ロスのダウンタウンは意外なほど無気力な街だった。老人の姿がやたらと目に付いた。ホテルから二つ目の通りがブロードウェイである。夕方、三人は外へ出てみたが、それほどの高級商店は見あたらない。日本製のテレコやカセットテープ、それにレコードの安売りが目についた。通りはさすがに雑踏とはしているが純粋のアングロサクソンの顔は全く見られない。黒人、ハーフ、東洋人、メキシコ人らしい顔も多かった。これがアメリカ第三の都会繁華街にしては物足らない。
確かにダウンタウンの中心には三十二階建ての白亜の市庁舎がそびえ立っている。そしてその周囲に高等裁判所、州支所と官庁街の並んだところはアメリカ的だった。中心にこうした建物が存在する以上、この辺りが街の中心街と思わぬでもないが、あまりにもその周囲は薄汚れて見えた。
ホテルの部屋の中に三人はほっとして思わず横になる。考えればメヒコ出発以来、五十数時間ぶりである。 「先にシャワーを浴びさせて」
まず谷山が立ってシャワー室に入った。続いて希理子も三日ぶりの垢を流した。稔も女たちの入った後のトイレにどかっと腰掛ける。もう出発時間を気にすることもなかった。バスターミナルに着く度に一度は飛び込んだトイレである。無駄と知りつつも不安にかられてトイレを探した。最後のサンディエゴのバスターミナルでもそうだった。ここはアメリカのビル街だけに手すりにつかまりつつ、ようやく地下まで深く降りて行ったが無駄だった。結局五十数時間に排泄されたのは二回ほど、萎えたペニスからちょろちょろと流れ出た小水だけである。
よくもこれだけと自分で稔は妙なことに感心してみた。見事な長さの物体が、ぷかぷかと便器いっぱいに浮かんでいる。パン食のせいなのか水分が少なく軽くて米食の時と違い沈まぬ物らしい。ティハナのトイレの中で流されず見た排便も浮かんでいた。稔は開放感に浸っていた。ゆっくりとシャワーを一番最後に浴びた。湯も水も気持ちよく豊富に吹き出していた。ここはやっぱりメキシコでなくアメリカなのだと稔は思う。充分に温めた裸体をせまいシャワー室の外へさらした。下肢障害者の希理子もそうだが、稔も立ったままではパンティの類は穿くことはできない。
希理子と谷山は女二人、同じダブルベットに並んで横になっていた。クラシカルな西洋鏡台に合わせ鏡となって映し出していた。稔は自分の裸体を見てちょっとまごつく。
「大丈夫よ。橋本さん。眼鏡を外していれば一米先もよく見えないのだから」
谷山は強度の近視らしい。稔も横になってみたものの、さてといって明るい室内で眠れるものではない。女たちもやがてむくむくと起き出して電話をかけ始めた。
まず初めに希理子が山本女史に紹介された樋口トミ子にかけてみる。メヒコの日本人学校の人たちに乗せてもらい、一日早く出発した村中母子からはまだ連絡はないらしい。稔は何故かほっとする。このまま貸した五百ドルで勝手に日本へ帰ってもらいたい心境なのだろう。
「それでは連絡がございましたら恐れ入りますが、こちらのホテルの番号をお知らせください。番号は・・・・」
てきぱきとした日本語だった。電話の相手もそれに見合う相手らしく、受け答えもスムーズに流れていた。
「明日の夕方五時にホテルのロビーで待っていてくださいって。ダウンタウンのこのホテルならよく知っているって。車で迎えに来てくださるそうよ。観察スケージュールをきちんと立てて参りますって」
「へえ、それはありがたいな。障害者施設も見学させてもらえるのかしら」 「何かそうらしいわよ。はきはきとした、それで温かみのある気持ちのよい方」
希理子は稔に電話の内容を報告した。どんな女性か稔は想像してみる。山本女史の話では市民権を持った二世ではないらしかった。日本の学校を出て、ただ一人アメリカへやってきた女性。グリーンカードは持っているのだろうか。それにしても公的な福祉機関で就職することは非常に難しいことに思われる。恐らく山本女史の親友だというから、四十から五十代のおばさんなのだろう。稔はそんな想像をしていた。
