アステカの幻想(2)

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「メキシコ征服者コルテスの現地妻マリンチェの悩み。夫への愛と母国に挾まれて。彼女はコルテスに捧げられた女奴隷だった」メヒコの国立宮殿、メキシコの歴史を画くリベラの壁画の前に立つ稔と希理子。




今後もマリンチェは一人憂(うれい)に沈んでいる。長い髪をきちんと編み上げて後に垂らし黒曜石を思わせる澄んだ目は、その知性に富んだ鋭利な心の窓として輝き見せ、高く通った鼻は小さく引き締まった口許と共に犯しがたい気品を感じさせた。肌の色は決して白い方ではない。しかしそれは彼女自身の生来のものではない。
パイナラの首長の娘に生まれながら父親に早く死なれたばかりに奴隷としての娘時代を送り、今またここにスペインの勇将コルテスに従って、タバスコからメヒコまで数百キロの道程をスペイン軍と供に遠征し続けてきた証であった。
 首都メヒコでも、ここはモンテスマ一世の館。時はアステカ帝国の全盛期、今の当主モンテスマ二世は翼のある蛇ケッアルコアトルの化身と恐れたコステスを五百余名のスペイン兵士の供に亡き父王の宮殿に招き入れたのだった。テスココ湖上のテノチテトランはその首都として、ただならぬ繁栄を示している。北はベラ・クルス南はグァテマラの当たりまで三百余りに及び朝貢国から、四つの街道を通って金銀財宝はいうに及ばず、テノチテトランの神殿のピラミッドに捧げられる人間の犠牲まで、陸続として運ばれてきたことだろう。
 マリンチェが座っている黄金の椅子も、美しい染色された木綿の糸を使ってケツア鳥の羽毛を織り込みモザイク状に丹念に仕上げられた布で飾られ、石造りの床や壁もしっくいで固めてピカピカに磨き上げられていた。恐らく王の在世中は大酋長の娘であった王妃の部屋に違いない。隣にはあまた側妾たちの部屋がうち続き、千名からの侍従が待っていたという。
 しかし今、この宮殿にはそうした派手やかさはない。二十名にも満たない女奴隷の外は武骨なスペイン兵士だけである。この宮殿と向かい合った軍神ウイチロポチトリを祭る神殿のピラミッドからは、初夜を分かたず絶えず不気味な太鼓の音が響いてくる。そして四隅に何段にも祀り火を焚き赤く映える。
時々、和するようなほら貝の音が響いてはスペイン人たちの心を苛立たせる。そして今日も何人かの生贄がアステカの勝利を願って神殿に捧げられた。黒曜石の短剣で生きながら心臓を抜かれピラミッドの壮大な階段を血で濡らしたに違いない。表面は平和を装っていても、いつどのような形で緊張が切り落とされるか分らないのだ。
勇猛で近隣の部族から鬼のように恐れているアステカ族がこのまま引き下がることは誰も考えられない。
 マリンチェは思った。今夜はコステスはこの部屋へは現れないであろう。大広間ではレオン、オルダス、サンドーバル、アルパラードといったコルテスの部将たちと供に作戦会議を続けている筈である。
昨夜マリンチェはコルテスと一夜をこの部屋で送った。その頃のコルテスは三十も半ばだった。長身で均整のとれたかっしりした体格である。強烈な熱帯の太陽の下でも、それほど焼けない肌なのか、銀色に輝いて見えた。インディオたちと同じ黒い髪、黒いひげ、その眼には憂愁を含んでいる。しかし、そのくぼんだ眼球の奥底には不敵な光を放っていた。
昨夜もマリンチェはコルテスの限りない愛撫を受けている。それは女として受ける最大のものだろう。マリンチェは女奴隷としてスペイン人たちに送られる前、何度か同胞の男たちの慰みものになっている。彼らは決してマリンチェを女としては扱わなかった。彼らはマリンチェを単なる自分たちの慰みものとしてしか考えていなかった。
しかし、コルテスは違う。あくまでもマリンチェを自分の愛の対象として同等の人として見てくれた。皆はコルテスをケツアルコアトルの化身として恐れているが、マリンチェにはコルテスが白い神の化身というより一個の白い人間の男として、はっきり見えてくるのだった。

