アステカの幻想(21)

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翌朝の二人。ようやく二人だけになれて和解の糸口を見出だそうとする稔に、希理子は昨夜到着の村中母子を呼び寄せる。




まだ希理子は軽い寝息をたてていた。朝の太陽は直接ホテルの室内には姿を見せなかったが、十階の高層だけに三方の建物の壁面から乱反射した光の影が豊かに流れていた。もう八時は大分まわっていると思う。三日ぶりの床の上である。まだ起こす必要は何もない。今日の予定は夕方、五時である。
もし見物というスケジュールを立てるなら、今日はディズニーランドというところだろうが稔も希理子も興味を失っていた。また稔は向かいのベッドの若い女の寝顔を見る。細く尖った鼻、一筋に閉じた目蓋は薄かった。改めて二十という歳の開きを考えてみた。稔は年上の妻の朝の寝顔を見たことがない。夜は十時も過ぎると船を漕ぎ出す久美の疲れた顔に空いていた稔であっても、目覚めた時点で久美が床の中にあったことはなかった。二人の子供たちを学校にやり店員たちと店を開ける。
「社長はまだ寝てるかい」
 問屋や客の言葉からどれだけ稔をカバーして来たことだろう。
 伊豆での一週間、また今の外国(トツクニ)での二週間、希理子と寝所を供にしてきた。朝ともなれば稔が寝顔を眺める立場になっていた。夜はおそくまで眠れぬが如く本のページをめくる音をおぼろげに聞いた感じがしていた。これも年齢(トシ)虜垢覆里・般C六廚辰拭

 希理子が一瞬かすかに薄目を開いたのを見て取って稔は声をかける。
「起きたの。そっちのベッドへ入っていいかい」
「ええ、いいわ。横に寝るだけならね」
 いかにも物憂げな声だった。ダブルベットは小柄な希理子の背にかなりのスペースを空けていた。稔が希理子の後にまわって同じ毛布に体を滑り込ませても二人の体にはまだ隙間が残る。
「体に少しでも触れてはだめ」
「ああ」
 前よりはっきりしていた。しかし間もなく微かな寝息に変わっていた。稔は黙って天井を睨む。青みがかかった地に更紗の花鳥を基調にした模様が混濁した意識を上から押さえ込んだ。今日こそ何としても、これまでの誤解を解かねばと思っている。この二週間あまりにも二人はふれあいがなさ過ぎた。なるほど二人は男と女として寝床は同じに過ごしてきた。だが、そこには女たちの連帯が強すぎて男としての稔が入り込む隙がなさ過ぎた。
メヒコへ着いたその夜は稔のために用意されていたのは簡易ベッドだけだった。翌日に在留**夫人宅で借りて来るまで毛布もなく、希理子のベッドの中で抱き合って寝た。この夜だけである。それからは見物、会合話合い、パーティーと、連続して少しも早くただ寝ることだけが急務の毎夜だった。バスの二夜もある。寝物語のゆとりなどあろう筈もない。工房のQちゃんとケイが希理子も住んでいたアパートを引き払ってコレクティブに戻り、受取った敷金をメキシコへ送金した話さえ稔は希理子にしていなかった。
 今になって振り返れば昼間とて、二人だけでの過ごした時間もあまりにもはかない。二日目の夕方ソカロを見てアラメダ公園で肩を寄せあい、国立芸術院のバレーで送れた夜だけだった。五日目チャタルベック公園での希理子は稔から離れようとする自分の心を抑えていた。トゥーラへの遺跡の旅も往復で四時間足らずのものである。あとは必ず田井なり、谷山なり女たちの影があった。今日こそ初めて二人だけの一日をこの一室で過ごせる。稔は二人の失われかけたその愛を確かめ合う好機だと思った。

 やがて希理子が起き出した。ネグリジェのまま衣服とアパラートを手にしてベットをつたわり、片足でけんけん飛びして、赤い小雀のようにシャワー室へと入る。稔には肌を見せまいとしている希理子であった。
「この部屋は定員三名なのかしら。コップもタオルも三組あるわね。むらちゃんが来たら、ここに泊めてやってもいいわね」
 洗面を終え着衣も済ませた希理子はそう言いながらトイレから出てきた。稔には本気で云うのか、意地悪で云うのかよく理解できなかった。
「冗談じゃないよ。今日は夕方まで二人でよく話し合いたいんだ。お互いの誤解を少しでもなくしたいんだ」
「私は別に橋本さんに話したいことなんか何もなくてよ」
「僕の方ではどうしてもあるんだ。そうしないと日本へ帰ってからも、今後の仕事も続けていけないだろう」
「とにかく、私はもう橋本さんとは以前のような気持ちでお付き合いできなくなているのよ」
「だからこそ、ふたりだけで・・・」
 突然けたたましく電話のベルが鳴り出した。「ハロー」と呼んだ希理子の声がすぐに日本語になる。
「ああ、むらちゃん。昨日の晩、着いたの。そのホテルなら知ってる。ニューヨークホテルでしょ。昨日、前を通った。ここのホテルはすぐ近くよ。歩いて十分くらいかしら。聞いていらっしゃい。すぐ分かるわ」
 稔は全く腹立たしい気持ちで聞いていた。村中は昨夜メヒコから到着したらしい。ホテルはリトル東京だという。夕べ、希理子と歩いたリトル東京のわびしいネオンの灯った小さなホテルを思い出していた。ものの十分も経たずして、ドアの外が騒がしくなる。
「イトサーン」
 と呼ぶミイの声も聞こえてきた。もうこうなれば仕方ない。稔はあきらめ顔できっぱり言った。
「じゃあ、今日はハリウッドでも行って遊んでこようよ」
 ドアが開くと村中とミイが威勢良く部屋へ入ってくる。その母子に長旅の疲れなど全く見えない。村中はメキシコの民族衣装にジーパン姿、ミイはちぢれた黒い髪に赤いリボンをつけていた。
「おもしろかったわ。砂漠の中の自動車旅行。私もタイヤを替えたり、すっかりうまくなっちゃった」
 村中は手でハンドルを回して、いかにも三千キロの道を自分が運転してきたような口振りだった。村中が敢えて自動車旅行と呼んだのも、日本語のドライブという言葉では軽すぎて、今度の旅のイメージにはぴったりはまらないと思ったからだろう。村中たちはメヒコから四日かけてロスにやって来ている。途中ではモーテルやホテルにも宿泊しつつやってきたらしい。そんな旅行なら、また面白かろうと稔は思った。
「昨日、谷山さんとチャイナタウンへ行って食べた中華料理の残りがあるの。みんなで朝御飯代わりに食べない?このホテルの前のメキシコレストランではトルテーヤも売っているのよ」

