受話器の振動板を通して、希理子の電流に変えられたためらう息遣いが、稔の鼓膜にもそのまま伝わってきた。今夜はコレクティブに入るらしい。先程の女の子の声も『糸崎さん!』とはっきり呼んでいる様子が、そのままで聞き取れた。今日で五夜目である。いくらか落ち着きを取り戻したはずだ。誰でもそうなのだろう。
海の外から帰って来たその疲労感はばかにならなぬ。単に時差ぼけとして感じられるだけではない。海に囲まれ息苦しい程の狭い山河の中に身を置かなければならぬ人間の宿命なのか。広大な大地の中では異質なものとして拒絶される何かがあるのかも知れない。稔自身も帰国して半月余りようやくひと心地がついた思いだった。ためらう息遣いがあって何秒か時は流れたがそれは決してそれ程長い時間ではなかった。やがて希理子の低い調子の音声が明瞭に電話機のレシーバーに伝わってきた。
「もう、貴方とはお目にかかりたくも、お話もしたくありません」
努めて感情を圧し殺しているのだと察しられる。稔の頭にすぐこんな場合能面の如く頑なで無表情となる希理子の顔がぽっかりと浮かんできた。瓜實の顔の中央の鼻は鋭利に高く、普段は笑うと古典的な小さなのを引き立てたが、こうした時には通った鼻筋が徹底的に外界を拒み続け、完璧なまでに相手の感情を無視する。メヒコからロスまでの最後の一週間、常に稔を朝夕拝んできた美しき夜叉。きっと引き締まった小さな口元から金色の牙の影こそなかったが、冷ややかに強固な意志を表した顔は現世の境の逸脱さえ感じられた。
「ああ、そうですか」 稔は素直に自分でも驚く程の冷静さでこの言葉が出た。恐らく相手の冷たさに引かれたのである。
「お借りしたものは、みんな明日ムラちゃんに持って行ってもらいます」 「・・・・」
どちらが電話を先に切ったのか、稔にもわからない。とにかく気がつくとすでに受話器はデスクの上の本体にかけられ、稔は一人薄暗い事務所の中で大きく息を吸った。閉店後の事務室は雑然としていた。まだ完成していない修理品が解体されたまま山積みになって、無用な体を突き出していたが、基底のトランジスターだけが、メカニックなプリント板の上で、宝石のごとく輝いていた。
稔はこうした事態になることを別に予感してなかった訳ではない。最後の一週間、常に希理子の口からこぼれ出た言葉であったし、それを打開しようとする稔にとっての焦燥と屈辱の一週間でもあったわけだ。
それでもロスの最後の一夜、ついにサンフランシスコ行きを諦めて、明日の飛行機で帰ることを決意した稔から希理子は最後の百ドル紙幣を素直に売れ取った。
「シスコで谷山さんの部屋に泊めてもらうとしても、まだ十日はあるし、旅費大丈夫なのかい」 「うん、心細いの」 「貸してやろうか」
「いらない、貸してもらうなら、貴方の家まで返しに行かなくてはならないし、それにすぐは返す当てもないわ」 「じゃあ、おじ様がお小遣いやろうか」
「うん。それならもらう」 稔は久方ぶりで陽気におじ様という言葉を使った。素直に希理子が百ドル紙幣を受け取ったのも意外だった。
「私、悪女になるんだ」 「何だ、それならそれでもっと悪女に成り切ればよかったじゃないか」
稔は思わず笑い出して、希理子の内股に手をかけた。 「おじ様にサービスよくして、絞り取れるだけ絞り取ればよいのに」
しかし、いざ二人がダブルのベッドに潜り込む段になると、希理子はベッドの上に一線を引いて見せる。超えてはならぬ一線ということらしい。ロスの日本人術の安宿だった。四階建てには違いないが一九二〇年代、日本流なら大正期とでも、そんなうらぶれた一室だった。ベッドの背もたれも破れていたし、鏡台や椅子テーブル等、調度類も大時代のもので、稔の世代にはある種の哀感を誘う。
それでも夜中、希理子は稔の肩の当たりに寄り添ってきた。思わず稔は希理子の体を抱きしめた。驚いて希理子は稔の腕を追っ払って起き上がる。そして、きっと稔の顔を覗き込むと、また稔との体に五寸程の間隔をあけてそのまま再び横になった。
翌朝は十時発というのに暗い中から村中に起こされる。九時発のエアザイムの航空券が手に入った村中は子供を連れての故だろう。すっかり焦っていた。もうタクシーを呼んでしまったという。
「橋本さん、いーわよ。私が手伝ってあげるから」
身支度の遅い稔に希理子は肌着からズボンをはかせるまで甲斐甲斐しく手助けをした。ホテルの主人夫婦も痛々しく障害者夫婦とみてか、稔たち二人を何くれとなく面倒をみてくれた。今朝も暗い中から起き出して来る。希理子は稔にチップを手渡せと一ドル紙幣をにぎらした。
「じゃあ、日本へ帰ってからも元気で頑張ってください」 ホテルの細君は何かに感動したらしく最後に希理子に声をかけた。
「貴方も大変だろうけど、旦那様大事にしてあげてね」 村中は下を向いてくすりと笑った。昨日、希理子から注意を受けている。
「ここのホテルのお上さん、私と橋本さん、夫婦だと思い込んでいるから、そういうことにして置いて。お上さんの夢を壊すのかわいそうだもの」
グレイ・ハウンドのバスターミナルに着いても、空港行きのバスの発車までには大分時間があった。希理子が昨夜わざわざ一人でここまで、タイムテーブルを見に来た意味はなかったらしい。差高が七センチはある補助器をつけたあの足でと重う。ダウンタウンの南端に近いここまで、リトル東京から五区画はあるだろう。往復すれば相当の距離だった。
