コルテスは最初からマリンチェに目をつけていた。タバスコの酋長たちが贈った貢物の中で奴隷も品数の一つだった。二十人ほどの女奴隷の中でも彼女は一際目立っていた。単に見た目が美しかったという事だけではなしに、その身のこなし一切に他のインディオ娘にないものを持っていた。
白人たちを見上げる目にしても、おづおづといじけた卑屈さはなく聡明な輝きをもっていた。洗礼を受けさせられドンニャ、マリーナとスペイン名をもらったマリンチェは、コルテスによって始めはペルトカレーロという士官に与えられる。コルテスは指揮官として最初から自分では手を出さなかった。他のインディオ娘も全て部下の将たちに分け与えられた。後になってペルトカレーロがスペインに帰国してから、コルテスはマリンチェを自分のものとしたのだった。
それからのマリンチェは単なる司令官コルテスの現地夫人というばかりでなく、通訳としてときにはインディオたちの風俗習慣についての有能な助言者として、コルテスのメキシコ征服にどれだけ役立ったかわからない。マリンチェは生まれた土地からいってもメキシコの共通語であるナワ語を知っており、更にタバスコに売られたために、ユカタンやタバスコの言葉であるはずのマヤ語にも当然通じていた。それゆえマリンチェは南北方二大民俗系の言葉に通じていたことになる。今となっては彼女自身がどちらの種族の出身なのかよくわからないにしても、非常に有能な通訳官であったことだけは間違いない。
希理子はよくスペイン語を使う。稔が羽田まで送りに行ったのは丁度二月前だった。その時は小さなスペイン語の辞書を一札持っただけで、ABCも知らなかったはずである。国立宮殿の兵士もそうだったが、先ほどのデルフィン(定員バス)の中でも老人に話しかけていた。
老人は二人を異国の気の毒な障害者の夫婦とでも見えたか、いろいろ興味をもって希理子に話しかけてきた。先週、一人でガテマラへ行ってきて、買ってきたというマヤ系の民俗衣装は彼女の小柄な体にぴったりとしていた。濃紺の厚手の木綿地に赤い縞の上着は希理子の日焼けした顔に一つのアクセントをつけた。
パーマの短い髪でなければマヤの娘に見られることもない。最後に老人は二人にカトリック聖人の一人を画いたカードをくれる。ちゃちなカラー印刷が、これもお守りの一種なのだろう。天を指して神を信じれば体もよくなるといっているらしい。
「ムチョス グラシアス」 稔はスペイン語は全くだめである。ただ『どうもありがとう』と言うだけだった。
「ずいぶんスペイン語がうまくなったね」 稔は感心して希理子の会話を聞いていた。 「ううん、単語を並べているだけよ」
「それにしても、それだけ単語を並べられれば大したものじゃないか」 「語尾変化なんか、何もさせてない。原型をそのまま使っているのよ」
なるほど、そうだろうなと稔は思った。二月やそこらで語尾変化など覚えていたら、その方で頭が一杯になって会話など恐ろしくて全くできなくなってしまう。
「でも結構通じるから面白い。向こうは一生懸命聞いてくれるし、こちらは向こうの言うことが半分か、三分の一くらいしか分らなくなってもね」
稔はやはり若さだと思った。恐らく向こうのメキシコ人も希理子の年齢を十程度割引してくれるのではないか、小柄な日本人はこの点、得である。十七・八の娘に見られて不思議はなかった。稔と同じ中年の友達が例え大学に籍をおいて教鞭をとっていても、いざ会話となると億劫にしている者が多いだけに一入だった。
「この最後の絵、とても面白いのよ」
希理子は左手の階段へ廻って、先ほどの翼ある蛇の伝説の壁画と向かい合っている絵の方に向かった。どうしてもメキシコの歴史は殺伐な画題になる。敗れたインディオたちに押されるGの焼印、独立戦争のイタルゴ、チャプルテペック城の攻防。最初のインディオ出身の大統領ベニトファレス、家から送られて来た皇帝マクシミリアンの銃殺、メキシコ革命のマデロやサバタ。
