崩れたシウダデラの端から無事に地上に降り立った稔は今までの緊張から解きほぐされて、足は一人で向いていた。彼方に小山のごとく見えるピラミッドの方に。体内の老廃物が?のブッシュ茂みに排泄される。全く人影は絶えていた。昼前マンションを出てから初めてだった。乾燥しきっているのか、どうしても、皮膚面から奪われる水分が多くなる。尿意の少なさに自分でも驚く。濃く着色された液体が灰色の大地に色を付けたが、瞬く間に染み通り、その色も褪せた。稔は爽快である。一段と開放感がその心を被う。黒ずんでいた空も幾らか明るさを取り戻したように思えた。ピラミッドの頂点も、?の小さな林に瞬時隠されたが、方角だけは確かだった。
小さな段丘を上って稔はほうとため息をつく。荒廃した大地の中にも安らぎがあるものだと思った。小さな窪地は緑園である。真ん中に泉があるらしい。そこからせせらぎが流れて「死者の道」へと向かっている。稔の足でも、一跨ぎ出来る幅である。それでも稔の乾ききった靴底を湿らせ、その窪地全体を緑で被っていた。数頭の裸馬がのどかに草をは食んでいた。砂礫の大地の、これがオアシスなのかと稔は思った。
太陽のピラミッドを目指して十分余り歩むともうその真下に出ていた。まだ頂上には人影がある。何事か大声で呼び合う声が今までの静寂さを破って稔の耳に響く。高さ六十三メートルと聞いて東京の超高層ビルと比較し、さほどにも感じていなかったが底面の一辺が二百二十五メートル、容積百万立方メートルと実際にその真下に出てみて規模の雄大さに驚かされた。一億万個の干し煉瓦を使用しているともいう。
ピラミッドそれ自体の周囲も、まだその周りの遺跡群も先程のシウダデラと同じく黒と茶の火山岩を白い漆喰で塗り固めてモザイクの感じを浮き出させている。それぞれ石段のついた基壇が造成地の石垣を思わせ果てしなく続いていた。諸々の神々の神殿の跡が、または神官や貴族たちの住居があったのか。メキシコ全土から、実際にその影響は放射状に広がりガァテマラの辺りまで達しているという。その各地から集まり散っていった巡礼者たちの宿泊施設、お籠り場もあったに違いない。
紀元三世紀から七世紀にかけて日本の弥生後期から奈良時代まであろう。神の都としてテォティワカンは華と栄えた。都市としての面積はおよそ二十二平方キロ、人口は八方から十万と云われている。神をその王者とする平和な都だった。
先程の稔が見た小さなオアシスのように緑の農耕民族たちの平和な楽園だった。トウモロコシ、インゲン豆、鶏頭やピーマン、トマト、唐辛子など、綿こそこの地帯には馴染まなかったが、マゲイ竜舌蘭が繊維を供給した。農民たちは定着し雨の神トラロックの加護を信じ、また啓発の神である翼蛇のケツアルコアトルの祭祀を行った。彼らは彼岸の生活を天国の中にあると信じ、現世の天国としてテオティワカンは慈悲深いトラロックとケツアルコアトルの守護のもと、幸福な人々の平和な歓喜を歌う熱帯の楽園だったのであった。
だが、その神の都テォティワカンも何故か次第に衰微し崩壊していく。その謎は今もって分からない。そして、この唐突な崩壊の後は壮大な廃墟と化して永い眠りについていたのである。
その原因についてある人は男女の極端な不均衡とも云う。またある人は天変地異、またある人は疫病流行と。いずれも憶測だけで誰も決定的な証拠は持っていなかった。だが、この平和な楽園も北からの野蛮な未開の狩猟民族たちの脅威を絶えず受けていたことだけは確かだ。トルテカ族が先程のトウーラに都を定めたのも平安時代、アステカ族は日本なら足利の時代に入ってからだった。これらの後になって有名な文化を築いた種族は別にしても絶えず豊かなメキシコの中央高原へは、北方からの数多の種族が定住の場所を求めて狙っていたのである。
トルテカの都、トウーラの陥落した年はあの特有な絵文字でよく分かっている。1168年、平安末期、まだ平家一門が全盛を続けていた。しかし、ここでもその原因は明白ではない。恐らく内紛とか、凶作、或いは同じく北方から別の種族の襲来など、主なる原因として考えてみるより仕方ない。
トルテカの歴史を180年ほど遡ろう。日本ならば平安貴族文化の最盛期、女流文学の才媛たちも娘盛りの頃だった。まさにトウーラに都を定めて百年あまりトルテカ文化も華と開花せんとしていた時である。
今日もトルテカ王トルシトルは輿を担がせて、家臣たちを従え、遠くテォティワカンの地まで歩を進めている。黒い髪、黒い口髭、白哲な面差しとキリリとしまった口許には、王の聡明な知性と理性の断面をのぞかしていた。トルコ石の王冠、ケツアル鳥の羽毛を巧みに幾何学模様に織り込んだマントを羽織り、十字の刺繍が中央に施された下帯を垂らす。その威厳に満ち満ちた風貌をトルテカの国民たちが、ケツアルコアトルの化身として崇めていたのも頷ける。
その当時のテォティワカンは衰帯期に入っていた。だがまだ石壁に棕櫚の葉で葺かれた神官たちの住居も幾らかは残っていただろう。しかし神都として栄えた昔を偲ぶ由がもなく。その昔人口十万といわれた広い街路にも、乾ききった土埃にまみれた廃屋だけが目立っていた。
