光明開校(2)


 

昭和七年三月末、光明学校の設置が市議会で可決されると翌、四月付けで、結城の校長兼訓導の辞令が出た。辞令が出ると彼は早速に田代博士の許を訪れる。
「君かね。こんど光明の校長になったのは」
煉塀町の田代病院、院長室である。博士は経歴その他を質問する。
「身体の満足ではない子供たち、君はどんな風に考えるのかね」
「三年前には麹町小学校で開放教室を担当して居りました。その当時には茅ヶ崎の白十字会林間学校などへも、実際の養護学校として見学して参りました。身体に欠陥を持った子供たちがどの様に生活していくか、一応、理解してきたつもりで居ります」
「だがね、虚弱児童と肢体不自由児では、基本的に大分異なる点があるのはわかるね。子供たちに接する基本的な精神は同じだが、内容には全く違うものがあるのだよ」
 その五月初め、結城は電話で柏学園の参観を申し込んだ。私立とは云え、斯界の創始者であり、また今度の企画の立案者でもある田代博士が、手ずから作られた学園と聞いている。まず大先輩に敬意をと、軽く考えただけだった。麻布にあった校舎、明治四十二年に建てられた新堀小学校は本来貧民小学校だった。それが今度廃校となり新しい肢体不自由児のための奨励学校になったのである。まだ建築後二十年とは言え建築予算を相当切詰めざるを得ず相当ガタがきていた。看護婦の郁枝、今度小石川の市立病院から配属され小児科で何人かのポリオを見てきた。また多数の病院看護婦の中では目立つ存在でもある。結城の机の前に進むにも床板が軽く音立てた。
「先生、本当に午後から来いと言っているのですか」
「うん、そうだよ」
「午後から行ったのでは授業も何も終わってしまっていて、実際の様子を何も見られないではありませんか」
「でも先方がそういう風に指定しているのだから仕方ないだろう」
 郁枝には今度の新教育には興味はあった。自分にもそれなりの抱負があった。実際にそれとの差違が早く見たかった。
「構うことありませんよ。朝から行ってしまいましょうよ。見させて貰えばどんな風にやっているか解るでしょうから」
 穏健な結城にすれば不本意であったに違いない。しかし若い者たちに押し切られた形になった。松蔵は午前中は授業、治療で多忙故、午後にと指示する。翌朝、結城は一緒に発令された訓導、看護婦ら、四人を連れ、午前中でなければ何も見られぬと、柏学園の玄関口に立った。
「光明学校の先生方がお見えになりましたが」
 玄関に出て行ったフイの答えに、松蔵は舌打ちした。まだ九時、ようやく生徒達をひとりひとり教室に座らせ、自分はこれからマッサージをしてやろうと思う子供一人を、毛布の上に寝かせたばかりだった。最上級生六年の四人には自学を命じてある。トクはこれから二年生のケンジとミツル、四年生になったマサオやナオブミたち三名の生徒と複式授業を始めるところである。まだ、この他にも昨年秋に入園したヤスエ、それにヒロシの幼稚園組を手前の机に座らせて居る。あとの職員は保母とは称しているが、フイにしてもフイ姉ちゃんと呼ばれるお手伝いさん、住み込み二十歳前、地方出女性達である。とても学校授業養育の解説など、とても出来る立場では無い。園長が立てば学校行事は、それでストップしてしまう。
「ぜひ授業の様子を見せて頂きたいので、失礼かとは思いましたが、午前中に伺わせて頂きました」
「午後から来て頂くように申し上げた筈ですとの」
 押し問答は続く。しかし松蔵は最後まで約束が違うと、小半時近く五人を玄関先に立たしたまま、ついに学園内には一歩も入れさせなかった。温和しいフイ、玄関と松蔵の居る治療室の間を、ただオロオロ、往き惑うばかりだった。その日の松蔵の日記には『あまり世なれぬ生意気者』と記されている。松蔵の性格など、全く事情を知らぬ結城故に仕方もなかろうが、迂闊と言えば迂闊であった。自ら直接電話などせずに田代博士なり、その筋なりに紹介を依頼してあれば、松蔵の気質からして後輩たちを懇切に指導したかも知れない。
 その翌月に光明もいよいよ授業を開始した。入学児童は慎重に選んだ三学年まで四十名余りだった。初年度こそ脳性マヒ児を入学させたが、以後は、ほとんど重度の歩行不能な児童は入学させていない。光明と柏学園では開校理念が全く違う。光明はあくまで教育効果を重視した。最初こそコネで何人かのCPは採ったが、知恵遅れなど問題外と言える。この理念は田代博士と高木の間にも通じることだった。
