アステカの幻想(15)

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翌日、二人のいさかいは本物となる。混乱する稔。結局、谷山を交えた三人でバスにより米国行を決意した。




翌朝、稔はゆっくり起きて、希理子からの電話を待っていた。朝の中に島岡夫人の所へ帰国の挨拶に寄って、インクルヘンテスで待ち合わせることになっていた。レフォルマ通りの航空会社にアメリカ国内の周遊航空券のことを問い合わせたいと思ったからである。一週間以上アメリカ国内の路線を乗り継いで、旅行する外国人には二十パーセントの割引が得られるはずだった。食事もソナロッサで二人で取ろうと思っていた。しかし、十時も過ぎて起き出してきた稔に、谷山が気遣って朝食を仕度してくれる。希理子の電話が掛かったときはもう昼前になっていた。
「もうインスルヘンテスにいるの。島岡さんのところから電話させてもらえばよかったのに。仕度はしてあるから、すぐにでも出られるけれど。そこまで行くにはちょっと時間がかかるなあ。食事かって。ああ、谷山さんが作ってくれた」
「そう、それなら私も一旦、帰るわ」
 稔には特別後ろめたいものは何一つ感じていなかった。希理子も先日以来、稔一人東部を回って旅行していらっしゃいと、しきりに言っていた。稔がこの年では、アメリカまでもう一度来られるかどうか分からない。出来れば、ニューヨークやワシントンを一目でも見ておきたいと言っていたからだった。
谷山にメヒコで会えた以上、希理子は稔が余分なお荷物になりだした。谷山も希理子にリブの女たちのためのクリニックを見せたいと言っていたし、希理子も是非見に行きたいと言っていた。出来れば一週間でも、半月でも滞在していきたいらしかった。メヒコの様子は稔が希理子の手紙から想像していたものとは大きく変容し、新しい方向に傾斜しつつあった。
「私はこの二、三日段々に橋本さんという人がつまらない人に見えてきたわ。極く普通のわがままな障害者よ。あなたをそこまでにしてきたのは、あなたをそこまで支えてきた周りの人たちのおかげよ」
 二枚続きのガラスのサッシドアが開かれて外から帰ってきた希理子の顔は感情の嵐を押さえきるように固かった。
「もう私はあなたに対して、これまでのような見方は出来ないと思うの。仕事のお手伝いだって、今までのようには出来ないと思うわ。日本へ帰ったらこのまま、お別れしましょう。あなたには久美さんもいれば、子供さんもいる。私だけは一人なのよ」
 希理子は戸口から真っ直ぐ稔の横に座ると、一息にしゃべりたてていた。バスを降り、歩く道々考え続け組み立ててきた事ごとを一気に吐き出す。どこからどんな順序で話すべきかも計算し続けていたに違いない。
「それはね、橋本さんは私の知らないことでも、よく知っていらしたわ。だから橋本さんと仕事を続けていても、自分が啓発されていくようで楽しかった。今までしてきた仕事の中で一番気持ちよく仕事が続けられたと思う。でもメヒコへ来てから私の気持ちは変わってきたわ」
 稔は透明な気持ちで、これが愛想尽かしたと云うものかと思いなつつ聞いていた。いつかは予想していたことだが、思いの外早かったとも感じた。稔もリブの女たちには失望し始めてた。自己主張もエゴイズムも通じるように思われた。
希理子も勝手な女だと思う。アメリカは一人旅と言いながら、状況が変わって相手が見つかれば、きびすを返すが如く態度を一変する。何が女性解放、何が障害者差別かと思ってみた。俺の子をこんな女たちに産ませなくて良かったと思ってみた。こんな女たちの手で俺の子が育てられでもしたら俺の子が可哀想だと、こんな気もしていた。
 しかし女の愛想尽かしが次第に現実のものとなってくると、中年男の狼狽は徐々に高ぶり始めた。稔の抗弁も次第に支離滅裂となってくる。
「明日の飛行機でロスへ帰る。日本へ帰ったら、メキシコの女に三十五万円取られてしまいました。どうぞ勘弁して下さいと、手をついて家の母ちゃんに詫びるんだ」
と言ったかと思うと。
「今ここはアメリカ大陸、地球の裏側にいるんだよ。もう僕の年齢では、もう一度来られるかどうか分からない。伊豆の旅とは違うんだ。ぷいと怒って電車に乗って東京に帰るような訳にはいかない」
 と言ってみたり。何れにしても希理子の顰蹙を買うばかりだった。
「一人でアメリカ旅行をするなんて言い出したのは僕が悪かった。僕一人ではどうしても自信がない」
 と謝ってみたり、結局は
「谷山さんとバスでロサンゼルスへ行くのだろう。僕もバスで一緒に行く」
 と言い出した。疲れたと言って村中の部屋に引き下がり、腰抜けた稔をベットに横になって、見下す希理子の表情は益々固いものになっていた。
「そんなことを言ったって、谷山さんが一緒に行って良いと言ってくれるかどうか分からないわ」
 穏和な谷山が事実、同行を拒むとも思えなかったが、希理子はそう言う。全くメチャメチャだった。そこには五十に近い中年男の思慮も分別もなかった。二人の感情の糸は確実に縺れていた。稔もスラッターで敷かれた自分たちの部屋に戻り、希理子のベットに横になる。少しでも横になることによって、頭部に上る血液の圧を弱めようと試みた。

