ミノル(1)


 ミノルの異常を幸子が気づくまで一週間は過ぎていた。もちろん自分の育てている我が子である。四肢がこちこちに固まり、おむつを変えるにしても発熱前とは全く違って居た。なにしろ四十度からの発熱が一週間続いたのだ。体も固くなって当たり前と思う。誕生の日も過ぎ、テーブルの端に掴まり伝え歩きもしていたのだ。体力さえ付いて来るようになれば、また元通り柔らかな四肢に戻るものと信じていた。最初にミノルの異常を指摘して呉れたのは横町の豆腐屋の上さんだった。
「この子、少しおかしいと思わない」
ミノルに着衣させている銭湯の脱衣場で、母子の様子を眺めていたのは、三十過ぎた小太りで丸顔、色白だけが取り柄の女だった。他人の子の異常を指摘するには、それなりに勇気がいる。しかし、彼女にはそれなりの自信があった。次女の右肢を床屋の椅子で挟まれ、その原因からカリエスの苦労を味わっている。それを知っているだけに幸子も、むしろ頼りにしたい気持ちだった。
「私もそう思うのよ」
「医者に見せてご覧なさいな」
医者と聞くと幸子は戸惑う。七日に渡るの発熱中、何度、医者の門を叩いたことか。耳が悪いのでないかと、内科医の指示で耳鼻科の門も叩いている。どこも異常はないがと首を傾げるだけだった。
「お医者様は何でもないと云うのだけれど」
「近所そこらの医者では何も分からないわ。大学病院、それも整形外科よ」
幸子には始めて聞く医者の名だった。世の中にそんな医者も居るのかと思う。ミノルを背に慶応病院の門を叩いたのは、それから数日後だった。幸子は世間には、これ程、様々の病魔に苦しんでいる子供たちを見て驚く。乳さえ与えてさえいれば、赤子は育つものと信じていたのが浅はかに思える。
若い医者に診察を受けた後、小児マヒの一種であると告げ、週に一度、マッサージに通うことを命じた。もちろん若い母親は藁でも縋りたい気持ちで、素直に服従したのは言うまでもない。ミノルの父、圭助はモスリンと呼ばれた毛織物の小売商で、数人の使用人は居るものの、昭和恐慌の最中、下町に開店したばかりで、あまり楽とは言えない。名だたる慶応病院の一回のマッサージ代もかなりのものだった。もちろん、わが子なれば圭助も幸子も厭うものではない。だが、半年通い続けて見ても、ミノルの強ばった四肢にこれはと言う変化はなかった。
たまに診察があったにしても、年輩の医者が診てくれたのは、最初の一度だけ、それも若い医者の報告を聞いただけだった。若い医者はミノルの膝に軽くハンマーを当て四肢を一二度屈伸させる。
「先生、この子は治るのでしょうか」
その度に幸子は必死の思いで喰い下がる。若い医者は当惑したように
「成長すればね.だんだんに、良くなって来るよ」
と繰り返すのみだった。
幸子も次第に母親仲間から知識を深める。そしてやはり整形外科と云う医学の科目では、帝大が一番で何よりも、そこが整形外科の開祖であることも知った。幸子の一番、敬愛していた兄が農学士だった。震災で不慮の死を遂げたが、当時ビタミンで有名な鈴木梅太郎博士の下で副手をしていただけに、例え帝都を二分している慶応病院の門を叩いていると云え、幸子の官学に対する信頼感は深い。
幸子がミノルを負い高木の診察日を確かめて、間もなく本郷へと足を向けた。
「リットル氏病ですね」
ここで始めて幸子は我が子の病名を知った。そして東京帝国大学病院の二代目整形外科医長として期待していた筈の高木が、まだ不惑に届くか否かのような少壮さに、軽い失望さえも憶えるのだった。
「比較的軽度だから、その内には歩けるようにもなるとも思うし、それ程、心配することはないよ」
またここでは別にマッサージに通う必要のないとも、はっきり告げられた。幸子はミノルの病が大きくなれば治癒していくと解釈はしてみたものの、他方では通院を認められず、母親としての不安は募った。
 リットル氏病。一八四〇年、英国のリットル氏によって命名された病名、何れも出産時の障害が原因らしく四肢が硬直し運動障害、知能も遅れよだれを流し尖足で歩行するのが、この病名を付けられた子供たちの典型である。知能は遅れていると云われるが、必ずしもそうとばかり云えぬ節もある。こうした子供たちの一般社会から閉ざされた環境を考えれば、むしろ知能遅滞は当然なのかも知れない。後年、高木が日本に於けもこうした出産時障害による児童のマヒ症状を脳性マヒの名で統一した。 