今度は代わって谷山が電話を取った。航空会社である。稔と自分の乗るはずの大韓航空、希理子の切符のエアサイムなどである。谷山は得意げに流暢な英語を使った。幾らかLの発音を鼻にかけて、長く巻き舌を使うところは気になったけれど。スペイン語ではメキシコ在住の女たちに後れをとっていた谷山もアメリカに入国してからは水を得た魚のごとく巧みに英語を操っていた。
「橋本さん。大韓航空のロス出発便は週四回は四回だけれど、火、水、土日の四日だそうよ。午前十時発で、木曜日はないらしいわ。貴方はいつ日本へ帰ることにする」
谷山はベッドの背もたれに上半身をゆだね、長く延ばした黒いコードを左手で弄び、右手で膝の電話機を軽く支えていた。稔は週四回のフライトで火、水、木、土日の隔日航空会社だとばかり信じていた。考えてみれば両方の基地から同時に飛ばす以上、二日連続に飛ばさなければ不経済なのかもしれない。稔は気楽に一日おきのフライトだと信じてグレイハウンドのバスの中でも木曜日に一人で帰ることにしていた。水曜のフライトではサンフランシスコには一日しかいられない。
「じゃあ、仕方がない。土曜日にするよ。せっかくここまで来て、シスコに一日じゃつまらないものね」
もう一つのダブルベットの端に腰掛けていた希理子が突然きっとした声に変わって言い出した。
「冗談じゃないわ。もう一週間も橋本さんのお付き合いをするなんて、まっぴらよ」 稔は脳天をごつんと一撃を食った気持ちである。
「そんなことを言ったって。もう一度来られるかどうか分からない国じゃないか。見るものはしっかりと見ておきたいよ」
穏和な舌の谷山が二人の中に入ってきた。
「でも橋本さんシスコに行ったって、一日あれば十分よ。それほど見物するところなんてありませんし。高いお金を出して一日中一人でホテルにいたってつまらないでしょう」
谷山も完全に希理子の側についていた。こんな女たちの世話にならずともシスコの街くらい一人で見物してみせると思う。
「郊外のバークレーやオークランドへも行ってみたいし。バークレーへ行く地下鉄ってすばらしいそうじゃないか」
「カリフォルニア大学があるだけで何もないところよ。地下鉄だって日曜は休みになるし」
ロサンゼルスよりもサンフランシスコはすばらしいと言っていたのは谷山だった。
「それに糸崎。貴方にも早く来てほしいの。私も荷物の整理をしなくてはならないし、田井さんに頼まれた仕事もあるし」
「そうね。私もなるたけ早くそっちへ行くわ」
稔は完全に自分が女たちの厄介者になっていることを自覚した。稔の旅には付き添う者に相当な負担を強いた。学生時代でも一度一緒に旅に出た友達が二度も同行しようとはけっして言わなかった。最後まで稔との旅を嫌わなかったのは結局、母親の幸子と妻の久美だけだった。幸子とは結婚前の学生時代に北海道から九州まで稔の立てた精緻なスケージュールに従って、ほとんど日本国中を旅行した。幸子はおまえと旅行するときは、自分を真っ白な無心にして行くのだと言っていた。久美とも婚前から旅を続け、子供が出来てからも二人の男の子を引き連れてよく出掛けていた。夏の極暑の満員バスの中で可哀想に親の犠牲だなと陰口をたたかれた。山では久美は稔を負ぶって谷川を渡ることもある。
「妻は命綱をもって」とそのタイトルで二人の山登りはテレビや週刊誌に出されている。
その久美でも海外へ、稔がどうしてもヨーロッパへ行きたいと言い出した時には首をついに縦には振ろうとはしなかった。ある場合には稔が手をつき、両親が嫁に頭を下げたのだったが。久美にすれば分かっていたのである。稔の周囲で一段とかかる荷重を言語の不自由な国々で耐えきる自信がなかったからだろう。