王は今ケツアルコアトルの神殿から下ってきた。この神を祭る神殿だけは円屋根で造られるのが普通である。それはたぶん宵の明星、明けの明星、金星の神だからであろう。風の神であり、文化の神、人間に文学、暦、それに芸術を教えた神でもあった。このケツアルコアトルの神殿にも荒廃が目立っていた。茅ぶきの屋根の片隅は破れ、丸太の柱もその何本かは傾く。ピラミッドの下へ降り立った王は傍らの家臣の一人を省みる。
「恐れ多し、神殿のこの有り様、修復の料を奉れ」
畏まってその家臣は王の命を受けた。集まっていたケツアルコアトルの神官たちも一斉に黍の穂の靡くが如く
「悉じけなし」 と王の前にひれ伏した。王は満足げに見渡して、蝶、鳥、蛇の入れられた籠を運ぶよう供の者に命じた。ケツアルコアトルの生贅に捧げるためだった。老いた神官の一人が進み出た。
「王よ。人見御供はなりませぬ。翼蛇は決して人血を欲し給わぬ。何故なら翼蛇は地獄より干からびた死人を盗みだし、おのが生き血を注いで我々の祖先を造り給うた」
古代メキシコの傳説では、現世は五番目の世界になっていた。過去の四つの世界は、ジャガーと風と火山と洪水の四つの力によって、それぞれの世界の人間たちは壊滅されていたという。王は鷹揚に頷く。別の若い神官が進み出た。
「王よ。人身御供はなりませぬ。翼蛇は決して人血を欲し給わぬ。されど王の都、トウーラでは近頃内密に人身をテスカトリポカに捧げているとか。夜空の神は翼蛇の仇でありますぞ」
王はキッとして群臣の中の一人を見据えた。それは王の弟宮守り役を務めた家臣だった。王は厳かに群臣に言い渡す。
「予の命に背向き、たとえ敵(カタキ)領鎖諭△泙燭賄枸譴燭蠅箸發修凌遊譴鮨静造卜・垢海函・任犬撞・気検
しかし王は知っていた。最近、王に内密で人身御供が神殿に捧げられたことを。元来が狩猟の民であるトルテカ族は、たとえ定住の地を得て農耕の民となり得ても祖先からの血が騒ぐのであろうか。先日も寵姫の一人から肉身が生贅に捧げられたと涙ながらの訴えをも聞いている。ピラミッドの下に置かれた仰向けの人身を形どったチャックの石像の上、そこに置かれた心臓も豚のそれとは思えなかった。恐らく弟宮側の差し金だろうと王は思っている。
近年の凶作原因も、太陽を中心に天体の潤滑油としての働きをなす人間の生血が不足したためと世評が流布されている。それも王は知っていたが、今更聡明な王は肉親と争い内紛を起こして平和な国を乱したいとは思わない。黒い髪、黒い口髭、白哲な面差しに愁いをキリリとしまった口許に漂わせていた。
雷が響く。稲妻が光る。雷雨も乾ききった大地から、?み出るようにして、稔の夏のシャツの上に羽織った派手な黄色のカーディガンを湿らせた。全てが地の底から湧き出てくるが如く、稔には感じられた。雷は大地を揺すっていた。電光は地平線の果てから、天空に延びていた。雨は決して乾燥した溶岩混じりの砂礫の地表をしっぽりと濡らすことはなかった。遮るものとてない広漠なる大地に立つと、夕立も人間にこんな錯覚を与えるものなのだろうか。稔はただ一人「死者の道」を歩んでいる。人影は全く途絶えていた。背面には遠く 「死者の道」の正面に、月のピラミッドが遠望されるはずである。稔はただひたすら墨と緋色の浴岩まじりの砂礫の大地を歩む。先程入場してきた入口のビルを目指し、自らをいにしえ古代の勇者に疑して歩んでいた。
トルテカ王トルシトルも僅かの供を従えて砂礫の大地を東の空へと歩んでいた。王の住んだトウーラの都も遙か彼方である。トウーラの神殿では血に飢えたテスカトリポカのために、ここのところ毎夜の如く生贅が捧げられ黒耀石のナイフで切り裂かれ、胸から取り出された心臓は、チャックの人像石の上で鮮血にまみれながらピクピクと脈打っていることだろう。
テスカトリポカを奉する一派の奸計に敗れトウーラを去りゆく王、芸術を愛し人民に金銀や宝石、硬毛の細工、或いは羽毛のモザイクなど、様々な技術を教え人民たちの敬愛を一身に集めていた王、それは後世、アステカの職人たちが「トルテカ」の称号をもっていたように、ケツアルコアトルの化身として崇め尊ばれてきた。
「予は東の赤と黒の国に去らん。しかし、いつの日か再びこの国に戻らん。その時汝等には大いなる災厄が降り、それは『葦の一の年』に当たらん」
と有名な予言を残し東の国に去った。トルテカの神王が云う赤と黒の国とは実際にはマヤを指していた。稔が毎夜の如く憑かれたようにメヒコへ掛け続けた先月の初め、希理子が田井女史と旅したユカタンのチチェン・イツアの遺跡にはマヤ文化の中にトルテカの影響が色濃く残っていたはずだった。戦士の神殿と呼ばれたピラミッドはトウーラのそれと全く類似しており、神殿入口のチャックの人石像も同じ人物の作品とまで思われる程だった。
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