アステカの幻想(5)

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「マリンチェの憂いはつきない」希理子の稔に対する気持の変化。稔にも一万余キロの空間をへだてていた時よりも二枚の皮膚か接触し得る今の方が、異質な何かが介在する様に思えた。




マリンチェの憂いはつきない。また自分の体内に流れる血潮を考える時、やはり思いは沈む。確かに、マリンチェは異国人であるこるてすに対して異性としての愛情は感じている。それは同胞である男たちからも得られなかった。しかし、自分がスペイン人のためにしてきた行いが、今まで血を分けた同胞にどんな結果を招いたであろうか。
 自分はある呪われた日に生まれたともいう。それはその日生まれた子は、戦争や紛争、あるいは古きものへの破壊にかかわる運命をもつという。幼くして親から離れたのも、そのゆえかも知れない。その誕生に宿命とさえ言える何かを感じる。
 あの町の人々が皆殺しの運命に合う前にも、マリンチェはその町のある部族の妻からとある事実を耳にした。白い人間たちを一人残らず謀殺しようとのたくらみだった。
「貴方は私たちと同じ肌をした人間でしょう。それがあの白い人間たちと一緒に殺されるのでは気の毒ですものね。今夜の中にこっそりお逃げなさい。」
 その夜、マリンチェはコルテスにこの事を告げるのに躊躇はなかった。しかし直ぐ、その結果はどんな事態となって現れたのであろうか。いま考えても身の毛もよだつ事ばかりであった。マリンチェはその罪の深さに打ち震え、小さな胸はその傷の痛手におののくのだった。
 マリンチェには自分の同胞であるインディオたちが無駄な抵抗によって、早く二つの人種の間に立って、皮膚の色の異なる二つの人種の融和を計ろう。しかし、結果は逆に出て行く。そのため、何千人かの生命は奪われ、街は灰となっていく。マリンチェの通った高い鼻の上の赤褐色の額には強く三本の縦皺が深く刻まれていた。

