またフリーウェイを走ってハリウッドの方へと向かう。相当の距離はあるらしいが、十分も走れば目的地である。小さな平家の建物だが駐車場もある原色でペイントされた独立家屋だった。中では三人ほどの日系人三世の青年たちが迎えてくれた。何にしても16ミリ映画のプロダクションである。それほど採算のとれる企業とも思えなかったが、内部は清潔にきちんと片づく。編集室も録音室も整然としていた。決して新しい設備ではない。だが日本でこんな場所によくありがちな吸い殻の山、ある意味で無頓着を誇る乱雑さは全く見られなかった。
三世たちは四人を一通り案内してから試写室に通す。四人はそれぞれの思いで試写室のソファに身を委ねた。中でも村ちゃんの思いは一汐だったに違いない。映写室からはフィルムを巻き取る音が聞こえていた。村ちゃんの前の連れ合いは16ミリのカメラマンN君で脳性麻痺者の過酷なまでに鋭いタッチで描いた作品がある。稔もあちこちで作品に対する評判をいろいろ聞いていた。女のエロスを掘り下げたとして村ちゃんのミイ分娩場面を写した作品も好評だった。田井女史は元の亭主に自分の最も柔らかい部分を露け出した村中の人の良さを批判した。女を踏み台にして上へとのし上がろうとする男たち、これも田井にとっては我慢のならぬ材料なのだろう。
室内を暗くして次々と数本の作品が上映される。何れもアメリカに於ける東洋というものを主題とした作品ばかりだった。英語のナレーションも分かりやすい。それでも四人が一番感銘の強かったのはやはり「渡り鳥」とタイトルの付いた作品であろう。遠く大正、昭和初期とアメリカへ渡った日本の労働者たち。言葉も満足に通ぜぬままただ働く一方だった。どうにか子供たちも順調に育ち、形だけでも幸福な一家を築けそうになったところで、彼らを待っていたものは戦争という厳しい現実だった。
荒漠たるアリゾナの原野が映し出される。今は吹きすさぶ砂嵐の中にバタバタと音を立てながら崩れていくキャンプ跡だった。倒れた木柱にからむ錆びた有刺鉄線も不気味である。やがて場面は変わり、その場所へ何十年ぶりかで訪れた一世、二世、記念碑の除幕の光景も映された。
誰がために何の故をもって彼らだけがこれ程まで過酷な扱いに甘んじなければならなかったのだろうか。ただ一つの人種という言葉以外に答えようがない。一九四二年、日本人強制収容所、アメリカンデモクラシーの大きな恥部だった。そこには憲法に保証された自由と平等の原則は何もなかった。ただ敵国に生まれ、またはその子であるという理由だけで何年にも渡る忍苦の結晶、家や財産をも放棄せねばならなかった。二束三文で買いたたかれる高価な陶器類を打ち壊して、我が家をキャンプへと去って行く邦人たちの姿も描かれていた。
やがて室内は点灯されて皆ほっと嘆声をもらす。今や戦後は三十年、その子、その孫の世代と変わりつつある。そして全米中にこの問題は新しい見直しの声が全米中に彷彿として起こりつつあるという。これは何も日系人の間だけではない。アメリカの常識とでもいうべき一般の中流インテリ層からでもある。稔たちはそれから小一時間ほど試写室に残った青年たちと問題を語り合った。彼らはほとんど日本語を解さない世代である。また一語でもそれを口にしようとはしなかった。トミーの通訳が三人の未熟な英語の理解力を助けていた。
そこに何故、人種、偏見、差別という言葉で決着させようとするのか。それは敵国人という理由だけで結論させられないからである。何故なら戦時中アメリカ国内には一般のドイツ人強制収容所も、イタリア人強制収容所も一カ所として存在しなかった。トルーマンも日本でなくドイツに対してなら、原爆投下の許可は貰えなかっただろうと。よく聞く風評である。
映画の画面にも映し出されていたが、背が低く、ちんちくりんな眼鏡の男、戦時中の漫画に書かれた「ヒロヒト」に代表される日本人のイメージ、猿の如く醜く、残忍で卑屈な笑いを浮かべた男たち。稔がメヒコの空港に着いたとき、久しぶりに何人かの日本の男たちを見て、田井が希理子に「醜いと思わない」と語り合ってはいたが、稔にも白人種ばかり見慣れた目にはこうした映し方も無理ないようにも思えるのだった。
日本人だから、東洋人だから、黄色人種だから、これだけの理由で彼らは危険視されて太平洋の岸辺から隔離されて、砂礫の荒野の道を選ばなければならなかった。パトリシャ・ハーストの事件も東京ローズも、結局は一連の流れであったと彼らは云う。今やアメリカの良識が逆にその追いつめた不正な力を、裁く立場に変容しつつあると彼ら日系三世の青年たちは熱っぽく語るのだった。
トミーは帰路の車でこんな事を話していた。
「もし良かったら、明日ももう一日ロスにいらしゃらない。教会で用務員をしている兵藤さん、二世男性のおじさん、なかなかいい人でリハビリテーション病院を案内してくれるそうよ。私もまだ行ったことはないけれど、リハビリではアメリカ国内でも指折りの病院らしいわ」