 翌日の午前、希理子と谷山はテルミナル・ノルテまでバスの切符を買いに行った。稔は相変わらず希理子のベットに横になったままである。何事も起こす気になれない。出発はまた一日遅れて、明後日の朝九時となった。
「谷山さんが夜行で出発しても、丸二日かかれば、ティハナへ着くのが夜になってしまう。泊まらないとロス行きのバスがないから、朝出発しようって」
 稔に報告する希理子の声にも諦めの中に、幾らかまろやかさが残っていた。
 ホテルメヒコの音と光のショーから帰ってきた希理子は、寒気を訴え始めていた。補助ベットに横になり、稔が「代わってやろう」という言葉にも戻ろうとしない。二人は一日交代でベットを替わることにしていたからだった。稔との間に妥協を許さぬ確たる一線を引こうとしているらしかった。
「今、風邪を引いたら大変だろう。折角、バスの切符を買ったって出発できなくなる」
 調度、村中が入ってきた。
「そうよ。大変じゃない。橋本さんに代わってもらった方がいいわよ」
 村中の言葉には希理子は意外と素直に起きあがった。
「橋本さん、さっきの国際電話半分出していただけません。橋本さんの言付けがQちゃんになかなか通じなくて、時間が掛かったものですから」
 何を言い出したかと稔は思った。先程明日ロサンゼルスへ出発する村中は最後の電話を東京へ掛けた。子供の航空券についての問い合わせだった。希理子も谷山も来月初めに帰ると伝言を頼んでいた。稔も予定の日には、帰れない旨を伝えて欲しいと頼んだ。しかし、Qちゃんには通じない。まさか稔がメキシコの空の下にいようとは思ってもいなかったのだろう。
確かにその間、十秒か二十秒かは空費している。それにしても、全体で一分少々、充分一通話で済んだはずだった。稔は他人から金を借りているくせにと思う。その金があるからこそ日本へも帰れるのではないか。電話料くらい利息と思っても当たり前だと思った。
 一時はカチンときた稔も、しばらしくて考え直す。村中も子供を抱えて日本まで帰ろうというのである。彼女のとっては一銭でもが今の自分にとっては貴重なものかもしれない。まして昨日から醜態を見せ続けた希理子の前だった。はかない男心意気を見せたいばかりのところだろう。
「いいよ。僕が全部出して置いてあげる。四百ペソだろう」
「本当にいいのですか。すみません」
 村中は嬉しそうに頭を下げた。稔は希理子から財布を受け取ってペソを渡す。希理子は静かに笑みをたたえて言った。
「橋本さんはメヒコにサンタクロースに来たみたいね」
 いくらか希理子も機嫌を直したらしい。翌朝早く村中は泣いてぐずる子供を宥め宥めロスへ向かう日本人学校の教師たちと一足早く、乗用車で三千キロの旅を出発して行った。

