光明開校(4)


 

 一方、光明学校は公立養護学校として順調に結城校長の手によって発展して行った。柏学園に職員が見学を行った翌月の六月には仮入学式を、四月初めから入学選考をした三十四名に一応授業を開始した。リットル氏病が十名、その他の脳性マヒが三名で、やはり脊髄性小児マヒ、つまりポリオが十二名と一番多い。開校精神があくまで教育効果の重視する立場から云えば当然だが、これも最初ゆえに脳性マヒを入学させたが以後は激減する。十一月には文部大臣、市長、助役、それに藤井教育局長を主体に来賓五十八名を招いて正式な入学式を実施する。それまでには生徒数、四十一名に達していた。
 常勤職員は校長のほかは訓導三名、看護婦四名だった。クラスは三組、一年は梅組、桃組の二クラスで、二年と三年の上級混合クラス桜組を設けた。そして授業科目は柏学園の在来師範教育を主体にした科目とは異なり、結城が影響を受けた成城小学校の科目設定が考えられた。例えば算術は数学、唱歌は音楽、国語の中に綴方、読方、書方、それに聴方と読書が加わる。成城を開校した沢柳政太郎、聴方は沢柳の新教育理論の主体だった。師範教育が主体の柏学園とは異なり、新教育への萌芽を見られる。更に特徴的だったことは、成城小学校にもなかった生活科が加えられたことである。これは結城校長独断で、最初数学を一時限、減らしたことから考えれば、どうしても実際の生活面で疎くなりがちな身体障害児のために実践的な数学、例えば買物のような教材を使ったのではなかろうか。
 翌、昭和八年四月には藤組、学級一つを増やして四学級で生徒数五十五名に、そして昭和九年四月にさらに一学級、桐組を増して五学級、生徒数六十八名、昭和十年四月にはその上に一学級、椿組を増して六学級九十八名となり、ここに光明学校は、ようやく公立養護学校としての形態を整えることとなる。
 昭和九年の秋だった。十一月の半ば、もうすっかり秋の終りに近づいている。松蔵は急に思い立ち、子供たちを送り出してから夕食も摂らずに出掛けると言い出した。
「ちょっと町へ出てくる」
 トクは珍しいことなのでちょっと戸惑った。昨年から織田訓導も加わり、高等科を含めた上級生を担当しているので、松蔵は午前中マッサージに専念すればよかった。五時には寄宿生と一緒にテーブルを並べて夕食を摂るのが日課である。もちろん食膳は寄宿生、一緒に並ぶトクや保母たちと、すべて同じものである。たまにはトクに佃煮などの突出しを用意させ、銚子に日本酒をつけさせることがあったが。もちろん教員生活当時でも、公務上の付き合い以外、酒を飲んで帰るようなことのない夫であった。
「何処までお出掛けになるのですか」
「銀座まで行ってくるんだ」
 新宿の本屋にでも気になる本を見付けて出掛けるものと思っていたトクには銀座と聞いたのは意外だった。松蔵は木枯らしが吹き始めた八幡通りの道を青バスの停留場に向かった。東京の市内バスは市営バスのほかにこの青バスが走っている。京王線の代田橋駅から甲州街道を右に曲がり堀の内を通って青梅街道から新宿に出る路線である。それが半蔵門に出て日比谷、東京駅、日本橋と永代橋から深川の州崎に通じる。昨年六月に入園したミノルも通ってくるバスでもある。また毎朝、家を建て引っ越してきたトモハルの父が深川の汽車会社に通うバスでもあった。松蔵が新宿より遠くに出るのは稀だった。もっともトクが震災の時、詣でていた深川の不動尊に夫婦で参拝することがあっても、それは偶々、二十八日の縁日が休日と重なったばあいだう。松蔵は神仏を崇敬すものと信じていても、現世利益は受け来るものとは思わない。不動尊の尊称に敬意をもった。磐石、動かず、と彼自身の信念にも似た言葉が好きだった。
 すっかり色づいた堀端を抜けて、日比谷でバスを降りる。さて朝日新聞社と、都心に慣れぬ松蔵は戸惑った。銀座方向へ、大きなビルの建築場がある。高いテントで覆われ未だ全容は想像だにできない。やがては日劇となって世情を騒がすのだが、朝日新聞本社はその頃、その横手にあった。後年『君の名は』で有名な数寄屋橋の手前である。エレベーターで上りこぢんまりした座席数数百の小講堂、それが朝日講堂だった。今夜は東京帝國大学整形外科教授、高木憲次の講演予定は六時からである。受付の看護師らしい女性に十銭支払い、早めに入室した松蔵は、その日めずらしく前列三番目の右端に占めた。彼の日頃の定席はバスに乗っても最後部右端だった。何か期する所が在るのを伺える。