 すっかり夏の粧いを捨て秋風が肌に凍みる十一月初め、光明学校は全ての改装工事を終え、ようやく、開校式を行う。文部大臣、東京市長等、以下多数の来賓の中に交じって、のこのこ、松蔵は半年前のことなど、どこ吹く風とばかり参列する。やはり私立の柏学園と比較にならぬ設備も具わっていた。診察室、治療体操室、ギブス室、太陽灯室など、専用のマッサージ室もあった。また、子供たちが喜びそうなカナリヤ、文鳥などのゲージ、金魚鉢、飛行機軍艦の模型、それらを松蔵は羨望の目で見、帰って来る。しかしまだ、平行棒を中心に緑の芝生と花壇のある運動場には自信があった。
開校式から十八日目、光明学校を高松宮様が御夫妻で御覧になった。東京の各新聞に派手な記事が紙面を賑あわす。朝一番、郵便受けから朝刊を手にし『薄幸の児に愛撫の御手』との大見出し記事を、松蔵は憮然とした気持ちで眺めていた。
その朝から丁度一月、同じ日の十八日、突然まったく予想もしていなかった電話が掛かる。高松宮家別当職からである。三日後の午前十時に高松宮両殿下が柏学園にお見えになると言う電話だった。その時の松蔵の驚きと喜びは如何ばかりであったろう。
 光明ご見学の際、宮様から説明役の田代博士に下記のようなご下問のお声が掛かった。
「こうした学校は日本では初めてなのだろう」
「いや、そうではありません、私立の学園なのですが、以前から私が指導して同じような不具児童教育をしております」
「ほ、ほう」
 五大強国の仲間入りを果たした日本とは云え、まだまだ社会施設など,欧米文明諸国に遅れを取っていることを、ご存じの宮様には意外だったらしい。
「社会事業として有栖川宮賜金など、ご皇室からの援助も戴いておりますが」
 有栖川宮家は絶家したあと、高松宮家がご祭祀を見る事になっていた。したがって宮様も、或いは妃殿下喜久子姫が一段と深くご興味を、お持ちになったのかも知れない。(高松宮日記、この期間半年、一切の記載なし)
「震災前の大正十年から始めて居ります」
「そんな頃から出来ていたのかね」
 早速見てみたいとの、急な宮のおぼし召し、ご予定には全く無かったが、松蔵の学園をご視察と決定されたのだった。松蔵はすぐ浅田邸に走り、御座所の椅子を借用に行ったりもした。浅田が喜び感激したことは云うまでもない。倉を開けさせて、その昔、明治天皇が行幸された時、使用したお椅子など、御接待用の家具類を取り出させる。
「これでは、あまりに古すぎるよ」
 と眺めるなり、すぐ傍らの手文庫を取り寄せ、壱拾円紙幣三枚を半紙にくるみ、新調のための費用だと出してくれた。
昭和七年十二月二十一日、この日は松蔵にとって生涯、最良の日となる。恐らく一生、報われることのない覚悟で始めた、この仕事を直宮様に、公の学校と同格に認めて戴けた。それが松蔵の最も大きな喜びであった。
 松蔵の日記によれば当日、午前十時、両殿下に自動車を玄関脇まで上って頂くつもりでいた。所が正面の車道で御車を下りられ、浅田家から毎年、霜除けに寄贈されている塩筵の上を御徒で上がられ、玄関脇の御座所にした応接室に入られる。まず田代博士はご説明申し上げ教室内では六年の「算術」、四年の「図画」、二年は「手工」の折り紙をさせ、一年には「国語」をトクが授業をご覧になり、終了後は子供たちを運動場に下ろし、歩行練習、また廊下にいては治癒玩具等を利用した手の稽古などを松蔵がご説明申し上げた。生徒ならび、関係者一同に菓子を賜り、整列して四十分程でご帰還になる。
 今の「毎日新聞」当時の東京日々新聞の夕刊によれば、「手の利かぬ子に妃の宮御心づくし不具の子等を導く柏学園へ、けふ高松宮両殿下御成り」と大見出しで「さきに麻布光明小学校、京橋水上小学校に成らされた社会事業に深く御留意の高松宮、同妃両殿下には廿一日午前十時云々」とある。
 超えて二十八日、また高松宮家から呼ばれた。参殿してみると、台臨記念品料として肋木二台分、金一封を下賜されるというのである。現金で戴いた。肋木は早速「ミズノ」に注文し、翌年二月に完成する。両殿下台臨記念の賜り物であることを明記し、御下賜の残金で注文した軍艦模型と、共に写真を撮り、三月に参殿してご報告申し上げた。この年以来、松蔵は毎年元旦には年賀に伺候して、時には郷里上山名産の干柿を献上したようである。




 

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