雷鳴は轟く。稲妻は光る。雷雨は一時的に激しく安マンションの薄い屋根を叩いた。雨期に入ったメヒコは午後に決まったように雷雨がやってきた。今日で二日、稔はトウーラとテオティワカンの遺跡へ出掛けて以来、この五階の田井のマンションを一歩も出てはいない。今日の雷は特別に激しいようだった。
昨日も今日も一日窓際の希理子のベッドに横になっていた。窓越しに僅かに眺められる天空も黒一色に包まれて灯火なしでは窓辺に並ぶ本の表字も定かではない。狭い窓辺は無粋な黄ばんだ無地のカーテンに仕切られて、稔の心を一層寒々とさせた。不眠の希理子が夜中の読書のために、スタンド代わりに灯したローソクの燭台も味気なかった。燃え尽きた芯の端は黒く垂れ青磁の小皿は欠けていた。稔は時々起こる臼歯の激痛にさいなまれる。歯肉は腫れて稔の苛立った神経をキリキリと突き刺した。
虜囚、それも女の館、地球の果ての異国の空、稔には今の自分がぴったりと当てはまる気持ちがした。昨日はついに希理子が決裂を宜した。稔がメヒコに着いて三日目から燻り始めた暗雲も、ついに来るところまで来たのであろう。稔には希理子の心の変化は、八分通りは理解できる。田井女史も谷山も村ちゃんにしても、皆それなりにただ一人日本の男性である稔に細かく気は配っていてくれてはいても、各自がそれぞれに薄紙を残していた。
このメヒコの女館も解散の時期が刻々と迫っている。それだけに、その慌ただしさが全員の心を苛立たせるのであろう。女たちは毎夜の如く田井の部屋に集まり最終的な打ち合わせを続けているらしい。男の稔だけが孤立した形だった。昨夜もメキシコ女性カティを含めて、五人の女たちが田井の部屋にいた。一人稔はシャワーを浴びようと浴室に入る。洗面具入れのチャックにタオルの端が噛まれて、稔の麻痺した手では容易に開けられない。
「糸崎さん、悪いけれどちょっと頼む」
稔は女たちの部屋を軽くノックする。部屋の中から女たちの狼狽した声が鳴り響く。稔には何か異常とまで感じられた。
「駄目駄目、今は絶対開けちゃ駄目」 希理子の声がドアのそばへ近づいてきた。「何なの。後で話をするから今はドアを開けてはダメ」
「チャックが開かないんだ。悪いけれど開けて欲しい。洗面具の袋なのだけれど」 「ドアの端から入れなさいよ。開けて返すから」
それにしても、先程の部屋から感じた雰囲気はただ事ではなかった。女たちばかり五人、密室に集まり何をしていたのであろうか。淫らな空想が稔の心をよぎる。
「みんなが裸になって、谷山さんがアメリカのリブのクリニックから持ってきた女の健康状態を計る機械のテストをしていたの。子宮に試験紙を入れて、色の変化でそれが分かるのよ」
後で希理子の弁明を聞きながら、女の館に一人捕虜となっている中年男は邪淫な空想に耽った。五人の女たちの全裸姿、あるいは器物を挿入し、下半身の裸体。数年前の最初のリブで合宿で行われたという女ばかりの全裸パーティー。希理子の稚気な上半身が週刊誌のグラビアに載っていた。そうした脆弱な裸形像は稔の心を一層淫靡なものに駆り立てた。
希理子はチャペルテペックの公園で最初の宣言をしてから、同じ部屋に寝起きしていても、稔には肌を見せなくなっていた。伊豆の旅と同じ赤い水玉模様のネグリジェをつけてはいたが、あの日以来、着替えは村中の部屋でしてきた。希理子は男は衝動的な動物で女が視覚的に誘発しなければ発情しないと思っているらしい。
村中は一日早く明朝、ロスへ出発するという。勤務していた日本人学校の同僚がロスまで行く車に便乗させてもらうらしい。午前中谷山とバスの切符を買いに行った希理子は明後日の朝出発と定めた。虜囚の暮らしがまた一日続くかと思うと、やり切れない気持ちになる。本来ならば希理子とアメリカを旅していた筈だった。