 この四月に高木は医学会でクリュッペルハイムについての講演を行った。ある新聞にはこれを「紙上医学大会」と称して市民の啓発のために三回に分けて記載する。松蔵も学園日誌にその切り抜きを挟み込んでいた。連載を毎日読んでみても、彼には疑問が残る。今日はそれを直接、確かめてみようと思い立ったのだった。予定時間の六時近くなると空席は少なくなって来た。松蔵は存外に思う。また、世上の関心が厚いのを感じて心強くもあった。
「クリュッペルとは如何なるものか、まず初めにその定義から申し上げることに致しましょう。人間の四肢及び?幹、主として運動機構に著しき持続的障害あるのみにして、其の知能は健全なるものであります。従って、整形外科的治療を充分に施し、且つ之を適当に教導する時は、生産的に国家社会に尽くすことの出来るものであります。またクリュッペルが働くことも出来ず、従って一家の不労人となって厄介者扱いを受け、非生産的にその一生を終えるよりも、まず、この子を治療し、教育し、次に疾患の種別、軽重ならびに、その子の智育能力とを考慮して選定するところの適性を調べ更に職業的訓練を行い、自活の途の立つようにしてやろうと云う事業であるから、積極的事業です。もちろん拠り所なき老人や養育する親を亡くした子供、彼等を保護してやるのと同じような大事な事業です」
 まだその頃クリュッペルの定義として四肢、体幹運動機能に欠陥があり、知能は健全なるものとするのが一般的であった。当時の識者、医学、教育者を含めての持論である。従って脳性マヒが障害が脳神経にある以上、知能にも欠陥があると考えたのは、神経生理学が現在ほど発達していなかった当時として、止むを得ないことで、あったのかも知れない。
「まず第一に吾々、整形外科臨床家がクリュッペルを収容し、治療し、看護して、その疾患を先ず治さねばなりません。これから後で述べますが、一般に整形外科的治療というものは、数カ所の手術をすることが多く、準備的処置から主要施術を経て、中間療法及び、後治療(リハビリ)を終了するまでには、相当長い年月を要するものが多いのであります。またこの為には子供たちに、同時に義務教育を授けねばなりません。従って今日までの、いわゆる病院機構だけでは不十分なのです。三番目に職業教育をも授けねばならぬ場合もあり、これには疾患部位と軽重とを考慮して選定するのです。そして各患児の適材技能を指導することになります。最後は職業紹介および授産が必要です。これは更に従業員の何パーセントはクリュッペルを採用するということが決まれば、尚、良いわけです。要するにクリュッペルハイムとは治療、学校、職能、授産と、以上の四機構を具備する所の、ものなのであります」
 クリュッペルハイムは高木の留学以来の宿願だった。また恩師の創設した柏学園はクリュッペルスクールであって、クリュッペルハイムではないとする所も彼の持論であった。光明学校に対しても、翌昭和十年に、同じような見解を示している。ただ一つの肯定的見解は、大正十三年六月に発表した国家医学雑誌に、それは帝大教授に就任したときであったが、前年ドイツ留学から戻り、見聞してきたクリュッペルハイムを紹介した記事のみである。
 これ以降は、あくまでもクリュッペルハイムでなければ、療育と教育の一体化されたクリュッペルのための施設とは、云えないと云うが彼の持論だった。
 その後高木教授は図版を示しながら、整形外科医学の発達について、脊髄性小児マヒや先天性股関節脱臼の例をあげ講演を続けられる。だが脳性小児マヒについては、ほとんど症例を示さなかった。ただ不具の児童を狩り集めて、義務教育を授けるだけでは、不完全のみならず、クリュッペル児童の心理を解さぬもので、かえって面白くない結果を引き起こすと云うのが、この講演の趣旨でもあった。
 果たしてそうであろうか。もしも知能が健全なものだけを言うならば、柏学園の園児の大半はクリュッペルの中に入らなくなってしまう。今まで田代博士から言われてきたことと、大いに違うので当惑してしまった。生産的に国家社会に尽くすことのできるものとなると、全く対象外であきらめざるを得ない。松蔵自身もそれは納得していた。しかし実際の教育・治療に携わって十年余、扱った子供はほとんど脳性小児マヒ児であった。シズコ、またリットル氏病と明記されて居り、右足を尖足ながら歩行可能なテイジ、共に「アー、アー」と発声するのみで、大小便の告知もままならなかった。果たして、脳性小児マヒはクリュッペルハイムの対象に入れられるのか、多くの疑問を抱きながら、疑義を正そうとする最初の覇気も消え失せて、講演会場を後にして行く松蔵の姿だった。


 

 

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