今年の初め田井は山本に五十万ほどの金額を用立てた。自分のメキシコにおける生活費として持参してきた一部である。山本は現在メキシコで最も人気のある闘牛士の一人マロノ・マルチネスの写真展を開くと云う。
田井女史には生来の活動家らしい義侠心に近いものを持っている。異国でその国の文化活動に情熱を示す山本に田井は彼女なりに感ずるところがあったのだろう。写真展ではある程度の作品が売却できる目算があった。しかし結果は裏目に出た。写真展はどうやら成功に終わったが作品はほとんど売れなかった。借金だけが残る事になる。もちろん田井の金もだった。
彼女からの手紙にあったように、道を開くくらいなら感謝感激雨あられという親切も、それ以上となると万事が厳しい風土となる。一握りの金持ちと大多数の貧乏人、スペイン、アメリカ、それに短期間であっても、フランスまで絡んだ侵略の歴史。手前勝手な快楽主義がまず第一で相手の立場などと考えていたら、一周りも遅れてしまう国、希理子も書いていた。今日「ズイ(イエス)」と言って、明日には「ノウ」と答えても、何の悪びれもしない男たち。そんな風土の中でマンションの支払いに妊婦の田井が大きな腹を抱えて孤軍奮闘していたのである。
そんな所へ飛び込んで行ったのが希理子だった。どこの国でも外国人に不動産の購入に対する規則は厳しい。観光ビザしか持たぬ田井は山本の名義でマンションを買っていた。
「着いたらすぐに書くのは無心の手紙ばかり。山本さんという人が刑務所へ行かなくてはならなくなるのですって、向こうは日本と違って随分大変らしいのね」
希理子からの手紙を持って毎日ベラクルスへ通う。稔にお峯が告げた話である。お峯も希理子が哀れでならないと言っていた。それなればこそ希理子が出発前に、
「おじ様、メキシコへ出資なさらない。必ず儲かる話ですって、田井さんがマンションを買うの。向こうも住宅不足だから、なかなか買えないそうよ。うまく安く手に入ったらしいの。二、三年経てば倍になるそうよ」
「そうかい、それもいいけど、このおじ様だって商人だよ。海の彼方の何も見たこともない物件に、抵当も担保もなくて出資するようなお人良しじゃない」
にべもなく断ったはずの稔だったが、自分の敬愛する仲間のため身も心も粉にして気使ういじらしさに後先の区別なくなり、ただ送金してやったのだった。
ミス山本は六十に近いとはいうが、やはり一人暮しの気安さで年齢よりも一世代は若く見えた。帰国の挨拶に希理子が来ないのを気にして、ヒステリックに何度かけてよこした電話の主も、実際は面と向かえば育ちのよい気品あふれる女性である。そして自分が貴族の娘という気位の中に、若くして一人恋人を追って外国へまで飛んで行った情熱の強さを、細面の顔に引き締めてその細い肩の先にも感じられる。
「本当によくいらっしゃったわ。でもメキシコっていう国はおもしろいでしょ。ロンドンやパリにもいらしたそうだけど、この国にはああしたヨーロッパの国々にない魅力があるのね。」
稔の話は希理子の口から聞いていたらしい。彼女の後には電話機の黒いコードが長く延ばしておかれていた。室内のどこの位置へも持ち運べる。稔は一月半程前、夢中で毎夜のごとく発信していた相手がこれなのかと今更のようにそれを眺めていた。
「私もおじ様のお蔭で、あちらの色々な方とお付き合いをしていただきましたけれど、やっぱりメヒコはいいですよ」 「もうお長いのですか」
「こちらへやってきたのは戦後ですけれど、二十年以上になります」
彼女が会話の中で直ぐに持ち出すお爺様とは海軍大将山本権兵衛の事だった。しかし残念ながら、希理子には大将山本の名前は通じなかったらしい。総理二回の肩書きも希理子の世代では皆無、昔の海軍大将といっても東郷の名位しか通じないのだろう。稔にはすぐに大正という稔の誕生以前の世代であっても、その名前はピンとくる。シーメンズ事件である。まだ稔の生まれていない大正の世代の話には違いないが、日本海軍の軍艦汚職としてよく知られていた。
今年の始め稔が希理子と事を起こした頃から連日のように、ロッキード事件がテレビや新聞紙上を賑わしている。空前の汚職に発展する可能性を秘めていた。恐らく稔が出発して一周間、一度も新聞をも手にしていないが、連日トップ記事を飾っていることだろう。希理子が羽田から出発してからの二ヶ月も全く同じだった。