 かねてから欧米人は日本人に比べてつましいとは聞いていたが、谷山からそれを聞いて稔は驚いた。レストランで食べ残した料理を持ち帰って構わぬという。なるほど、それを残飯として捨てることを考えれば合理的な話だとは思う。しかし、日本の高級レストランやホテルでするフルコースの食事のイメージはまるで違っていた。ナイフやフォークを皿に置くとボーイにどんどん片づけられた。
 昨日は食事が済むと谷山はドギー・バックを要求した。中国系のウエーターが紙製の容器を持って現れる。ナイフとフォークを巧みに使ってテーブル上の残った料理を納めて包装してきた。ホテルへ帰ると希理子は部屋の中に置いてある小型冷蔵庫にしまった。通電はしてあるが中は空で日本の旅館のようにビールや清涼飲料水の販売とは目的が違うらしい。
「トルーテヤまで売ってるの。嬉しくなっちゃうな」
 村中は永住しようと思ったメヒコを離れてきただけに懐かしそうだった。ロスにメキシコ街もありメキシコ人も多いはずである。単にメキシコから近いというだけでなく、カリフォルニア自体がメキシコから侵略した土地だ。サンディエゴもそうだがロサンゼルスもいうまでもなくスペイン語の地名に違いない。希理子は村中母子とトルーテヤを買いに出ていった。
 メヒコで玉蜀黍粉を薄く焼き上げたはずのトルーテヤも、ロスでは小麦粉で作られ真白だった。あまりにアメリカ的でメキシコの匂いは何もしない。四人はデレデレした感じの形ばかり大きいトルーテヤに昨日の八宝菜の残りを挟んで食べ始めた。考えてみれば随分惨めったらしい話だと思った。ホテルのボーイにでも見られたらと思うと冷汗が出る。こんな場合、日の丸を背に背負った感じで気負っているのも稔の生まれた昭和一桁世代のせいなのだろうか。
 久しぶりに広い部屋に入ったミイは一人はしゃいでいた。今日は珍しく花柄のワンピースを着せてもらっていた。それが嬉しいのかもしれない。ミイは黒人米兵とのハーフである。村中はある映画カメラマンとの間に生まれた上の子と新しい親子関係を模索するため、女と子供のコレクティブを作って育ててきた。稔はミイを初めは男の子とばかり思っていた。ちぢれた短い髪、しかしミイはやはり女の子だった。赤いスカートばかり穿きたがる。
「お前さんはね、あまりそれは似合わないの」
 母親の村中はグリーンの半ズボンを穿かせられてミイはしきりとむづかった。
 突然ノックがした。稔は慌てて食べかけのトルーテヤを紙で覆う。村中がドアを開けると、そこに背高い黒人紳士が立っていた。隣室の客らしい。ミイが騒いで隣室に通じるドアのノブをがちゃがちゃやったので、それを気にしたらしかった。彼はミイの姿を見て驚いた様子だった。一、二分すると大きな紙箱を手にして戻ってきた。先程は済まなかった。これを子供にやってくれと言っている風だった。
 彼は白のワイシャツに薄いブルーのスーツをつけ、着こなしにも一分の隙もない。細身のスラックスは背高い彼を一層引き立てる。いかに上品な紳士と見え、稔は威圧さえ感じた。箱の中にはパン菓子がきちんと詰められていた。
 彼は製菓会社の経営者なのであろうか。もちろん、彼の素性は何も分からない。ただそのパン菓子はホテルの隣室に用意されていたものであったのは確かだった。彼が隣室にミイを見て、稔たち日本人をどのように見たのであろうか。これも稔たちが想像してみるよりは他に分かりようもなかった。
 とにかく、稔は人間の人品というものが、皮膚の色には何の関係もないのだなと思った。稔のこれまで日本で多く見てきた黒人は兵隊が一番多いと思う。次はミュージシャンだろうか。スーツを上品に着こなした黒人などほとんど出会う機会もない。ロスのダウンタウンを歩いていても同じだった。
 稔がメヒコの空港に着いた日、田井女史はメキシコへ来る日本の男たちは醜い、醜いと連発していた。背が低く上下がつまった顔立ち、決まって眼鏡をかけ、漫画では出っ歯でさえあった。いわゆるジャップと言われる典型的な日本人の顔がある。これに比べれば彼がいかに優雅であり、威厳まであるのが分かる。そして稔はシェイクスピアの悲劇の主人公、黒人の将軍、オセロの威厳に満ちた堂々たる容姿を頭に浮かべられることができるようになった。

 

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