グランドキャニオンからラスベガス、ディズニーランドは別に興味はないが、ホットな二人で行くならそれも楽しかろう。やはりサンフランシスコへ行って、金門橋を眺めオールドファッションのケーブルにも乗ってみたかった。希理子の手紙にも書いてあった。いつ、どこと指定して下されば、そこへ参ります。ついと希理子のこんな言葉に従って、ふらふらとメキシコまで足を伸ばしたばかりに、こんな羽目に陥ったかと自分を省みる。
何故こんな国までやってきたのだろうか。自分が自分で馬鹿らしくなってくる。水一杯満足に飲めない出鱈目な国、無茶苦茶な運転をする車。いい加減な男たち。あれ程反対していた久美を振り切ってのこのこメキシコくんだりまで出掛けて来た自分。何故もう一月、希理子の帰りを待てなかったのだろうか。愚かという言葉だけが稔の胸に響いていた。
もう昨日からメキシコを見物して回る情熱も稔には失われていた。たとえ予定では米国へ出発の日であったとしても、その気になれば幾らでも見物する場所は残っていたはずだった。しかし稔にはその気は全く起こらない。ただ愚かな中年男は、若い年下女の機嫌伺いに明け暮れる。その晩はダニエルが開いてくれた送別の宴だった。
終わってから、谷山と希理子がホテル・メキシコのシケイロスの壁画による光と音のショーを見に行くという。だがやはり稔は付いていく気もなれない。下腹部の調子が怪しくなって高地の冷え込む夜空の街へくり込む自信のなかったのも事実だが、その時の稔には明るい太陽、華のメキシコにも何の情熱すら感じなくなっていたのであった。
「私やっぱりメキシコに惹かれるわ。初めは出てみていい加減な国のようにも思えたけれど、アメリカに八ヶ月生活してみると、もう一度メヒコに来てみたかった。私たちとの肌合いにアメリカでは得られない何かがあるもの。もう一度、来られるとしたら、メキシコに来たいな。橋本さんもそうは思いません」
ダニエルの買ってきたメキシコ料理はチレと呼ばれる大型のピーマンに肉を詰めて煮込んだもので、先日稔たちがガルバルリーの屋台で食べたものに似ている。メヒコの庶民の味が舌に漂った。谷山は稔の料理の皿にナイフを入れながら稔に話しかけたが、稔の心にそんな気を全く起こさせない。さりとて打ち消しもならず、「はあ」と曖昧な答えが口からにじり出てくる。
何が太陽と情熱の国だと思う。文盲と乞食の国のようにも思えた。水一杯満足に飲めないで、幸い稔は水には自信があった。それでも希理子に正露丸を放り込まれた。クレオソートの匂いがいつまでも残る。希理子から聞いた下痢が止まらず、ついに日本へ逃げ帰ったある日本大使の話を思い出す。
何処へ行っても稔の何でも見てやろうの情熱は、いつも周囲の人々を驚かしていた。あの体でねえ、半分眉をひそめていたかもしれないが、なりふり構わずピョコピョコと、百年前から英国の医者リットルが名付けたように、独特の歩き方で次から次へと精力的に旅のスケージュールをこなしていった。稔の企画した旅には、食事する暇さえないと家族の者はこぼす。現に、一昨日トウーラとテオティワカン、トルテカ文明の世界からオルメカ文明の世界まで一日で飛び回って来ている。希理子さえ驚きの声をあげていた。
「ピラミッド一つ行くだけで一日のコースよ。それを一日で二つとも見てきて回ろうなんて、橋本さんは全くエネルギッシュなのね」
稔が雷の「死者の道」を一人で歩んで入口のビルまで帰ってきたときには、影一つ見えなかった。駐車場の検問のガードマンが黙って金網を開けてくれた。メヒコ行きの満員のバスに手を挙げて、ようやく停め一人乗り込んだ。遺跡の前には稔の他に人影はなかった。もっともたった一組、ハイウェイの自動車客相手か、前二輪の三輪自転車を押していた。その親子連れのジュース売りも、稔の乾ききった喉を潤すと、逃げるように立ち去った。