この間のショッキングな事件と言えば、この事件の重大関係者であり昔から右翼の大立役者として有名で、政界の内幕といわれたき某氏の邸宅へ、映画俳優くずれのキザな若い男がセスナ機で特攻機気取りもよろしく、飛び込んでいったこと位ではなかったか。
稔が台湾に久美と遊んでいた頃だった。このショッキングな事件は「カミカゼ」として全世界に報道されたらしい。希理子もよく知っていた。大正初期の政界を震撼されたシーメンズ事件も今度のロッキード事件も、外国商社という点で、その性格が非常に類似していた。その中心的人物が誰なのか一般の国民の目にもおぼろげながら想像はできたが、あまりにも大物であるため事件はもうすでに半年近いというのに、なかなか進展していかない。与党にとって握り潰す機会を耽々と狙っていることだけは間違いなかった。
山本にとって祖父の決して名誉とはならないであろうシーメンズ事件を話題としてみても、彼女自尊心を傷つけるだけであろうと稔は一切口には出さなかった。実際にはこの事件では次期海軍大臣と目されていた某中将が逮捕されたが、山本内閣はその責を負って総辞職したのみで事件はこれ以上に発展していない。
後年、戦後になって検事総長平沼はその回顧録の中で、当時十万からの金額が海軍大臣に渡っていた事を司直は察知していたと述べている。この某中将が言うように政治というものは金がかかる。海軍という人脈を通して総理にも延びていただろうことは想像にかたくない。山本権兵衛はこの後、約十年後第二次山本内閣を組織し、海軍大臣の斉藤もそれからまた十年後、内閣を組閣されている。云うまでもないが二、二、六事件の首相は斉藤だった。
山本は懐かしそうに昔の話をする。孫として一番可愛がってもらった祖父。南国の故郷、鹿児島。学習院当時の友達や従兄たち。アルバムまで取り出して写真を示しながら、失われた過去を熱心に語っていた。稔が彼女の敬愛する祖父の名をよく知っていたことに満足していたようだった。三年ほど前に一度日本へ帰ったきりらしい。過去の形骸を得々として語っていた。希理子も山本の紹介で土曜日毎に日本語を教えに行ったメキシコ人の所へ挨拶に行くと言う。古びた階段をとこんとこんと皮底と金属音を交互に響かせて二階へ上がっていった。
「T学園の小原先生はご存知ですか。小原先生は鹿児島のご出身ですし、私は中学がT学園だったの」
「小原さんならよく知っていますよ。私の幼い頃、よく屋敷へ挨拶に来られましたよ」
自由な教育方針で知られたT学園も戦時中は陸海軍の将官たちと関連をもっていた。小原園長が鹿児島出身ということもあろうが、とにかく山本には日本に帰ったとしても、もう旧華族という名称の他には頼れるべき何物もない。かと言ってメヒコに格別の生活の糧があるわけはなかった。彼女の借家の一部に下宿人を置くとか、在留邦人の世話を焼いて謝礼をもらうとか。日本大使館への情報提供など。それはそれで名門の出であることは日本人仲間の信用は得られる。
「糸崎さんはまだ私の本を読んでなかったの。読んだら田井さんの所へ置いていってくれればいいね。谷山さんがガテマラへ行くというから、日本大使館へ言付けの手紙を頼もうと思ってね」
数年前に日本で発行された本である。キューバ奴隷の自伝だった。彼女は自分の翻訳本が日本に居ながら読んでいないのは、不思議であると言わんばかりの口振りだった。それでも二人が帰路アメリカに寄り福祉施設を見学したいと話すと、ロスにいる親友を紹介してくれると言ってくれた。電話も掛けてくれるらしかった。
稔は希理子とメヒコの夜の街へ出てみたが明るいネオンも味気なかった。ここもインスルヘンテスに近い。夜が更けてからガルバルディ広場へ行くことになっている。そこでどうせならと思うと食事も取れない。海の外には同じ日本の血を分けた人たちでも、それぞれに自分の道に従って生きていく。様々の人生模様があるのだなと稔は思っていた。希理子はマンションへ帰る途中で棕櫚の葉に包んだ蒸したタマリを買って来る。田井と谷山はカティの家へ行ったまま帰らなかった。
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