「なんだ。まだ心配しているのか。あれ程、この子は軽いのだから悩むことはないと、云い聞かせたのに」
下谷練塀町、田代病院院長室、白頭童顔の田代博士は豊かな体躯を両肘掛けに預けて、すっくと立ち上がった。白衣も着けず背広のままで逞しい博士の容姿は、何となく幼いミノルの目にも頼もしげに映った。三年前、一度だけ診察に訪れた母子ではあったが、子供の症例は博士の興味を牽いたらしく明確だった。
「さあ坊や、こちらへ歩いて来てごらん。それから、もう一度、あのドアの方へ歩いて」
ミノルが踵を上げ爪先立ちになりながら、ランゲの教科書通りヒョコヒョコと、おぼつかなく歩く様を博士は満足げに眺めた。
「ほら、しっかり歩いているじゃないか。この分なら訓練さえすれば普通の子と、あまり変わりなく歩くよ」
院長室には書棚の外は、何も医療器具らしきものは見当たらない。東京市会議員を始め幾多の公務を持つ博士には、一般来客と接する場合が多かろうと思われるし、兼務の三井慈善病院には豪華な院長室もあったことのだろう。
幸子がミノルを連れて大学病院で教授の高木博士の診察を受け、始めてリットル氏病と病名を貰い、さすがは東京帝国大学と信頼を深めたものの、何らの処置について指示されなかったことは、若い母親にとって一層の不安を募る結果となった。その帝大の高木教授の師であり、大博士とも云うべき先生が、それも自分たちの住む下町に開業していると聞いたのは、それから間もなくである。
「高木に診て貰ったのだろう。この程度なら、なにも心配することはない。すぐ歩くようになるよ」
師弟の診断はやはり全く同じだった。あれから三年、ミノルも先月満四才の誕生日を迎えた。ミノルは五月生まれだから当然四月からは幼稚園に入れた筈だった。二年後には小学校へも入れねばならない。年ごの妹、圭子は来年幼稚園だった。幸子は焦った。確かに歩くには歩けるようになったとは云え、手先は固く指も精緻には動かぬらしかった。もちろん指数など、出来ぬ。それでなくとも言語が不明瞭なのは、致命的だった。幸子には我が子のたどたどしい言葉は全て理解できても、見ず知らずの他人には、ほとんど理解できぬ場合もあるらしかった。それは当然知能を疑われる。親の身贔屓からも日常の動作から見て、我が子が低能とは信じがたい所だったが。
 昭和八年六月十九日、梅雨前の暑い日差しの一日だった。四度目の誕生日が過ぎいろいろと思い余った幸子は、三年ぶりに田代病院へ院長診察の予約を頼み、朝からミノルを連れ下谷まで出掛けて来たのだった。
「何時から歩き出した」
「ご診察をお願いして半年も達ちましょうか、すぐ下に妹が居りますので、それが歩き出すと、すぐ後を追うようにして」
「そうだろう」
博士は自分の予見が正しかったことを裏打ちするように大きく頷く。ソフアに深く掛け直すと若い母親に優しく目を向けて、両腕を肘掛けに載せカルテも執らず、幸子のその後の経過をゆっくり聞いてやるのだった。
「先生は何もしなくてよいと、おっしゃったのですが・・」
患者にとって医者に何等の処置も執って貰えぬのは最大の不満となる。幸子はこの三年、牛込まで、ある著名な人気力士も来る揉み療治師の所へ、週三回通わせていることから話し出した。ミノルも玄関に出茶麿ヤの巨大な下駄があり、びっくりしたのを思い出す。
「マッサージをして何も悪いことはないのだが・・、とにかく運動させてやること。親でもよい。手でも足でも動かしてやることだね」
話は当然すぐにミノルの教育問題に移った。とにかくミノルは外へも出られるようなって、年下の女の子たちと遊ぶようになった。みな妹圭子の仲間である。何故か表通りの商店街には時計屋の男の子以外は、みな女の子ばかりだった。
「来年には妹も幼稚園ですし」
