バスはただひたすら走る。走れど走れど砂礫とシャボテンの世界だった。遠く近くに死のような岩山が迫ってくる。岩肌は切り立ち一本の草木も見当たらない。紫外線除けに淡く着色された窓ガラスを通しても陽光は赤みを増してきた。もうメヒコを出発して以来九時間に近い。メキシコ第二の都市グアダラハラも近い筈だった。太陽も傾きかけてきている。やがて西の地平線上に華麗な無言劇が繰り広げられることだろう。
やがて沈黙の夜が続き、二本のヘッドライトの筋だけが一筋にのびるアスファルトの上をたどっていく。そしてバスの左手から空は白み始め、再び無言劇の主人公は顔を出す。また一日、窓辺にシャボテンと岩山を眺め過して、二度目の無言劇もこのシートから観覧できるだろう。更に夜道をひたすら走って主人公が三度目の顔を見せなければ、このシートから完全に離れ得ないのだった。
終点の国境の町、ティハナまでは四十八時間の旅だという。稔は乗り物に強い方だし、またそれ自体も好きだった。人生五十近くのこの年になっても子供のように、電車なら運転席のある前部から景色を眺めていたい方だった。飛行機でもバスでも窓辺に席を取りたいし、もし取れなくて窓側の席の人がカーテンをして塞いだり、居眠りや読書でもしていると、他人の事ながら惜しいと思う衝動に駆られもした。学生時分から旅は好きだから、九州、北海道と長い鈍行列車の旅は続けているが、せまい日本国内では一日以上という行程はまず普通には経験のしようがない。
その稔も四十八時間、乗り続けると聞いていささか僻々せざるを得なかった。だが希理子の手紙が稔にバス旅行の魅力をひきつけさせたのだろう。行きのロスから機上の三時間半、稔は地上の風景に吸い付けられていた。行けども行けども、荒涼たる大地、稔は上から限りない空想の帯びを広げ続けながらも、帰りは是非希理子と二人で同じ風景を地上から眺めたいと思っていた。それが今となっては希理子とのいさかいの原因となったことも事実である。
谷山と希理子は稔のすぐ後に並んで席を占めている。稔の横の席には二十歳前後の青年だった。稔たち三人のほかには外国人の姿は全く見当たらない。乗客は恐らく出稼人たちで中流以下の人々なのだろう。あくの強いスペイン語が声高で車内にこだましていた。空席は一席もなく時たま近距離の乗客が乗り込んで来ても通路に立つしかない。それゆえ、他人を気遣う稔にとって相当の苦痛となる。行く先々のバスターミナルでの食事は割高だというので、谷山と希理子はパンその他の食料をしこたま買いこんできた。
後部の席から二人がいろいろ稔に補給してくれるのだが、手の悪い稔には、テーブルもない狭い座席の中で受け取り、こぼさぬ様に食事するのは難しい。勿論、自分の横に気の置けない介護人でもいてくれれば、こぼれやすいジュースの瓶も持ってくれるだろうし、強く握ると砕けてしまう菓子パンの類でも、一口で入るような適当な大きさにちぎってもらえばどうということもなかった。それが見ず知らずの他人の場合、自分をどんな好奇の目で見、それがどんな嫌悪の目に変わるかと思うと、指先は強ばり、もし相手の洋服でも汚すようにもなったらと、最悪の事態が予想され、極度の緊張で神経をすり減らした。
隣の席が空席ならば、それはそれで別に気遣うこともなかった。マイペースで行えば大抵のことは自分で出来る。余ほどのこと、たとえば極端に指先の神経を要求する作業とか、両手を供応しなければならないような仕事でもない限り、他の人の手を煩わす必要はまずなかった。羽田からハワイ、ハワイからロス、そしてロスからメヒコと幸い機内は空いていて稔は気楽に旅が出来た。帰りは希理子と一緒だと思う。とにかくメキシコまで行けばメヒコへ着くまでこんな気持ちだった。
二年前ウイーンからチューリッヒの機内で稔は整形外科医のNと並んだ。NはA県のコロニーに勤務する整形外科医で、脳性マヒについて、なかなかよく理解してくれる。
「脳性マヒの人の中でも、アラトーゼの人はみんながんばるね。僕の近くのB子なんかも自伝も出版してね。編物なんか教えているんだが。橋本さんは知らないかい」
整形外科医が脳性麻痺者のよき理解者とは限らない。むしろ脳性麻痺者によき理解者を示してくれるお医者様は少ないのである。
やがて背高いスチュワーデスがプラスチックの容器に入れて、オレンジジュースを運んできた。いかにもゲルマン女性らしい。ブロンドの髪、大柄でいて知性に富んだまなざし、ヒットラーが選ばれた民族と誇った。東洋人には卑屈さを感じさせられる。稔は隣席がN氏なので、容易にジュースに手をかけた。こぼさぬようにとコップを両手で押さえる。異常な圧力がかかったのだろう。パチンと軽く音がして、コップは二つに割れた。オレンジの液体が四方に飛び散る。当然Nのズボンにも流れ出た。
「いいんだ。いいんだ。ホテルへつけばすぐバスさ。毎日洗濯をやってるから、うまいものだよ」
あわてた稔にNはハンカチを取り出して拭い始めた。先程のスチュワーデスもナプキンを持って飛んでくる。 「でも隣が僕でよかったね」