 稔も田井に誘われて谷山や希理子とファレス通りの民芸博物館へ出掛けていく。女たちは土産品の選択に余念がない。もうすでに希理子は稔が出がけに貸してやった航空カバンは満杯となり、もうほとんど収納する余裕は残されていない。メキシコは民芸品の宝庫である。マヤ、アステカの古代文明の伝統はメキシコ各地の民族のおもしろさ、色彩の豊かさに生かされている。
公営の博物館とはいっても、実際は展示販売場であったが、欲しいと思っても、買うという欲求の充定が得られない稔にはたいした興味も持てなかった。さりとて、メヒコ出たちを前にして、今更マンションに燻ぶるのもどうかと、街へ出てみただけに過ぎない。三人の女たちの後ろをとぼとぼとついていく去勢犬。
今の稔にとってメヒコは何の意欲も興味も起こさせない街になっていた。稔の靴は三日前ティテオワカンの死者の道を、雷のただ中、突き進んで以来、火山岩の石灰が重くこびり付いていた。出掛けにちり紙で拭ってみたが、そう簡単に落ちそうもなかった。街角の靴磨き屋の一段高い椅子に腰掛けて、三人の女たちを待たせ、口髭を蓄えたメソットの貫禄ある中年男に磨かせると幾らか気分も晴れやかになる。
 それでもその後、一・二時間は女たちの買い物につき合っていたのだろうか。ズボンはよれよれ、アンダーシャツの襟は曲がり、上衣の皺は目立つ我が身を意識していた。為すこともなく、広い店内のベンチに腰掛けて、女たちの買い物を眺めていたが、さすがに気持ちに息苦しさを感じる。絵葉書を買うのを口実に女たちと別れて、広い歩道の群衆の中に出た。
田井と希理子はまた島岡夫人を訪ねるつもりらしい。谷山はソカロ近くのメルカード市場に買い物があるとかで、稔についてきた。今の稔は谷山と歩むことすら気詰まりだった。その時の稔には、谷山と二人で洒落たレストランで食事を取ろうとのゆとりもなかった。折から空の雲行きが怪しい。午後の定期便は近ろう。
稔は谷山を避けるようにして、とある百貨店へと飛び込んだ。稔は大きく息をつく。女たちから解放された喜びのようなものが稔るの心を軽くする。ヨーロッパでもしてきたように、自分の商売(ナリアイ)である電気器具を見て回る。それらは完全に米国資本の支配下であるように思えた。
 三十分程で表へ出てみると、外はもう陽光の世界となっていた。濡れた歩道がキラキラと光っていた。アラメダ公園の緑もしっぽり湿らして生気を取り戻していた。インディオの大統領ベニト・ファレスの豪壮な記念碑の前を通ってまた公園の中に入る。もう再びこの公園に来ることもあるまいと思いながら、ベンチに腰掛ける。
もう何度もこの公園には来ていたような幻覚がある。しかしよく考えれば、まだ三度目に過ぎない。ここは地球の裏側ではないかと希理子と肩を寄せあって、抱いた丁度一週間前のベンチが、何年も昔の遠い出来事のように、稔の記憶の奥で霞んでいた。その翌々日、パーティの日で希理子とソカロ近くのトルティヤ食堂で別れて、初めてメヒコを一人歩きしラテンアメリカタワーに登った日以来だった。あどけない高校生のように小柄な婦人警官が二人、それらの日々と同じに水色のユニフォーム制服姿で肩を並べてパトロールしている。メヒコの婦人警官はどこで行動するにも二人一組なのだろう。
 メトロを乗り換えて帰りかけた稔は入口の路線地図で、インスルヘンテス駅の二つ先がチャペルテペックの駅であることに気付いた。例の絵記号の地図である。急に思いついて足を延ばしてみる。失われた過去の幻影を追うように。公園の閉園時間は迫っていた。人々の群はこの前と同じように出口へと向かっていた。稔は流れに逆らうようにして急ぐ。相変わらず失われた過去の幻影を求め続けていた。

 

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