「大変だろう、あそこまで歩いて行くの」 と言う稔にはとても一緒について行く元気はない。 「大丈夫よ。運動しないと胃の調子がおかしいから」
と出掛けていったが、さすがに大分疲れた様子だった。稔は二週間ぶりの湯から出て、ほてった体を冷やしていた。安ホテルでもそこは日本人専用だけに石鹸でぬるぬるながら、共用バスがある。
「恐かったわ。女は誰もいないし、男はみんな黒人ばかり、それもみんな酔っ払ったり、喧嘩したりしているのですものね。よく暴行事件が起きているのでしょう」
希理子からこんな事を聞くのは珍しい。気の勝った女だけに東京では、いくら遅くなっていても言う言葉ではなかった。かつて聞いたニューヨークなどのハーレムの治安の悪い話を思い出したのだろう。しかし大きくちんばを引いて歩く小柄なアパラートを付けた日本の女をホームレスたちはどのような興味で見たのであろうか。
早朝のバスターミナルはがらんとしていた。こことて、待合室にたむろする人々も眠たげで幽明を彷徨うのように首垂れていた。
やがて、若い掃除夫が長いモップを持って現れた。掃除をするのだけれどと言う。いくらか東部なまりのある英語だった。端整な顔立ち、どこか陰りのある表情、それはどう見ても日本人だと思う。決して朝鮮人でも中国人でもない事はすぐ分る。東洋人にしては背高い方だ。
三世かそれとも放浪青年か、いずれにしても日本人の就職はそれなりに厳しいだろう。ここ数日、ロス日本人社会に接して、直接肌で感じてきたことだけに稔は興味をもって、その青年の行動を見極めた。現代の日本社会であればこれだけの容姿をもった青年が、駅で掃除をしている姿をみかけなくなった。みんな退職の老人ばかりである。
稔はその社会の善し悪しでなく、子の社会のもつ人種という意味を考えた。
青年はゆっくりと二列に背中合わせに並んだ待合椅子をどかす。後にはジュースの空き缶が数個と菓子の空袋が残った。モップで履き取るにはかなりの量である。青年はわずかに当惑の表情を浮かべる。
モップを床に置くとそのまま大股に左手の円柱の陰の屑箱に向かった。中を覗く。青年は顔を上げると整った目の下に、諦めの表情が浮かぶ。また元の場所へ大股に歩き出した。
そして、両手に三個のジュース缶と菓子の空袋をもつと、ゆっくり踵を返した。一回で運ぶのは無理だろう。もう青年は表情を崩さない。自分の行動が同じ人種の時間を持て余した人間に注視されていたことなど全く無視していた。青年は両手に持ったまま、真っ直ぐ自分の歩く数メートル先を見つめていた。
ロス空港へのフリーウェイは早朝の事とて空いている。四車線のいかにもアメリカらしい、ゆったりとした道路がつづく。一時間は掛かると聞いていたが三十分余りで国際空港へ着く。
バスを降りると希理子は自分の四個の荷物を両手に抱え、大きなスーツケースを引っ張り大きく肩を落として稔の乗る大韓航空のカウンターへ向かう。その後を稔が飛び跳ねるような足取りで自分の航空カバンを引っ張って続く。
二、三人の征服の黒人キャリーが飛び出してきた。希理子は手を横に振った。子連れの村中も自分の数多い荷物を一人で抱えて、エア・サイムのカウンターへと向かって行く。ロスアンゼルスの国際線ロビーはさすがに豪華であったが、エア・サイムと大韓航空のカウンターは両方の端だった。広いだけにかなりの距離がある。
一時間遅い出発、大韓航空はチェックインしていなかった。稔は希理子に荷物を預けると、そのままトイレに飛び込んだ。完全な下痢である。一昨日の朝の行為から稔の体調は完全に崩れていた。シスコ行きを断念したのもこのためだった。ドアをノックする。あけて見ると希理子だった。
「どうしたの、ずいぶん長かったわね。心配しちゃったわ」 「うん、下痢しててね」 稔は力なく答える。ん「もう、チェックイン始まったわよ」
三ドルの航空税を支払って手荷物を渡す。座席はまだずっと前、機種はやはり七四七ジャンボらしい。 「じゃあ、また」
「東京でお会いしましょう」 稔が希理子の荷物の一つを取った。 「さあ、今度はそちらの番だ」 「私が一番、出発は早いかもね」
シスコ行きの国内線は一時間おきに24時間発着している。予約なしでフリーだ。表へ出て黒人のキャリーに国内線のロビーを聞いた。日本の空港とでは比較しようもない広さに建物の所在さえ定かではない。足の悪いカップルと見てとったそのキャリーは傍らに止まっていたマイクロバスの運転手に何か一言、声を掛けた。
その白人運転手はすぐOKする。後部のドアを開いて、希理子の荷物と稔の手にしていた荷物とを中へ入れた。前に廻ってドアを開ける。希理子は稔に急に手を差し出した。
「元気でね」 稔は希理子の手をぎこちなく握る。その意味をおぼろげに理解したは出来たが、ようやく小さな声で 「あまり怒らないどいて」
これだけ言っただけだった。マイクロバスの中から希理子が手を振る。稔が最初にロスへ着いた夜、航空会社で手配してくれた空港近くの韓国系のホテルのバスだった。年中空港の中を走り回っているらしい。つられて不様に稔も手を振った。
二人が一緒に乗るものとばかり思っていたキャリーと運転手は怪しい顔でここの不思議なカップルを見守っていた。
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