一年違いに過ぎなくとも、親は兄を兄として立ててやりたい。だがこのままでは幼稚園はおろか、義務教育もどうか分からない。例え就学免除の申請をせずに済んで、小学校に入れれて貰えたとして、通いきれるものやら甚だ疑問だった。現にそれは幸子がミノルの手を引いて街中を歩くだけですぐに分かった。ミノルの不様な歩き方を見ては、子供たちが寄って来て何やかと囃し立てられるのは、ごく日常のことであった。
「まだちょっと早い気もするが、こうした子供たちを治療しながら教育している学校へでも入れてみるかね。吾輩が顧問をしておる学校なのだが・・」
ずっと若い母親の話を一つ一つ頷くだけで聞いていた博士だったが、大きく息をつぎ言葉を入れた。
「こうした子供たちの為の学校があるのですか」
幸子の目が急に輝いたのは云うまでもなかった。彼女は自分が府立第一高女出と云うことに尊大な誇りを持って居り、また単に自分が一時期、女高師を目指した時代もあったと云うだけで、教育問題に多大な関心を持って居ると自負していた。だが、盲人には盲学校があり、聾唖者のための聾唖学校はあっても、こうした子供たちの学校が日本に、それも東京に存在するなど全く知らなかったからである。
「杉並で、ちょっと遠いが、行って見るか」
今の幸子には、ことの有無はない。ミノルの手を引き田代病院を出ると、横手のそば屋に入る。ミノルに「もり」を食べさせ、家に電話を入れる。省線の秋葉原から真っ直ぐ新宿へと向かった。もちろん、布地のハンドバックの中には、松蔵への紹介状が入っていた。
新宿の駅前から青バスにと指示されていたが、食品専門デパートで三越系の『二幸』のある表口に出ると、幸子は今さら子供連れでと思ったのか、すぐに円タクを拾った。堀之内の門前町を急に視界が開けて田園となる。堀之内は落語の題名になった程の流行寺院、妙法寺があり、東京市の中に編入されたばかりだった。
「この停留場が八幡通りらしいですよ」
円タクの運転手は車を停め窓を開けて傍らの標識を指差した。
「この辺に立看板がある筈だけれど」
そこは六間道路と三間道路の交差地点だった。雑木林が開けて蕎麦屋と僅かの雑貨も商う煙草屋が二軒並んだだけの閑静な場所だった。戦後は地下鉄の車庫が出来て、方南町駅は支線の終点となり、東京オリンピックの直前、環七が開通して立体交差になった今、昔日のおもかげは全く何もない。
「ああ、ありました。ありました」
道路の角に背丈程の白地の角柱に『柏学園』と黒く太字で書かれ、その下には小さく『この先一丁半』と記されている。右折した円タクが柏学園門前に停車したのは間もなくだった。
幸子は松蔵とトクの人柄にも、新教室の増築も済ませた新装の園舎にも、また手入れの届いた新緑に輝く運動場にも充分満足した。そして帰路、教えられた通り鄙びた『八幡通り』停留場に停まったバスが、毎日、自分の店のまん前で停まって行くバスと全く同じなのを知った。もちろん幸子はそのバスに乗って帰る。運転手に女車掌が乗車するその頃のバスは定員が二十人前後、今なら差詰めマイクロバスの大きさだった。まだ学齢前の新入希望者ミノルの住所を聞き、また時には深川不動尊に参る事のある松蔵は、通学所要時間を五十分と幸子に教えたが、実際には夕方ラッシュ時、蚕糸試験場から新宿、四谷から半蔵門、東京駅、永代橋を渡って自分たちの店のある町の交差点、そして斜向かいのバス停留場に着くまで、一時間はたっぷり掛かった。行き交う新宿の雑踏の中を通り夕方と云う時間帯の故もあったろう。
一端乗れば大形の乗換切符を貰って市内なら何処まで行こうと、七銭で済む市電とは違って、バスは一区間五銭である。距離が長ければ四区二十銭まで、僅かといえばその通りだが往復すれば四十銭、六歳までの子供は只、無料としても、大人が一人、送り迎え二往復すれば八十銭となり一円に近い。当時としてもバスには定期券がない以上、かなりの負担となる。その夜幸子は圭介に一日の報告をしながら相談した。圭介は子供の養育については幸子のリードのままである。もちろん特別な異議をはさむ余地もなかった。
「おまえがよいと思うなら、それもいいじゃないか。毎日の送り迎えなら僕も仕入れの帰りに迎えの方を協力するよ」

 

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