赤茶けた大地がどこまでも続く。八千メートルの高度からでは全く人家は見当たらない。ただ南へ北へ直線で伸びるのは道路だろう。道が高地にかかると右へ左へ蛇行する。それが人間の住む世界の証のように見えた。時折、荒れた大地にも緑が点在した。川もあるのだなと稔は思った。青い水影は勿論見えない。だが、濃く、深く、太く、時には細く刻まれた地上の線はその存在を示していた。
稔はまた時計を見た。いよいよ後一時間だと思う。北欧系の理知的な目をした金髪のスチュワーデスがジュラルミン製のワゴンを押しながら機内食を回収し始めた。
「フニッシュ?」
とにこりと笑う。派手な白とピンクの縞のエプロンがいかにもアメリカ的だ。DC10の乗客はまばらだった。稔のいるノースモーキング席には一目でラテン系とわかる熱っぽい潤んだ目の中年女が、小粋に腰掛けている。他にこれという姿はない。コーチクラスでは最前部の席だ。真っ先に座席指定のカウンターに行った稔に喫煙の有無を聞いた後、太り気味でグレーの男が
「ウインドー」
と笑って席をくれた。日本人には五十に近い稔でも子供に見えるのか。それにしても窓際の席はありがたい。稔はもうロスを経って二時間、前部の窓に頭をつけどうしだった。移り行くアメリカの都会美や海岸沿いのコンビナートの数知れぬ白いタンクの群を後にして、太平洋に出てからもカリフォルニア半島の打ち続く海岸線に白く波浪を見せて、打ち寄せているのが高空からでも見通せた。カリフォルニア湾の上を飛び越えたのも分かっていた。
機上音楽のヘッドホンサービスも断った。ヨーロッパと違いアメリカの航空会社では大陸の内は国境を越えても国内線扱いで無料らしい。空港で朝食もとったから運ばれた機内食もほとんど手を付けていない。時の流れと空間の圧縮に身を任せている。時間も空間もその推移が目ではっきり確認されていくのがありがたかった。
いよいよあと一時間だと思う。希理子はメヒコの空港でどんな顔で迎えるかと思う。別れて丁度、二月目だがスペイン語も大分うまくなったというから顔にも自信が出ているだろう。細い眉毛にそれを表すのでないか。
一番のメヒカーナで来れば四十分早かったから、もうメヒコには着いたはずである。最後の難関は税関だけがメキシコの税関は観光客には寛大というから案ずることもないとは思う。
ただ希理子に大型スーツケースを貸したから久美がきっちり詰めてくれたボストンバッグでは、意地悪く中を開けられた場合また自分で詰め込めるかが心配だった。
希理子の手紙にもメキシコの航空会社は小さくてサービスが悪いと書いてあったので、昨夕のロスのホテルからした電話でもウェスタン航空にすると言っておいた。
ついにホテルで一睡もできず文庫本を読み通して、朝早くホテルを出発した稔には四十分早いメヒカーナにも充分間に合った。今となってその四十分が貴重な時間で浪費した時を慈くしむ気分になる。向こうが迎えに来ていなければ同じだと、あせる自分が可笑しくなって思わずニタリとほころばした。
羽田を出発以来三十時間、あと何時間と刻む時間は長かった。特にハワイの三時間とロスで送った一夜は長かった。希理子はハワイには寄らないパンナムだけの直行便を利用したので、ロスでの三、四時間はかからず、その日の内にメヒコに着いている。稔がそれに気づいたのは大韓航空チケットを予約してからである。パンナム以外の航空会社は全てハワイに寄るので、ここで税関を済ませなければならない。アメリカの法律では最初に着陸した国内り空港で税関を済ませる事になっている。税関にはどうしても三時間はかかるから、ロスに着くのは夜になった。
メヒコへ行く最終便は五時だから、何としてもロスに泊まらねばならなかった。稔は自分でホテルをチャーターせねばならぬと思うと不安である。これは英会話ができぬからではない。稔は自分の言語障害には慣れている。その点に日本にいても稔の言語障害は同じだった。身近な人々とは難解な論争でもできるほど、不自由なくしゃべると思う。
だが見知らぬ怪奇な脳性マヒの姿に慣れない人たちに日程の開きが悪い発声は聞きづらいものらしい。それを知っているだけに、相手にコミュニケートできぬと思うと、一層、舌先がこわばる感じがしてきて更に状況を悪くした。それゆえ言語障害は日本にいても、外国にいても同じだとさほど気にしなかった。
ヨーロッパを旅行している間も、お偉い先生方が言語障害でフラストレイトしているのを見て、むしろ可笑しく思った。
外国へ行っても自分は唖だと思っていればそけほど不自由は感じない。最終的な要点には筆談という手段を用いればよいし、ヨーロッパでもロンドン以外は稔のブロークンな英語で結構通じた。それゆえ稔はコミュニケーションの手段にはあまり不安を感じていなかった。
それよりも稔が不安に思うのは、世間の目は本能的に脳性マヒ者を忌避し、嫌悪する事実だ。その一部が同情という形もとろう。そしてある場合、脳性マヒ者は白痴同様に見られる事になる。
