「日本人の男ってどうしてあんなに醜いんだろうね。特に糸崎、きょう乗った飛行機から降りてきた若い男たち、ひどかったと思わない」
「そうね、税関から出てくる日本人、橋本さんを入れてみんな男ばかり五人ほどだったけれど、みんな背が低かったわね」
田井の言葉に希理子は相槌を打つ。田井の新しいマンションである。五階建ての日本流に言えば3LDKなのだろうが面積はずっと広い。しかしメヒコも、ごみごみした町中にあるのだから安普請が目立った。それでもこの辺りの一角ではシャワーがある高級住宅であるらしかった。
田井の部屋は最上階の五階だ。もちろんこの程度の高級住宅にエレベーターがつくわけもないから、ごとごととゆるやかな階段を上る。さすがに海抜二千三百メートルの高地だけに急ぐと息切れがした。田井はこのマンションを四百万円で手に入れたという。日本に比べれば四分の一に近い価格だろう。
空港の税関からようよう荷物を手押し車に積んで、長い回廊を歩いてくる稔の姿に希理子と田井が声をかける。相当目立った腹部で妊娠七ヶ月に近い田井が空港まで出迎えてくれたのは意外だった。
飛行機はいくらか遅れたらしく田井たちはこの入口で三十分以上、待たされていたらしい。そこで何人かの日本の男たちを見たのであろう。確かにカスティソといっても、ラテン系のセム族の血が濃く流れているメキシコを見慣れた目には日本人が醜怪に見えるのも無理はない。蒙古系とでも言うか東洋人の低い鼻、小さな目、彫りの浅い顔が決定的となる。インディオは本来、太平洋を渡ってきた東洋系民族とされているが血液の融和は新しい種の誕生となった。
美醜の問題は属している社会の文化によって決定されるのだから、別に日本人が特に西洋人に対して劣等感を抱く必要もない。とは思いつつも卑屈になりがちなのは、明治以降の西欧文化一辺倒の現れなのだろう。
「日本の男たちが西欧の文化圏の中で、とりわけ醜く見えるのは何も外見だけが問題じゃないと思うね」
ウーマンりぶの女親分らしく、田井女史は子分たちを睥睨する。 「メヒコに住んでいる字もろくに読めないような男たちでさえ、立派な男らしく見えるよ」
「メキシコの男たちには女以上にエレガントという言葉の意味を大事にするもの」
今朝、機内や空港で会った何人かメキシコ男の旅行者はスーツケース以外に、自分の着替えスーツをハンガーに掛けカバーをして持ちにくそうに持ち歩いていた。スーツケースに入れると着崩れてくるからだろう。
空港のトイレでは八、九歳の男の子が一生懸命、鏡に向かって七三に分けた髪をなでつけていた。クシはないらしく手で水をすくっては器用に指でなでつける。その鏡に合わせてる姿は日本なら伊達男の所作だろう。それが小さな男の子だっただけに稔の目には異様に映った。
稔は自分の税関から出てきた姿を考えてみた。もちろん脳性マヒである稔がカッコよく出てくるものとは、希理子も田井女史も期待していなかったろう。前屈みになって体の重心を肩先に置き、両膝がついた左脚はX状に曲がり、つま立ちになってピョコピョコ歩く。それも落ち着いてゆったり歩いていたことだろう。恐らく三十時間の長旅には上着も着崩れ、ワイシャツもズボン上で不用な皺を作り、袖 口もねじれていたに違いなかった。服を上手に着こなすには相当の運動神経の熟達を必要とする。ボストンバッグのファスナーも開けたままだった。運動中枢に障害ある脳性マヒ者とはいえ、もう少し何とかならぬものだったかと悔やまれた。
恐らく稔と一緒に税関を出て来た日本の男たちは、ほとんど酒瓶を抱えていたに違いない。海外へ出て帰路に夢中になって洋酒を買いあさるのが日本観光客らしい。稔の存在は問題外としても、照れ屋の日本の男たちが久しぶりに見る田井や希理子の目には泥臭くみえるだろう。
「橋本さん、何かなめているの」
右の頬が腫れ上がっていたらしい。希理子は稔に尋ねた。それにしても飴をなめているにしては可愛いと思ったのだろう。稔は気づかなかったが、虫歯は歯肉に化膿して頬まで腫れ上がってしまっていたらしい。出発日の夕方そばの歯科医に治療の約束をしてあったにも拘わらず、ついに何らの治療もほどこしてはもらえなかった。
羽田をたってすぐ第一回目の食事が済むと稔は早速歯痛に悩まされた。稔は洗面道具を手荷物として預けた大型のボストンバッグに入れてしまったのを思い出したのである。ホノルルまでの数時間、右下の奥の臼歯が周期的にうずいてくるのをじっと堪えた。稔の障害にかこつけて積極的な治療をほどこそうとしない歯科医が恨めしかった。