「この絵だけは一九三三年になって完成されたらしいのね。階級闘争を画いたらしいのだけど、一番上で指さししているのがマルクスですってさ。壁画にマルクスが出てくるなんっ面白いと思わない」
希理子はこの絵には非常な興味を感じていたらしい。マルクスを頂点として各階層に別れ暗闘し、うめきながら進む。労働者と資本家何十人かの人物像として克明に画かれていた。
「この一番下の赤いブラウスの人がリベラの連れ合いさんですってさ」
それはどうもリベラ夫人を画いたものらしい。彼女も有能な画家で身障者、リベラには多大の影響を与えた。階上は階下のロビーの吹抜けになっていて、回廊の手すりから階下や天井を眺められた。なだらかな曲線を画く広い天井には全て厚い水晶ガラスがはめられ、その淡い光線は幾百流かの三色旗によって弛められて、荘重な雰囲気をかもし出している。階上の廊下の壁画にはリベラが第二次大戦中から戦後にかけて画いた「有史以前のメキシコ人」の壁面があった。
絢爛たるアステカ王国の建設に影の立役者となってその経済をも一手に握ったトラテロルコの大市場や商人たち。現代のメキシコ人たちにも主食となっているトウモロコシの収穫。彼らはその粉を練って薄く焼き、トルティーヤと呼ばれ、それに肉や野菜を挟み込む。メキシコ人のパンだ。竜舌蘭の栽培の絵もある。これは有名な酒、テキーラの原料となる。スペイン人たちは、古いインディオたちの文化を野蛮なものと考えて、根こそぎそれを抹殺しようと試みた。そして、そこへ自分たちの新しい血を注ぎ込み、宗教も完全に改宗させて、一時は完全に新しいヨーロッパ文明を打ち立てたごとく見えた。
しかし、現在になって振り返ってみると、そこにあるものは新しいメキシコ文化だった。スペイン文化でもなければ、アステカでもマヤでもない。これは世界的な芸術家、リベラやタマヨ、そしてシケロスなどといった有名な人々の絵画の中にもはっきりと読み取れる。
希理子は稔を回廊の一番奥にいざなった。二階の正面が大統領国務室になっているらしい。入口の守衛の前には分厚い皮表紙の記帳が置かれてあった。続いて稔もペンを取ろうとする。稔の手の悪いのを見て取った守衛は希理子に書いてやれと目で促した。
「いいよ、大丈夫」
稔もこれだけ立派な記帳にサインするのは初めてである。海を越えて地球の裏側の国に例え何字でも自分の刻印を残したい。こんな気持ちでたどたどしい字だったがローマ字で記入した。
「ハポン(日本人か)」 と聞く。 「ズイ(そうだ)」
と答えると、昨日も三人来たという。欧米人たち以外ほとんど日本の観光客を見ない。それでも日に何人かはあるものだと思う。奥の豪華な調度が目についた。黄金の縁取られた真紅の布地の張られた椅子、見事な彫刻の施された謁見台。明るく輝くように照明されて浮き上がって見えた。手前のベニト、ファレス記念室は全体を暗くして、展示物だけに明るくスポットを当て対照的だった。濃紺のビロードが張られた壁に肖像画がある。
「ベニト、ファレスはメキシコで最初になった有色の大統領なの。国民的な英雄でメキシコのリンカーンとも言われている」
彼はオアハカ付近で生まれた純粋のインディオだった。ほとんど教育らしい教育も受けずに努力して成功しメキシコを再建した。時は正に故国がフランスのナポレオン三世の毒牙にかからんとしていた時だった。インディオらしい通った大きな鼻が印象的である。
国立宮殿から表のソカロへ出る。日照は長い初夏の日差しも大分陰りが目立つ。右手のカテドラルに向かう。広場の周囲を廻る大河の濁流を見るような自動車群を縫って道を渡るのはまだ足のふらつく稔にとって一骨だった。信号もあるのだが判然としない。横断歩道の白線も見当たらず、おろおろしていた。希理子が稔をかばうように手を取った。
「メヒコは歩行者優先じゃないものね。引かれたら引かれ損よ」