 希理子が自分の心の変化をあらわに見せ始めたのは、博物館へ出掛けた翌日あたりだったろう。しかしそれを自ら表明し出したのはまたその翌日のことである。希理子の口から話があると聞かされて外へ出て見たものの、稔には初めからその内容が半分わかっているように思えた。
田井のマンションの近くには気の利いた日本のような喫茶店はない。タマリと呼ばれるチマキに似て、トウキビの練った皮に肉や野菜の具を気の葉に包んで蒸して売る店、ナラハンと呼ばれるオレンジの生ジュースを絞って飲ます店。何れも木製の粗末な椅子とテーブルが二、三組店内に用意はされていたが、日本なら、さしずめ今川焼き屋の店先という感じで、二人で話し合える場所とでもいえば、インスルヘソテスの広場近くまでバスに乗って出掛けねば無理だった。
 メヒコにはバス停というものがない。しかしバスが止まると交通上支障をきたすような場所には『バス停車禁止』の標識が出ているし、街角とか教会前とかおのずからバスが止まる場所が定まってしまう。バスに乗りたいと思ったら路上でメスティソが2、3人屯している場所へ行って立っていればよい。
目的地行きのバスが来たら手を上げれば止まってくれる。もっともメスティソたちが必ずしもバスを待っているのだとは限らない。なにごとか彼らは底抜けに明るい青空の下で陽気に大声で話し合っている。政治の話が暮らし向きか、それともハイアライなのかわからぬが、これもメキシコらしい風景なのだろう。
 手を上げればといったが、デルフィンは必ずしもとまるとは限らない。黄一色の並等バスと違い、黒と黄色の二色で彩色されイルカのマークのついたこのバスはエアコン付きのデラックスバスで自由定員制だからだ。従って座席が満員になれば素通りして行ってしまう。主要路線は大概デラックスと黄一色の普通バスとが平行して走っている。メキシコの国内メヒコに限らずどこへ行ってもバスの路線だけは非常に発達していて、石油も国営で賄えほとんど長時間バスを待つことはなかった。これも一見貧しくとも石油が豊富で国営の国柄ゆえに違いない。
 希理子と稔はバスを待つ間、行き先を変えてまたチャプルテペックの公園に行ってみることにした。常時の通り道、東京なら新宿と云う感じのインスルヘンテスへは無理に寄る必要もなかったし、希理子もチャプルテペック城へは行っていないと云う。
「橋本さんがメヒコに来て今日で五日、貴方と一緒にいて私ずいぶん変わったわ。もうこれからは貴方の事を絶対におじ様とは呼ばないし、橋本さんも私の事を前のように、さんずけして呼んでちょうだい」
 公園の周囲は高速道路の工事中のため大分遠回りをせねばならなかった。デルフィンを降りて目の前に公園の緑が見えても入口が分からず、厚いコンクリの障壁に阻まれて未舗装の工事場を二人はもどかしく歩いた。乾き切ったかさかさの大地に溶岩と重いコンクリのかけらが混ざり合って、二人の悪い肢をとられた。今日は珍しく希理子が渇きを訴えた。
湿度の低い大陸で稔は極度に水を欲しがる。全身を揺さぶってひょこひょこと歩く様を見れば、普通人の倍の消費もやむを得ないのかも知れない。しかし、その時の稔はまだ、それ程の喉に渇きを覚えていなかった。稔のために買った炭酸水の大瓶も希理子の左手さげた漆細工の籠の中で、栓を抜かれたまま体が前屈みになる度に大きく気泡を立てていた。
「みんなの前で糸崎さんと、ちゃんと、さん付けにして呼んでいるつもりだよ」
 希理子し懸命に苛立ちを押さえている風だった。稔にはこの一、二日の希理子の心の動きがおぼろげながら想像はできていた。二人は公園へ入ると、すぐに杉の木の根に落ちていた新聞を広げて座った。メヒコに来ては新聞も全く縁がなき存在である。それでも希理子は広げてスパニッシュの拾い読みをしていたが、すぐに閉ざした。直ぐ前の噴水の石段に若いメソットの男が腰掛けた。二人は肩も組まずに、並んで話をしたままである。稔は珍しい事だなと思いながら中年男のある種の期待をもって、その若い男女を眺めていた。
「貴方はお酒を飲むと亭主ずらになるのね。私は橋本さんとはそんな関わりではありませんから止めてちょうだい」
 昨夜メキシコフェステと呼ばれているパーティが開かれた。田井のマンションの新居祝いもかねて、やがて去り行く者への送別の宴てせもあった。先日、稔も尋ねた在留商社マンの奥さん。リブ仲間のメキシコ女性や二世、それに田井の彼であるダニエルやその妹。更に男友達まで加わって、なかなか賑やかだった。稔にとって最も不得手な場であり、テキーラを果汁で割って大分飲んだのは覚えているが、簡単に途中で寝てしまい、希理子のいう意味はよく理解できなかった。