それを聞いて希理子と村中は諸手をあげて歓迎した。ヨーロッパでそういった施設ばかり視察してきた稔にはそれほどの興味もない。むしろ予定通り明朝早くサンフランシスコへの旅を急ぎたかった。しかし、さりとて女たち二人に反対する特別な理由は何もない。稔はそのまま黙ってリトル東京の新しい宿に引き揚げる。侘びしい室内に荷物を運び込むと希理子は村中の部屋で寝るという。稔も望むところだった。窓の外はまだサマータイムで明るい。稔は夕食も取らずベッドで横になると死んだように眠った。
翌朝も昼近くまで疲れきって眠っていた。かたわらにもう希理子がいないということは、自己に対して無言の中に安堵感を与えたのだろう。もう何も男としてなすべきことのない現在、心身共に何日ぶりかの睡眠を要求したのだった。ドアの軽く開く音に目が覚める。希理子の力の入った左肩がオールドファッションの鏡に映っていた。
「起きたの。朝食を持ってきてあげた。パンとジュースだけれど、これでいいでしょう」
「ああ、ありがとう。夕べはよく眠れたよ。君がいないから安心したんだろ」
「ミイに何回もアッパーカットを食らって起こされちゃった。やっぱり一つのベットに三人は無理ねえ」
「今夜はここに寝たら。今夜が最後だし、もう僕のことなら何も心配しなくていい」 「じゃあ、そうする」 希理子は意外と素直だった。
午後にならないと教会の兵藤さんの仕事は空かない。二人はリトル東京の街へ出た。
「今日も世話になるのだろう。なんだか申し訳ないな。お菓子でも買って行こうよ」
稔はやはり年令(トシ)任△襦・蠅屬蕕蚤梢佑寮は辰砲覆襪里狼い乏櫃・襦I・酘欧判颪・譴晋・・い硫杙匆阿貌・辰討澆燭・∩ナ悗覗・蕕譴人嚀宗・牝・蠅・C發前奮阿和浹佑瓩硫杙劼个・蠅世・顕杙劼魯瓠璽疋ぅ黎SAだった。どんな味か分からぬが稔は希理子に柏餅を五ドルほど買わせる。ロスも明るい五月だった。
「じゃあ、これトミーに届けてよ」 ゆっくり教会まで足を運んだ。
「さあ貴方が自分でいってらっしゃい。貴方が一番年長なのだし、お金を出したのも貴方でしょう」
希理子は稔の前に柏餅の包みを差し出した。稔はこんなこと女がするものだと思ってみたが、しぶしぶ包みを受け取りキッチンへと階段を下りた。
「私が貴方を指図するのは、いくらかでも貴方に愛情が残っているからよ」 こんな希理子の声が後に聞こえた。
ミスター兵藤の両親はハワイの移民だという。従って彼の生まれたのはハワイである。日本へはまだ行ったことがないと言っていた。稔とは同年輩だろうか、黒い背広の実直そうな人だった。三人はいやミイを入れれば四人だが、またまた彼の車に乗り込んだ。
フリーウェイを三十分ほど、ロスの郊外にランチョ・ロス・アミゴス病院を尋ねる。二十四万坪の敷地に二百棟の建物、その総額は諸設備を含めて百五十億円、約千二百人の患者に、二百二十の職種に分かれた二千人の職員が従事していると聞いては、いかにもアメリカ的で規模の大きさに驚かされた。リハビリテーションとはいっても外部疾患とは限らない。心臓、肺などの内部疾患者からアル中から麻薬中毒、精神病者まで含まれる。ミスター兵藤は車でぐるぐる広い横内を廻って各病棟を見せてくれた。本部へ行って派遣牧師のブラウン氏に紹介される。ブラウン氏に尋ねられた。
「どこが一番見たいですか」 「脳性麻痺者の病棟です」
稔は別に躊躇することもない。ブラウン氏はすぐに小児形成外科と整形神経科の病棟に案内してくれた。電動車椅子に酸素ボンベの車を牽引してゴム管をくわえながら、病棟内を縦横に走り回っている少年患者の姿は印象的で、いかにもアメリカ的だった。PTやOT、日本では理学療法、作業療法と呼ばれたが、それぞれ専門の部屋々々を次々と廻ってくれる。だが説明役が牧師さんで、またその通訳が素人のミスター兵藤では稔の期待するような回答はなかなか得られない。
しかしミスター兵藤も気の優しい人である。帰路にも彼は州立病院、日本人病院と廻ってくれた。そして最後は日系人専門の養老院だった。全く今日一日限りの見ず知らずの旅行者のためにガソリンを費やし、半日を棒に振って尽くしてくれた親切は稔たちにとって感謝の他はなかった。別れの際に「御住所を」と尋ねてみたが
「トミーの所でいいですよ」 と笑って答えたのみだった。
旅路の果ての日系人専門の養老院。夕日のあたる丘の上にあった。小さな白壁の建物だった。ランチョ・ロス・アミゴス病院のようなゲートも美しい並木道も、きれいに刈り上がった芝生もない。それでも十室、四五十人の老人たちが起居している。中庭もせまい。小さな石灯籠と池に緋鯉が数尾放たれていた。大正から昭和にかけて青雲の志を抱きながら故郷を離れた移民たち。嫗よりも翁が多いという。一生独身の人もいるらしかった。再び故郷の空にまみえることなくして異国の土に伏さん日を待つ人々。車椅子の老人たちは稔に
「何県から来なさった」
と尋ねた。なぜか『東京』と答えるのを躊躇う。今や四時過ぎている。それほど広くない板ばり廊下を早々と夕食を運んで配膳の車が忙しげに廻っていた。
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