん、トミーと呼んでます。もしオフィスに電話をして下さるならトミーと呼んでください」
 快くトミーは村中親子の同行を承知してくれた。四人は彼女のブルーのムスタングに乗り込んだ。車はすぐにダウンタウンからフリーウェイに出る。先程、ハリウッドへ行った定期バスと大体同じ方向を走っているらしい。フリーウェイは無料の高速道路である。市の中心ダウンタウンから放射にまた四方へと縦横、住宅地へ向けて張り巡らされているらしい。どれも片側四車線の見事な舗装道路だった。ロサンゼルスの街はどこまで続くのか分からぬ。ただ、だだっ広い街である。
ダウンタウンに黒人や東洋人を含めた有色人種が住みつくと、白人たちは逃げるように郊外に土地を買って立ち去った。またその新しい住宅地の中心には盛り場が出来るらしかった。先程バスで通ったハリウッドの中心街はダウンタウンのブロードウェイよりも、ずっと洒脱でセンスのありそうな高級商店ばかり軒をずらりと連ねていた。

 サンセットの大通りも通ってみた。この辺りは高級住宅街のあった所、稔は学生時代に見た映画のタイトルを思い出す。若き時代の栄光を忘れきれない今は色香も失ったハリウッドの映画女優の物語だった。街の看板に録音所とか現像所のような小さなプロダクションが目立つのもハリウッドの街らしい。次の日、尋ねた日系三世たちの映画プロダクションもこの近くにある。トミーの車は丘の続く静かな住宅地を上っていく。緑の木立の中に赤、青、黄と原色ペンキが目立った住宅が続いている。戸口はどの家もゲイトから一直線、美しく草花が植えられた花壇で飾られていた。
「日本の庭は中から眺めていいように造るけど、外国では外から眺められて、きれいなように造るのね」
 そういえば、どの家も自分の敷地から外界と隔たった塀や垣根の類はほとんどない。代わりに欧米人の家の窓は閉鎖的で外界からの視線を極力拒み続ける。窓辺の花も外界へ向けられ、家自体を飾った。その点、日本の戸障子は開放的だ。そのたたずまいという言葉通りに、ほのぼのとさせられる。だが庭も花も内なる人の眺めのためにあった。
「きれいだな。この辺りならみんな高給サラリーマンといった所なのでしょう」
 村ちゃんの言葉にトミーはギアをセカンドに入れ替えながら首をかしげた。
「そうねえ。この辺ならまあ中でも下といった所じゃないかしら」
 誰も意外な風だった。メヒコ郊外の砂礫の中に並ぶマッチ箱のセメント家屋を見続けた目には、そう思うのも当然だろう。やがて車は一軒の家の駐車場に滑り込んだ。緑に囲まれた小綺麗な一軒家である。
「ちょっと待っててくださいね。ここのミセス藤岡が風邪気味で今日どうしてもパーティーには出られないから。寄って行ってくれと言うの。何か届け物があるらしいわ」
 稔だけが車の中で待つことにした。人見知りするというよりも新しい環境での筋肉の緊張が億劫である。しばらくして希理子が迎えに来た。固辞すると入れ替わりに藤岡夫人とおぼしき人が出てきた。
「なんもないけれど、ちょっとだけお上がりになって行きんさい」
 広島なまりのいかにも庶民のおばさん風だった。薄茶のガウンを羽織った自分の姿をしきりと詫びていた。中はダイニングを含めて三部屋か四部屋の広さだろう。昨年、やっと買うことができたと話していた。値段は日本の通貨に直せば土地付きで九百万程度のものらしかった。村ちゃんの顔は真実うらやましそうに見えた。いくら狭い国土とはいえ、原価計算をしてみても日本でもこのくらいの価値なら家が買えるべきだと思う。日本の高度成長がもたらした政治の歪みは、とてつもなく大きな犠牲を庶民に身に強いていた。
 ミセス藤岡は稔と同年輩らしい。日本語の分からぬ男の子たちも昭宏や和宏とそう違わぬ年頃に思われた。夫人はしきりと稔にコーヒーや手作りの菓子を勧める。藤岡夫妻は戦後に渡米した日本人らしかった。ミスター藤岡の仕事はガーデナーである。手先の器用な日本人に細かくハサミを使う庭師の仕事は適しているらしい。ロスにいる日本人の多くは戦前からこの職業を選んでいた。稔の中学時代、T学園の塾で世話になった養護保母さんのご主人もロスでガーデナーをしていたと聞いている。戦時中に交換船で引き揚げてきたこの人に英語を教えてもらっていた。向こうから持参してきた目新しい台所用品を数々見せられて、これでも日本は戦争に勝てるのかと思った覚えがある。材質においても便利さでも当時の粗悪な日本製品とでは比較のしようもなかった。
 ミセス藤岡はしきりと渡米当時の苦労話をしりとしていた。家も買って曲がりなりにもここまで来るには、色々と山も谷もあったことだろう。来年は観光団に従って日本を訪れると言っていた。渡米後、最初で最後の日本訪問になるだろう。短い日程で果たしてどれだけの余裕があるのか知らない稔だが、是非寄ってくれと言ってみる。自分でもはかない言葉のように思えていた。東京には遠い親類が葛飾の方にいると言う。日本へ帰ったら元気でやってますからと伝えてくれと頼まれた。希理子はその電話の番号を控えていた。
 裏庭にはキュウリやナスが植えてある。ミセス藤岡に導かれてそのまま地上に足を降ろしたが、ここで初めて靴のままの自分を奇異に思った。今まで全く日本の家を訪れていたような錯覚を感じていたからだろう。カリフォルニアにももちろんナスやキュウリもあるには違いないが、日本人の好みに合った小型で手頃なものはなかなか手に入らぬらしい。つまみ菜も二畝ほど植えてあった。ミセス藤岡は枝豆を一本畠の隅から抜いてトミイに手渡した。
「ご馳走様、ビールのおつまみになるわね」
 日本で豆腐原料となる大豆の大部分はアメリカから来ている筈である。しかし枝豆となれば難しいのかも知れない。それからミセス藤岡はトミーに五目寿司の入った重箱と一升瓶の日本酒を渡す。
「ミスター堀内に宜しく言ってくれんさい」
「じゃあ、また体を大事にね」
 トミーは頼まれた品物を大事そうに抱えながら車の方へ下りていった。
「ではお元気で」
 二十分ほどの巡り会いだった。しかし別れとなるともう地球上で再会の機会は極めて乏しい。そう思うと三人はミセス藤岡の同じ国の人々に示す懐かしげな態度にある種の感慨を持たざるを得なかった。

 

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