「それから、この間の晩、みんなの前で私に、早く寝よう早く寝ようと何度も言っていたけれど、あんな事はみっともないから決して言わないで」
 稔にもそれは覚えがあった。人類学博物館へ出掛けた日のことである。その日はさすがの稔も疲労で欲も得もなかった。時差のゆうか、睡眠不足での前夜も国立芸術院のバレーを見て十二時過ぎに帰ると、田井が村中の帰国旅費の事で待っていた。寝たのも三時過ぎだったし、翌朝も十時に待ち合わせの約束があり、睡眠不足が続いていた。人類学博物館も一階だけ見て、二階の民族衣装の展示は諦めて、マンションの留守番に当たっていたき希理子と一緒にタクシーで帰った。このことは谷山も知っている筈であるし、それだからこそ皆の前で、はばかることなく言えたのだった。
「みんなが何かいらいらしていたし、体を壊したら大変だと思って注意したつもりだった。はっきり言えば今更、可笑しな意味に解釈されることはないと思ったのだがな」
 いつの間にか噴水の前の男女は抱き合っていた。同じメスティソでも女性の方は馬鹿に白く稔の目に映った。顔はよくわからず投げ出した肢体だけが焼きついてきた。
「最初の晩はあんなことになったけれど、あれは仕方がないと思うな。僕だってあの着いた夜から同じベッドに寝るのだと思わなかった。本当のことを言うと、あの夜は一人で寝たかった。ロスアンゼルスのホテルでは一睡もしていないしね。あれからは二人とも何でもないじゃないか」
 勿論、稔は始めからメキシコまでやってきて他人の家で、希理子と甘い夜が送れるものとは思っていなかった。責める久美に対しても、
「リブ女性の館でそんな勝手な真似ができるかい。それこそ男一人なんか、たちまち、伸されちゃう」
と笑って受け流していた。それが実際メヒコについてみると、スラッターで仕切られた部屋といえ、同じ間仕切りにベッドが二つ用意されてあった。
「奈津さんが橋本さんのために用意してくれたのよ」
 メキシコ男と一緒に寝ている田井の気持ちも分からぬではなかった。その夜、二月ぶりに同じ床についた二人ではあったが、一万キロの空間を飛び越えて、二枚の皮膚が接触したのだと思ってみても、その間に荷物とも知れぬ異質なものが残った。むしろその間に一万キロの空間が介在していた時こそ、稔に希理子の肌を直接に感じられた。
希理子は稔のハンドルを握った左手を外す。不要に硬直する指先ではあったけれど、素直に伸びていた。希理子は目を閉じてそっと頬に稔のぎごちない左手を当てる。やがてその指先を固く小さく閉ざした唇に付けた。そして、人差し指から順次、口に含むと指先を吸い始めた。
「止めなさい。きたないよ」
 稔は驚いて希理子の小さな口元から手を離す。羽田での別れの日だった。しかし稔には希理子に吸われた指先の生暖かな感触が忘れられない。ずっとメヒコの最後の夜まで稔はその感触を忘れられずに抱き続けていた。
 性感ではなかった。全くぎこちない指だと思う。常にはいくらかは節くれてはいても、素直に伸びている指。それが一旦意思を与えられると急変する。意思を細緻さを要求すればするほど、指は頑なに反撥した。
 不潔な指だと思われた。じごきない指とも思われた。顎や分厚い唇を濡らしたよだれをこする。それが染み付いて消えぬ異臭が漂う。久美には手の洗い方がなってないと言われ通しだ。トイレから出てきても指に水をかけるだけという。精緻な運動のできぬ指は細かく擦り合わせられない。常に劣等を抱き続けてきた指である。
 希理子が稔のよこしまな情欲を聞き届けてやると言ってくれたその夜、稔は希理子の細く縮み上がった右肢の甲に口付けしてやりたいと願った。多くの男たちと体をぶつけて張り合う希理子。その勝気さで中にいざ、男たちと床を共にする時その露呈する右肢を思った。
 傍の目から見れば、それは傷をなめ合う禽獣のつがいの如く目に映えるかも知れない。希理子の意識、それはあの事件を起こすまで自分でいみじくも言っているように、彼女自身、ビッコを引いた健常者だったのだ。ビッコを引き引き健常者の中に伍して...。完全な健常者などありよう筈がないのは分かっていても、健常者として生きていく。傷つく事への心の防御装置を強くして、カサブタは日に日に厚くなっていた。
 稔にしても同じだった。一応は健常者であるはずの久美との結婚。二人の子供たちも神に願った通り健康だった。稔は言わば家族の中の唯一人の障害者。あれほど忌んだ傷を心の中に温もりとして希理子をいとしんでいた。

 

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