希理子は笑った。歩道と車道の段差もばか高い。稔はよろよろの思いでカテドラル前の歩道にたどり着いた。外国生活が始めてではないつもりの稔ではあったが、二月の間にすっかりメヒコの生活が板についた希理子の身ごなしにおずおずさせられる。
「ソカロ、正式には憲法広場というらしいけれど、アステカではピラミッドがあった心臓部よ。コルテスが占領してから全部破壊してソカロを作ったわけ。だから地下はみんな遺跡ばかり。このカテドラルだって、みんなピラミッドの石を壊して造ったものらしいわ」
一五七三年着工というカテドラルは西半球最大の規模といわれる。だが、この教会建築ローマのサン・ピエトロ寺院を見てきた目には、いかにも泥臭く見えた。
「植民地の建築家たちでしょう。バロックもゴシックもなかったのね。いろんな様式がごったになっているでしょう」
なるほど言われてみればそうかも知れない。むしろメキシコ様式とでもいいたい自由さがあった。ローマで総本山の建築を始めた同じ時代に、開発し始めたばかりの何千キロと離れた僻地で、もうこれだけの大建築を始める強靭な意欲には驚かざる得なかった。
「アステカの王宮もピラミッドも全部破壊して湖水を埋め立てたでしょう。だからメヒコは地盤が沈下して弱いのよ。ほらカテドラルだってあんなに傾いている」
稔は東京のゼロメートル地帯を思い出す。聖堂の中に進みドームを仰いで聖壇の下で十字架のキリスト像を眺める。異教徒にもその敬虔さは身に染みた。希理子は入口に立ったまま、入って来ようとはしない。出口まで来て稔が喜捨箱になにがしかのコインを入れようとすると希理子は押しとめた。
「よしなさいよ。教会は金持ちなのだから。そんなら乞食にやった方がよほどまし」
二人はソカラ国立芸術院に向かって歩き出した。日曜と水曜の夜は民族舞踊のパレードが見られるはず。メヒコ観光のハイライトコースである。マデロ通りの途中で元和の昔、支倉六右衛門の一行が泊まっていたという建物を教えてくれた。稔は最初思ったほど日本人観光客は少ないと思う。シーズンオフのせいかほとんど見かけなかった。メキシコに対する日本人の関心度は欧米に比べて極めて低い。しかし、日墨の関係は極めて古いのだなと今更ながら思う。
メヒコも五月から雨期に入る。シーズンオフの故か民族舞踊のチケットも容易に手に入った。夜の九時開演である。芸術院の美術館は七時まで開いている。二人はあく事無く閉館ぎりぎりまで、リベラ、タマヨ、シケロス等のこの国の世界的芸術家たちの作品に浸った。稔はまたピカソ、マチス、ブラック、ルオー、ミロ、ダリと二十世紀代表的芸術家たちの系譜を考え合わせ、フランス、スペイン、メキシコと続く民族の血の不思議さに驚嘆せざるを得ない。
「今月の三十日まで東京でタマヨ展をやっているんだ。帰ったらおさらいに二人で見に行こう」 希理子は大きくうなずいた。き
国立芸術院を出た二人はそのまま真ん前のアラメダ公園へと入った。九時の開演までは二時間近くある。夕闇が迫り水銀灯の青白い光が緑の木々を明るく照らし出していた。どこの国でもお定まりの若い男女が幾組も寄り添っている。二人は中央の噴水の周りに腰掛ける。大理石の豪華なベニト、ファレスの記念碑も浮き出して明るく照らされていた。
希理子は稔の肩を抱いた。ここはメヒコ。ここは西半球。地球の裏側である。二人を眺めているのは異国の見知らぬ人ばかり、この男女の関係を誰ぞ知る人がいよう。稔ははっきりそう思う。しかし稔には希理子の肩にかけた左手がどうしても愕々と、ぎこちなく震えるのを押さえ切れなかった。
七、八歳の子供が『ガムを買ってくれ』と寄ってきた。希理子は二ペソ与えて小さなガムの包みを受け取る。またしても空白な時間が流れた。そして、八時近くなって、サンファンデの通りの方へレストランを求めて二人は公園を出ていった。
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