それなればこそ、またそれを熟知している稔なればこそ、希理子の海外の旅へ行を共にしようとは全く思わなかった。実際伊豆への逃避の旅の後、資料と原稿用紙の束を携えて、メキシコへと希理子に誘われぬでもなかったが。それが希理子が一人旅をグワテマラと続け、谷山とも連絡がつかずアメリカまでも一人で旅を続けるという。矢も盾もたまらず全てを投げうつ稔。久美とは愚かな抗争を続けつつ脱出してきた日本であった。
ところがいざ稔がメキシコの地へ着いてみた時、全ての情勢は一変していた。数日前に谷山が突然メヒコに姿を現し、永住を決めていた村中さえも帰国することになり、稔はその旅費の調達にまで一役かまされた。事実上メヒコのリブの館は解散し、その渦中に稔は立たされ、稔の不器用で無様な立場を希理子も女たちと供に眺める側に追いやった。かくなる上はと稔は思う。潔く旗は巻かざるを得ないのであろう。今の稔にとって希理子の全てを失うことが最大の打撃であった。
「じゃあいいよ。水曜のフライトで帰るから。谷山さん、飛行機の予約を取ってくれたかい。でも火曜日の日はいっぱいに使いたいからバスの夜行便でロスに戻るよ」
「橋本さんではバスの一人旅は無理よ。私だって手荷物を別のバスに載せられて、やっとのこと膝つめ談判で取り返したことがあるのですもの。飛行機になさいな。ロスとシスコの間は確か二十四時間、運行しているはずよ」
稔は穏和だがすっかり英会話に自信をつけている谷山にも完全に見限られていた。それでも小一時間はベッドに横になっていただろう。もう眠れぬまま、三人は夕方の街へ出た。土曜の夕べの雑踏するブロードウェイを歩き、バスでチャイナタウンに出た。谷山は前々からシスコのタウンは立派だと話している。それに比較すればロスのタウンは規模が小さいものらしい。三人はけばけばしく飾られた中華街を歩き、とあるレストランに入って稔は女たちに中国料理をおごる。女たちはうまいと言っていたが、稔には洋風のしつこい味はなじめなかった。ハイデルベルヒで食べた味を思い出していた。街角に小さな銅像が建てられている。
遠くからその形を見て、中山国父の像とすぐ分かる。中山国父とは孫文のことで彼の号、稔は先々月に希理子が旅立ってすぐたまらず久美と出掛けた台湾を思い出す。台北のメイン通りも中山と名付けられていた。噴水の赤や黄色の電飾に照らされて小さな中国は揺れていた。
グリファス公園にでも寄って天文台から有名なロスの夜景でもと志したが、尋ねても方角がはっきりしなかった。まだ八時前だが三人は帰路につく。シスコ行きの夜行バスの出発は十時だが、谷山はバスターミナルへ行くという。谷山は谷山らしく気遣っているのだろう。希理子と稔は途中でバスを降りる。またシスコで会いましょう。谷山はバスの窓から手を振っていた。
ほとんど人通りの絶えた市庁舎前の大通りを降りた二人はリトル東京へと歩を向ける。初めて迎えた二人だけの夜だった。リトル東京の店々は飲食店を除いて大方戸を閉ざしていた。希理子は煙草が吸いたくなったのか、ただ一軒開かれた食料品の店でマッチを買う。どこか東洋風で、しかし日本とは違っていた。恐らくコーリャの経営らしい。斜め向かいの街角で赤とグリーンのネオンの光が寂しく揺れている。カタカナでニューヨークホテルとその字は読めた。
二人は暗い人の絶えた通りをホテルへと向かう。その独特な足音が両側のビルにずるずる響き、わびしい。まだそれほどの時間ではない。ただ教会の付属らしい宿泊施設の前にはホームレス、有色の浮浪者や酔いつぶれた男たちの群があった。
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