ホノルルでの税関の手荷物検査の時、どうにか洗面道具を取り出して歯を磨いたが、患部につまった食滓はそのまま発酵して歯肉を化膿させていたらしい。
「いや、歯が痛いんだ。そんなに腫れているかい」 稔は頬に手をやる。普段とは違う異物感が指に伝わった。
「疲れているのでしょう。だから腫れるのよ」
確かに疲れ切った感じだった。ロスでの一睡もできなかった夜が今となってこたえてくる。メソットの子供たちが二人の周りを囲んでいる。何か銭の種にならぬかと窺っていた。手に手に新聞や菓子の類を持っていたが、どの目もはしっこかった。
「両替はどこですか」 「ここの銀行は午前中だけ。明日にしましょう。私も持っているから大丈夫」 「空港なら両替してくれるはずだが」
希理子は何も物売りをしていない一番少なそうな七、八つの子供に尋た。 「空港の中にあるようよ。二十四時間やっているって」
子供は希理子の手を引いて両替所に導く。 「一応、百ドルもあればいいんだろう」
「そんなに、ここではそれだけあれば、ずいぶん使い出があるわよ」
ベラクルスのお峯に書いた手紙には倹約して食費は一ヶ月五十ドルで三人食べていますと、希理子の旅費も田井のために出してやった。それを聞いた稔はたまらず送金したのだった。
両替所はすぐ前のコーヒーショップのようだった。両替が終わっても子供たちは立ち去ろうとはしない。希理子が気づいて小銭を与えると、一番小さな男の子は我が意を得たと得意げな表情をして立ち去った。
田井が戻ってきた。タクシーとの交渉は不成立だという。
「メトロにしようよ。このくらいの荷物だったら私たちで持ってあげる。六十ペソだというんだものばからしい」
メキシコは相乗りタクシーが盛んだと聞いていた。田井もそれを交渉していたようだが適当な乗客は見つからなかったらしい。それを聞いて稔はがっかりした。何か体が糸のように抜けて、くたくたとした感じだった。荷物もあることだしタクシーで直行できるものとばかり思っていた。山登りには慣れているつもりでも海抜二千三百メートル、気圧変化が高所障害を起こしているのか、稔の体は地の上に足がついていない感じだった。
「六十ペソって大体千五百円位だろう。そのくらいだったら乗ればいいのに」 稔はもちろん料金を払うつもりでいたから不満気に希理子に問うた。
「ええそうよ、でもこちらでは貴重なの。私と奈津さんで荷物を持ってあげるから大丈夫よ」
妊婦と障害者の女が持つというのである。確かに一月五千円の食費とすれば、千五百円は貴重だろう。ええ、郷に行っては郷に従えだ。稔も仕方なく二人について歩き出した。
空港ビルの一番左の端からトロリーバスが出ていた。大きな眼差しはちょっとインディオにも似た妊婦の田井、縮めた髪にアパラートを付けた希理子、その後にぴょこひょこと東洋人の男が跳ねるようにして後に続いた。これを見るメヒコの人々には何と映ったことか。トロリーバスは五分も乗るとメトロ空港駅に着く。
メトロはゴムタイヤ使用の最新のものだった。日本でも札幌オリンピックの時に開通した地下鉄と同じような方式で、フランスに注文したと聞いている。自動改札口も同じようだった。ただ切符だけは自動販売機はなく、労働力の有り余った国柄らしく人間の手で売られていた。電車の中は人口八百万の大都会の地下鉄だけに混んでいる。入口の案内図は文字の駅名だけでなく、それぞれの駅に一つ一つシンボルマークがついているのは面白い。空港駅は飛行機のマーク、終点は天文台のマークらしい。
「ここ、インスルヘンテスで降りるの。鐘のマークが付いているでしょう」 希理子が指さした。
「なるほどね、うまくできている。メキシコはブン盲が多いからね」 「モン盲でしょう」
と田井女史がたしなめる。稔ははるばるメキシコの地下まで潜って、四十男が漢字の読みで恥をかくとは思わなかった。ちよっと顔は赤くなったがそこはメキシコ、三人の他には誰もが知らない筈だった。インスルヘンテスの駅は大きなロータリーの駅ですぐ近くにメヒコ第二の盛り場、ソナロッサをひかえている。さすが車の雑踏も騒々しい。ようやく田井はここでタクシーを拾ってマンションに入っていった。
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