お下げの十ばかりの女の子が不思議そうに稔を見ている。インデオの血の濃そうな顔だった。雨はかなり強くなって砂礫の中のハイウェイを湿らし、メヒコへ疾走する車のタイヤを滑らせた。「ハウマッチ」と尋ねても通じない。スペイン語の数を全く知らない稔は「ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ」と五まで数えて見せたが、駄目だった。仕方なく五ペソの札を取り出して釣りを貰う。コーラとペプシの世界である。ヨーロッパでは一度もこんな経験はない。親子はハイウェイのただ中に稔を一人残して、そそくさと立ち去った。
ようやく乗り込んだバスも、日曜の行楽帰りでメヒコまで立ち通しである。稔を見ても誰も町中のバスと違い席を替わってくれる人はいなかった。メヒコに近づくに連れて渋滞は激しくなる。時間は往路の倍近くかかっているように思われた。テルミナル、ノルテに着いて車掌に二十ペソの紙幣を差し出しても、受け取ろうとしない。お前はいいんだというように、手を振る。稔はメキシコはメキシコなりに障害者を遇するものだと、稔は思った。テルミナル、ノルテからインスルヘンテス行きの定員バスのデルフィンも長い行列である。従ってマンションに着いたときは、九時をとうに回っていた。田井女史も希理子も心配していたらしい。稔は途中で電話をすべきだったと後悔した。
食事を済ませてから希理子は今日調べてきたアメリカ行きのスケージュールについて話した。
「グランドキャニオンに行くには、やっぱりフェニックスへ直行するのが一番近そうね。でもバスだと大変。四十八時間はかかるのよ。ちょっときついでしょう。飛行機もあるらしいので、レフォルマ通りのアメリカの航空会社まで行って調べてきたわ。一人百三十ドル、ロスへ行くよりちょっと高いような気がする。間違いかもしれないから、もう一度調べるわ。だけど毎日はないの。月、水、金だけ。明日は月曜日だけど、とても無理でしょう。水曜日ということになるんじゃないかしら」
水曜日と聞いて稔はがっかりした。今日は無理して二つのピラミッドを掛け持ちして来たというのに、まだ二日もメヒコで空費しなければならない。一応、久美には今週中に帰る予定にしてきた。二日の空費は貴重なものに思えた。それに飛行機で行くとなると、バスと云うから二人でその分だけ節約すればよいと、村中に貸した五百ドルも貴重になってきた。
「アメリカのホテルはどのくらいかしら」 「ツインでも二十ドルはみなくては駄目よ。何でも物価が高いから」
谷山は八ヶ月ほどオークランドのリブのクリニックを手伝ってから、東部を廻ってラレドからメキシコに入ってきている。
「食事も高くてまずい。ハンバーグとビフテキしかない国みたい。アメリカ人ってよくあんなもの食べているかと思うわ」
希理子は谷山に相談しながらアメリカ旅行のスケージュールを立てていた。稔は最初ざっとなりとも、建国二百年のアメリカを一応一通り回ってみたいと思っていた。今となっては経済的にも時間的にも無理なので、西部だけでもと思っていたが、この様子では経済的にも怪しい。未知の国なればこそ余分な金を持つべきなのにと思うと稔は腹立たしかった。
希理子はそれに稔を先へ日本へ帰すつもりらしい。谷山は航空券の期限の切れる来月初めまで、家を借りているオークランドに残るつもりでいる。希理子もそれまで一緒に残るつもりらしい。手紙ではたった一人の希理子、一人旅の希理子と書かれてあったのに。とにかく、なにがなんでもメキシコまで行けば二人旅して太平洋を戻れるのだと信じて出掛けた自分が馬鹿らしい。
「いいよ。それなら二人で旅行は無理だから。僕一人で東部を回って帰るよ」
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