光明開校(3)


 

 明けて昭和八年三月二十日に学園としては、第一回の卒業式を行った。トクが訓導として一年生から面倒を見たアキラ、タテキ、マスジ、トシハル等、四人の卒業生だった。柏学園として初めての本格的な卒業式である。キヨコやコウイチのように比較的軽度のもの、教育効果が上がった児童は私立などの小学校に転校していく。ジロウのように学園で生活しながら普通小学校に通い、卒業したものも居る。ご奨励教室も完成し、二教室になったので、間仕切りを外せば二間の式場となる。式台の正面には日の丸張りヘビーオルガンを運び入れた。その二週間前からトクは『蛍の光』の練習を始めた。
「この卒業式の歌、みんな知っているでしょう」
 君が代はいつも歌っている。『仰げば尊し』も教えてみようと思ったが、言語障害のある者には発声が少し難しい。しかし松蔵夫妻が唱歌の時間に、いつも思うことだが、歌を教えると、言葉なら痙攣障害のひどい子供たちでも、緊張が取れて割合、楽に歌えるものだと感心していた。
 実際には卒業証書を、ひとりひとり毛筆で手書きし、トクの発案で丸く巻き、赤いリボンで結んだ。手の悪い卒業生たちが卒業証書を、両手で拝受するのは通常の状態で、無理と判断したからである。もちろん松蔵園長、手ずからリボン巻きの卒業証書を手渡す。もちろん園長として、それぞれの生徒たちに労苦をねぎらう意味であったが、松蔵自身では六年間の手塩に掛けた子供たちに、ようやく学業を修えさせて、卒業式を迎えさせる喜びの方が強かったかもしれない。
「よかたったね。卒業式」
「蛍の光、歌ったら涙が出ちゃった」
 男の子ばかりだったが感傷的になる。翌日、二十一日には卒業記念遠足として、特別に半沢運転手を頼み明治神宮参拝を行った。これ以降、柏学園は昭和十八年まで隔年であるが、合計六回の卒業式を挙行する。また、この新年度の四月からは新たに織田訓導も加わり、養護小学校、又は特別支援学校としての充実した十年となる。この同じ年の暮れ、昭和八年十二月、田代博士は東京市教育局から依頼されて、市主催の学校衛生講習会に臨み「不具児童の養護」と題する講演を行った。
 若い体育課長が市議会の議員控え室にやってくる、先ほどと田代病院に電話してみたところ、博士は議会に出席したとのことだった。昨年の課題、光明学校の設立には博士の示唆が大きかった。来週の学校衛生講習会には是非学校医の研修会で博士に特別講演を依頼して来たものである。現役、帝大の高木教授とも思ってみたが、教授は今度の光明学校に対してどちらかと言えば、積極的でないことを知っていた。校長結城の医学研修に対しても、医師でないものの研修には立場上認められないと、なかなか立場を崩してくれなかった。結局、最終的には、恩師たる田代博士の助言を入れ、研修を認めてくれてはいたが、小学校の依嘱学校医、ほとんどが学校付近の内科医である。クリュッペルについてはズブの素人に近い。光明学校設立の趣旨を、少しでも理解させようと企画したのだった。控え室のドアを開けばすぐに博士の姿は目に付いた。偉容な体躯である。近くに寄って声を掛けた。
「先生、しばらくです」
「しばらくだったね、光明のときは随分、世話になったな」
「実は今日は先生にお願いがあって、今度の学校衛生講習会で、主に光明学校に対して特別講演をお願いしたいと思っているのですが」
「まあいいだろう。あの時は高松宮さまが、お見えになって、なかなか大変だったなあ」
「これが今日の講習会の題目なのですが」
 課員が差し出すガリ版刷りの立案草稿を流し見て、ちょっと博士の要望は険しくなった。
「『不具児童の養護』かい。我輩はこの言葉、どうも好かんね」
 若い課長にも、博士の気持ちが、すぐには理解出来なかった。不具の子供たち、それは事実なのであるから、その者たちの養護をしようと言うのである。なにが不機嫌なのか、よく理解出来ないようだった。
「どのように直したら宜しいでしょうか。一応、この草稿は局長の手許まで、提出してあるのですが」
「まあいい、我輩が講演の中でよく説明して置こう」
 演台の上に立った田代博士は聴衆に一礼の後、
「まず最初、皆様に申し上げて起きたいことがあります」
 と述べ、つかつかと、傍らの演題を掲げた掲示立に歩み寄る。そして『不具児童の養護』の文字を指差し
「不具と云う言葉は、なるべく使わないやうにしたいと云うのが、私の希望なのです。実は私、大正十年に、柏学園と云う小さな学校を設立しました。それは西洋で云う『クリュッペル・スクール』です。その目的の中には手足の不自由な児童、不具児童とは書いてはいない。手足の不自由な児童に、普通学科を授けるのですが、身体云々と書いてあります。身体の不自由な児童に小学教育を授け必要な場合には、専門医によって整形科的治療を施す。幾分でも、その不便を取り除き進んで職業教育を授け、将来独立して仕事に従事する事を目的とす、こういう事で、今、杉並区堀ノ内町に校舎を建てて居ります。そういふやうに『クリュッペル・スクール』と云う字は看板に用いて居りますが、しかし報告書の中にも、規則書の中にも不具と云う文字は、入れないやうに注意して居ります」
 当時はクリュッペルという言葉で博士は差別語を避けたと認識していた。クリュッペルという言葉自体、「せむし」から来た差別語である。現代ではほとんど使われていない。ディスアビリティ障害、ディスエーブルが障害者を意味している。それはマイノリティに対してジプシーをまったく使わずロマと言うようになった。ニグロ、インディアン、エスキモーなども同様である。