一度始めて九州から瀬戸内海へ一人旅して島の旅館から宿泊を拒否された。うさん臭く稔を見る宿の女主人の眼差しに船便のない島の事とて途方に暮れた覚えがある。それ以来、一人旅の場合には夜行の列車かバスにしか泊まらぬ事にしていた。まして今度はよその国である。稔にすれば不安を感じるのも当然だった。それゆえ稔は出来ればメキシコまで行かずに希理子をロスまで呼んでアメリカの旅をしたかった。この旨は最後の手紙には書き綴って希理子に出している。
しかし、最終電話をした具合では手紙は届いていないらしい。だが案ずるより易く、ロスのホテルは航空会社で専属のホテルを手配してくれた。連絡便のない場合には会社が宿泊料をもつものらしく無料とか、カナダへ行くと言う二人の日本青年たちと一緒だった。新築のホテルで十二ドルのツイン、かなりの部屋で従業員もみな親切に稔の面倒を見てくれた。
最近、日本の障害者の海外旅行が流やると言っても、言語にも不自由な稔程度の障害者が単独行はまず有り得なかったろう。
羽田への見送りは和宏がただ一人、バッグを持って来てくれた。今度の旅が世を忍ぶものであってみれば、一昨年のヨーロッパ旅行のような親族、縁者の見送りはあり得るはずもなく、一人で羽田から旅立とうと思っていただけに和宏がついて来てくれたのはありがたかった。これもみな久美の優しい配慮からだった。
旅行支度こそするにはしたが、自分が稔を送れる立場でもない。それでも気になる久美は和宏を説得して無頼の父を送らした。和宏は羽田で稔が出発ロビーから、通関にはいるまで二時間近く、父を見送った。ロスとメヒコ間のチケットは買っていなかったし、荷物の番や何かと雑用がある。
稔はやはり和宏に聞いてもらってよかったと思った。 定刻、七四七ジャンボ機は暗黒の太平洋をアメリカ大陸に向かって東へ東へと旅立つ。稔とすれば早三度目の海外である。特別の感慨もない。まして今の心は東京の我が家族にはなくメヒコにある。時間は一秒でも早く、空間は一寸でも近く狭められていくのを願った。
ホノルル空港での四時間近い時間も長かった。さすがにここもアメリカだと思う。出発してきた羽田の国内便と錯綜した異様な混雑ぶりとは比較しようもなかった。空港の設備も豪華で広くゆったりしている。それでいて反面、装飾に合理化された面をもっていた。長い時間座りどおしだった稔は足がふらつく。
夜、出発して七時間、稔の感覚は明け方のさわやかな涼風をきたいしていたのに、外は正午前のむっとした南国の暑さだった。エスかレターに乗るには手荷物もあり足が固い。稔は横の階段を選び登り始める。足がもつれて中途で倒れた。先程から足取りを気にしていた韓国人パーサーが駆け上がってきてくれた。階上には税関行きのトロリーバスが待っていて運転は中年太りのカナカ族の女である。ピンクの派手なムームーに大きな花のデコレーションを結髪した髷の後ろにつけている。ローラーゲームでもできそうな道を十キロ以下の速度でゆったり滑るように走った。兎に角どこへ行っても全てが長い。
稔のようにアメリカをただ通過するだけの者はまた別の専用カウンターに通される。簡単に済ませてくれたが、稔にはただ時のみが長く感じられた。すぐにパンナムを使用していれば今頃思わずにはいられなかった。
ロス市内のホテルへ着いても横になったが一睡も出来るわけではない。出発した日本の時間に換算すればようやく午後であろう。全く眠る気にはなれぬのも無理はなかった。テーブルの古典的なスタンドに明かりをともす。文庫本の古い恋愛小説を読んで一夜を明かした。原田康子の『挽歌』だった。
ホテルも朝早く出た稔にはどこへ行ってみても、ただただ待ち時間だけが長い。空港内の免税店でホワイトホースを買ってみた。中年のブロンド婦人が稔を日本人と見てか、にこりと笑う。どこへ行くと聞くので、メキシコシティーと答えると、コンピューターに打ち込まれたカードを取り出す。もうすでに稔の名前がリファイルされているのには驚いた。さすがアメリカなのだと思う。品物は出発前にコンコースで渡すという。免税で酒を買い瓶をぶら下げたのは稔の他にも数人いたが、全て日本の益荒男(ますらお)ばかりだった。一人おかしみ笑いが込み上げてきた。
DC10のエアバスは何時の間にか高度を下げ始めていた。緑と青い水に映える湿地帯の上を低く飛んでいた。今まで茶褐色の荒野ばかり眺めていた目に安らぎを与える。シエラマドレ・オリエンタルの山々が今は高くそびえ始めている。エルナンド・コルテスもあれらの山上からテスココ湖上の浮島に栄華を誇った幻の王国の都テノチティトランを眺めたことだろう。軽いショックがしてDC10は着地し滑走し始めていた。
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