後でNは稔にそう言った。たしかに、稔は思わぬではなかった。これが気難しそうなC県の厚生部長だったらと。
後部席の女二人の日本語の他は車内に満ちたスペイン語も稔にはほとんど分からない。従って車内では稔について話題になってたいたのか、それとも全く無関心だったのか、さっぱり知らぬ。とにかく、どちらにしても気にする必要はないののだから、平気でおればよいものを、そこが平静になれない稔である。ジュースのカンを口に運ぶにも極度の精神負荷を強いられた。バスは三、四時間走ると必ず石造りの低い家並を抜けて町中に入りバスターミナルに着く。普通は十五分停車だった。
希理子は口髭を蓄えた車掌代わりの交替ドライバーに停車時間を確認する。稔はトイレを探し売店で缶ジュースを買う。缶にストローをさし座席の後ろに隠しては、二口、三口と吸った。とにかく全てが乾いていた。こうしてでも渇つだけは癒さずにいられなかった。
食事時は普通三十分停車となる。だがもう二時間近く小さな村のドライブインの前でバスは止まっていた。レストランの前のわずかな芝生にも緑に飢えた目には心がなごむ。散水用のゴムホースのついた蛇口を稔は見つけた。あれで歯を洗おうと稔は思う。絶えずジュースを吸っている口腔は歯痛が心配である。一時でも清掃して歯茎に付着した糖分の酸化を防いでおかなければと考えた。洗面道具を狭いシートの中で準備するだけで、稔にはちょっとした事業だった。幸い女たちからの食料供給のおかげで昼食は十分である。稔は食事時間を利用して歯を磨いた。
グァダラハラへ着いた時はまだ明るかった。メヒコから五百八十キロ。東京〜大阪間の距離である。メキシコ第二の都会で、近郊にはメキシコの酒、テキーラ酒の原産地、テキーラ村も、動物陶器で有名なトナラの村も近い。女たちが持参の食料も食べ尽きていた。夕食はどうしてもここで採らねばならない。
トイレを探している間に稔は谷山と希理子を見失った。メヒコのテルミナル・ノルテ程ではないにしても大都会のバスターミナルは大きい。稔は二、三のレストランを覗いて見たが彼女らの姿はない。稔は女たちの姿を求めて混雑する場内をおろおろと歩いた。かなり重いショルダーをひきずるようにして。稔のポケットには二ペソしか残っていなかった。時間は刻々とたっていく。あと五分位かと思う頃、レストランから出てきた谷山と希理子に出会う。
「まだ食事をしていなかったの」 「あ、ペソがもうないんだ」 「でもドルを持っているでしょう。どこでもお釣りをくれわよ」
「そう思ったのだが、メヒコで絵葉書を買ったとき、ドルを出したらだめだと言われたんで」
「そんなことはないわ。私たちだってペソはないわよ。ドルを崩しているのよ。それよりもう食事をする時間ないし困っちゃうわね」
希理子は改めて母の影を求める迷い子の如く、おろおろと歩き廻っていた中年男を冷ややかに眺めた。それでも谷山は気の毒に思ったか
「私が何か買ってきてあげるわ。タコスでも何でもいいでしょう」 「悪いわね」
谷山は希理子に荷物を渡すと今出てきたレストランの方へ走って行った。
夜間も、そのバスは三、四時間置きにターミナルへ停車する。とある街で稔一人、座席で寝こむ女たちを残して外へ出た。トイレから出てきた稔の顔は久方ぶりに明るかった。スナックに入って、サンドイッチとティーを指差しで注文する。軽かった夕食の空腹も癒された。
実を言うと稔は十数時間ぶりに体内の水分の排泄に成功したのである。もちろん、稔は停車する度にトイレに走っている。しかし早朝、田井のマンションを出発して以来、一度も排泄されていなかった。稔は内心、誰にも話せずあせっていた。こんな経験は全くない。乾ききった大地が皮膚面から水分を奪うためなのか、それとも精神的に極度の緊張がもたらした結果なのか、稔が焦れば焦るほどトイレでの時間が消費されていた。冷えた夜風が稔の肌に染み渡ったのか、つまみだされた萎びれたペニスから濃く着色した液体がたらたらと流れ出た時、稔はようやく安堵した。
しかし今度は明け方にかけて、先程のしっぺ返しをくらったように歯痛に悩まされる。歯は昼間のドライブイン以来磨いていない。ずっと調子の良い口腔に先程のターミナルで油断し口の清掃を失意していた。どうやら夜は明け、またとある街のターミナルに、がっくりとベンチに座った稔を洗顔を済ました女たちは見つけた。
「橋本さん、どうしたの。疲れきった顔をして」
「だから言ったでしょう。バスは無理だから飛行機にしなさいって」
「僕は乗り物に強いし疲れたわけじゃないんだ。精神的に参っているんだ。他人が横にいると思うと、緊張し通しでだめなんだよ。食事の時だけでも場所をかえてくれない」
「じゃ、いいわよ。谷山さんに代わってもらって私の横にいらっしゃいな」
稔はやっと二十四時間ぶりに希理子と肩を並べてほっとした。それでも希理子は二人の方が触れ合うと、はじけるように身をよじっていた。
|