 暗い宮殿の通路を抜けて広大なロビーに出ると、正面の階段の上がぽっかりと明るい照明で浮き上がってきた。何百人とつかぬ人間の入り組んだ姿、赤褐色の力強い色彩が稔の目を捕らえた。希理子は稔の手を取って一気に階段を駆け上がろうとする。
「ちょっと待ってよ」
 稔は希理子の手を押しとめた。異常なまでの上部からの圧迫が稔をたじろかせた。そうでなくとも稔は昨日メヒコに着いたばかりである。午前中にコユワカン通りの日本人の知人を尋ね今また夕方からソカロへきている。
デルフィン(定員定期バス)を降りてから、数日前の国慶節には祝賀行列で賑わった五月五日通りを抜けて国立宮殿までだ。さすが海抜二千二百メートルの高地は慣れぬ体に息切れを感じさせる。国立宮殿の入口には自動小銃を肩にした兵士が数名パトロールしていた。
希理子は気安く話しかけた。メスティンでもその兵士はラテン系が強い。鶯色の目を輝かせて大きくうなずくと、一言、二言しゃべって陽気に薄暗い回廊の途中まで、二人について案内してきてくれた。
「これが有名なリベラの壁画」
「まあ、待ってよ。上着を脱ぐから」
 稔は上からのしかかるがごとく、襲い掛かる圧力を避けるように階段の蔭に入った。希理子は稔のセーターを脱がしてやる。そして自分のユカタンから買ってきた漆細工の手提げに入れた。ようやく身軽になった稔はおずおずと階段の前に進む。正面に三つのドーム。更に左右の踊り場に分かれて一つづつ、そしてそこから左右の手すりに沿って大画面が展開していく、ある者は権勢の座につき、ある者は虐げられ、そしてあまたの人々が万古の恨みを残してその世から抹殺されていた。
「メキシコの歴史を画いているのよ。すばらしい壁画でしょ」
「うーん」
 稔は思わずうなった。確かに部分部分の絵には見覚えがある。恐らく美術全集か何かででも見たものだろう。しかし左右合計七枚。それらの何百名とも知れぬ人物像。そこから発する人々の生と死の苦しみ、悲しみは絶唱ともつかぬ雄叫びを残して、稔は恐怖にも似たおののきを感じさせるのだった。
「昔のメヒコは湖に面した湿地帯のような所だったらしいわね。そして、スペイン人たちも驚くようなすばらしい文明をもった大都会だったらしい。人口が三十万もあったというもの」
「アステカ王国というのだろ」
「すばらしい石造建築の技術をもっていたし、染色や織物の技術もスペイン人たちが目を見張る程すばらしかった。進んだ暦を持ち絵文字にしても文字を使い、医学にも優れていて歯医者はもとより整形外科医であったらしいわ」
「何故そんなすばらしい文明をもちながら、たった五百人ばかりのスペイン人たちに滅ぼされてしまったのだろう」
 稔にはどうしても合点がいかなかった。いくら少量の小銃や大砲があったにしても火力は限られている。数を頼めば衆過敵せずの例え通り、何れ勝負は明らかだと思うのだが。
「この絵を見てごらんなさい」
 正面から右に折れて階段をゆっくり上り始めた。右手の手すりに力を入れる度ごとに、希理子の悪い左肢のアパラートが階段の滑り止めに軽く当たった。それが静かに間延びしたリズムなって続いた。
「これがケツアルコアトル伝説の絵よ」
 一番右手の大きな画面であった。下部は階段に沿っているから斜めに切られている。向かい合った左手の階段を見ると同じ大きさの画面の絵が、同じような壁に画かれていた。全体の構成を見ると、右から左、下から上へと時代の推移を表しているらしい。
「これが太陽のピラミッドで、あれが月のピラミッド。何れテオテイワカンには案内すると思うけど、二世紀から七世紀の半ばにかけて、これほど繁栄した都市が突然滅亡してしまう。何が原因か全くわからない。外敵なのか、流行病なのか大凶作か、それとも男女差のアンバランスなんて推理する人もいるけれど、全く謎で誰にもわからない。ここにもケツアルコアトルの神殿はあった」
 希理子はそう言って中央の鳥のごとく空中を飛ぶ人物を示した。
「ケツアルコアトルとは『翼のある蛇』のことで中米ではどの種族でも、重要な神として信仰されてきた。伝説ではケツアルコアトルは白い肌をし黒い髭を生やしていた。遠い昔ケツアルコアトルは天から降りてきて人間の形をとり、人間に農業や暦など、その他色々と役立つことを教えてくれたの」
 しかしケツアルコアトルは血を嫌って人身御供の犠牲をやめるように説いたので、軍神ウイチロポチトリと仲違いしアステカの土地を追われた。そしてタバスコの海から筏に乗って、海の向こうの東の国へと姿を消したと言う。その時ケツアルコアトルは人々にこんな予言を残した。
「予は再びこの国に戻ってくる。その時汝等には大変な災厄が降るだろう。それはきっと『葦の一の年』にあたるであろう」
 コルテスが十一隻の船団を率いてタバスコの海に碇を降ろしたのは一五一九年のことである。この年は偶然にもアステカの暦では『葦の一の年』に当たる。言うまでもなくスペイン人であるコルテスは白い肌、黒い髭だった。そして、タバスコから東の国といえばヨーロッパ諸国を指すものと思って間違いなかろう。

 

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