「私の柏学園の生徒、これは大多数はリットル氏病で、それで脳が悪い、光明学校の生徒とは違って居ります。歩けない、何編でも転んで歩かうと努力して居る子供です。現在居るのは十二、三人居りますが、其中に偶々一人達者な子供が来ますと、十人程の者は動けなくなってしまうのです。呆気に取られて見て居る、たヾ自分達の仲間だけになって居りますと、笑ひながら互に競争して歩かうとして居ります。だから同じ子供同志でありますと愉快、その中に違った者が入いって来ますとだめ、とにかく『クリュッペル』の子供を他の健全な子供の中にまぜるといふ事は出来ません、ですから光明学校の如きものを適当な地域にもっと(たくさん)独立した校舎を建てる、これはさう願ひたいが、これを既設小学校の一部に収容してやるといふ事はいけないと思ひます」
 まだ当時にはノーマライゼーションと言う概念はなかった。一九六〇代になってようやく北欧諸国から言われ出した理念である。現に日本ではこの時代、厚生省では七〇年代に入り群馬県高崎山に国立コロニーを企画し建設した。隔離した障害者の施設、障害者の楽園を建設するという意識があった。まず始めに知的障害者の施設、順次、盲、聾、肢体不自由と施設を拡充していく計画だった。しかしノーマライゼーションの思想が普及するに従い、計画は頓挫していく。だが、これは戦後の思想であって、まだ時代は昭和初期、博士の講演の中には浮かんで来ない。
 障害者救済の思想は、なんと言っても源は欧米にある。聖書には幾多の身障者救済の記述があるが、仏教経典にはほとんど見当たらない。根元には縁、因果応報の思想があるのではないか。田代博士も高木にもたった一度のドイツ留学で欧米と東洋亜細亜の差を知った。
 障害者侮蔑の風習が緩和されていったのは、なんと言っても戦後のことになる。それは戦時中の傷痍軍人救済思想から始まった。日露戦争当時は廃兵院と呼ばれた役所が軍事保護院となる。白衣の勇士として喧伝させられた。野口英世がたんに手の指の火傷で、いじめにあったのは有名だ。この後、日中戦争が始まった当時、指の奇形に悩む少年を救済する話が松蔵の日記にも出てくる。 
「現在、光明学校へ通っているのは送り迎いがついて居る、付添人なしには通学出来ません。そうだとすると、中産階級でなければ光明学校へあげられない、これはいかぬ、市立小学校、『パブリック』の小学校であるから、月謝も納められない家の子供でもあげられるやうにしたい、付添えが出来る家庭なら、私立学校でも通はせることが出来る。私は市立の方へは月謝のためあげられないといふ、まあ『カード』階級といっても宜しい、その子弟を光明学校へ収容したい。併しながら現在ではさういふ事も出来ない。私共は理想としては『パブリックスクール』として月謝免除、その必要ある家庭の子供を収容したい。直ぐは出来ますまいが、将来はさうして頂きたいと、考へて居ります。」
 それでも肢体不自由児の義務教育化は、盲、聾唖の子供たちに比べれば大分遅れた。完全義務化は昭和五十五年になって、ようやく達成される。この時の博士の演説から四十年余り過ぎていた。会場の片隅、飾られた西洋ランの生花へと、チラリと目をやってから、田代博士は言葉を続けられる。
「それから『クリュッペルスクール』といふものは教育を授け、治療を施し、授産をし、尚寄宿舎でなければならぬ。そうならんでは、手足の不自由な子供を社会人として育てあげるといふのは、右の四つが揃はぬとはいかぬのです。第一が普通教育を授ける学校、そうして治療をしてやる、それに職業を授けなければならぬ。従がって、第四には寄宿舎といふものがなければならぬ、それが出来ますれば『クリッペルホーム』といふものが出来ます」
 ここで明らかに田代博士は、トクの柏学園寄宿舎を意識したのであろう。
「手足の不自由な子供といふ者は、家の片隅に置き放しにしてあります。所謂、一生涯まづ徒食の人、食って生きると云う消費者である。これを国によっては、こう云う様に、ただ食べて暮らして居ると云う人に、教育を授け職業を与へる、他日、独立生活が出来る様にさせたい、人が全く他人の世話になりきると云うより、自分の腕により多少でも生活費を取ると云う事は、その人をして強味を覚へさせる、俺はとにかく、幾らでも取れると云う事は社会人として、非常な勇気が出て来る事であります」
 やがて博士は壇上に戻りテーブルに用意された物を取り出される。
「この団子はリットル病『アテトーゼ』の子供が作ったものであります。子供に粘土で団子を造らせる。始は本当は出来ませんが、徐々によく出来ます、そうして指の練習をやらせる、この指の練習と云うものは治療上非常に必要なものであります。歩行練習をさせると云う事も必要であります。団子を練る、千代紙を切らせる、所謂、練習療法であります。リットル氏病に、外科手術を施すべきかどうか、外科手術の成績は叡知の発達に伴うものです、特にその子供が或る程度、医師の命令に従うだけの能力でなければ治療しても駄目です、それですから、叡知の発達を待つ為に家庭に於ては、母親が幼稚園の保姆の如き心得を以て、育てると云う事を訓戒してやるんです。それを私は教育的治療と呼んでいるのです」
 博士は明確に作業療法の必要性を説いている。東京市主催の学校衛生講習会であるから学校医の研修会を、もちろん松蔵はこの講演を聞いていない。新しく作られた光明学校に対する説明を目的としたものだった。大多数の学校医はその学校近くの内科医である。彼等に対して新しい整形外科知識の復旧を兼ねたものだった。しかし博士は新しい光明よりも柏学園を意識していた。自分が作った学園として光明学校でなしに、柏学園を例に出しているのは、現在になれば注目すべきことだろう。




 

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