光明開校(1)


 

 文部省の普通学務局長室である。局長の武部には、これから相談に来ると言う東京市の藤井教育局長の用向きが何であるか察知できた。武部も今度の東京市が設置を決めた不具児学校には少なからず関心を持っていた。何しろ明治五年の学制に『廃人学校』と記載されながら六十年、一度も実現していない。何がこれで文明国なのか。しかも一方では大恐慌、非常時、普通児さえ校舎不足の二部授業、果ては昼に弁当をも、持って来れない欠食児童さえ多数いるのに、何で貴重な予算を、何も役立たず不具児の為に、との声も高かった。
「今度の光明学校の校長人事の件なのですが」
「コ・ウ・メ・イ・ね。ああ、そうそう、永田市長が自ら名付けられたそうだね」
「何しろ皆、門外漢ばかりでして、尻込みして居ます」
「それはそうだろう。全く誰もが経験のない分野だから」
「それで田代先生が柏学園の柏倉をと強く推して居られるのですが」
 藤井の顔には明らかに当惑の色が出ていた。武部には部内からと言う気持ちは、役人同志の感ですぐ分かる。
「内でも課長に小児マヒの娘を持つ者が居てね。まだ学齢前だが、去年、子供を連れて見に行って来たと話してた。なかなか篤実で真面目な男だそうじゃないか」
 藤井は局内で松蔵には何度か会っている。
「はぁ・・」
 と答えるしかなかった。
「柏倉は岡山で師範の教師をしていたそうだが、何を教えていたのか君は知っているかね」
「体操の教師だったようです」
「体操ねえ」
 武部は首を傾げた。如何にも体操教師ではと言いたけな口振りだった。
「この際、新教育に関係していた人なんかどうかね」
 武部には最初から腹案を持っていた。勿論、藤井が校長の人選を内部から進めたいという意向を百も承知の上だった。
田代博士が正式に東京市議会に、肢体不自由児施設の設置を提案したのは昭和五年十月である。前々から博士は、こうした施設の運営には、個人の力では限界があり、公の力に頼らねば如何とも為しがたいと痛感していた。その為の市議会入りでもあった筈である。
 柏学園にしても十円の月謝は高い。大学並と言える。当時、大学進学までの経済的負担に耐え得る階層が一割あっただろうか。松蔵にすれば、全てを切り詰め限界ぎりぎりまでやって来た。夫婦の生活費は恩給で賄うと、無報酬は事業開始からの覚悟のことだったが、雇人には労賃も払わねばならぬ。何人かの園児に月謝を免除したこともある。
 しかし世は世界的な大恐慌時代。その中でも松蔵が一番ショックだったのは、やはりトオルの時だろう。トオルの父は海軍少将、少し知恵遅れの脳性マヒで、進級する学業は無理だったが、六年近く在園し松蔵夫妻にも懐いで、それなりの療育効果を上げていた。しかし、その父も退役となれば、恩給だけでは収入はとみに減る。退園は止むなしとのことだった。なぜ学校に来られないかと、問い下がる子供に、松蔵もトクも何と説明してよいものやら、ほとほと困り抜いた。
「トオルちゃんがお利口になったので、学校まで来なくても家でお勉強すればよいの」
 こんな回答を夫婦で出しては見たものの、これが正解なのか、子供を納得させられたと、疑問に悩む二人だった。
 博士は常に松蔵を鼓舞し続ける。市議会に出て必ず公のものを造らせてみせる。そしたら必ず肩代りをさせてやるからな。それまで、頑張るのだとは常に博士の持論だった。
東京市議会で田代博士か提案した施設とは学校だけでなく治療療育、設備も整った総合的施設であった。しかし、東京市の緊迫した財政では麻布の廃校になる小学校のボロ校舎に設置を決めたのがやっとだった。当然、校長には柏倉と名指しで推挙したことだろう。
「田代先生、確かに柏倉君を校長にするのは可能でしょうが、柏学園をそのまま市に移管するのは非常に難しいと思いますがね」
 藤井局長は博士の申し出に難色を示した。それは博士であっても市議会議員という立場から見てよくわかる。
「柏学園の建物、地所、一切を市の方に寄付という形にして頂けば、なんとか考えられるかもしれませんが」
 公の立場からすれば当然に違いない。もちろん柏学園の建物、地所ほとんどは博士が慶明会など皇室、社会事業の関係資金から捻出させようと努力してきた。いくら松蔵が頑張り、また例え爪に明かりを灯して見たとしも、教員風情では到底不可能だった。しかし田代博士には松蔵の努力がよく解る。学園からの報酬は全く受けず、恩給だけで夫婦の餬口を繋いでいた。だが下働きの職員、保母にしても、それが当時の感覚とすれば下女、女中、家事手伝の若い女性であっても、報酬は払わねばならなかった。その他の出費も最初から自前で出すしかない。
「市が不動産全体を借り受けるという形にしてはどうかね」
「いろいろな問題があって難しいと思います」
 ようやく完成したばかりの新校舎にしても、通信設備まではは全く考えていなかった。電話を敷くのに想像外の金が掛かったと聞いている。七百五十円と云う金額は彼の預金としても、ほとんど大分を費やしているのだろう。普通小学校でも校舎が足りぬと騒がれている時代である。教育効果の上がらぬ子弟の為に、乏しい予算を廻して作ると云うのであるから。
「ズブの素人に何が分かる」
 市議会議員はともかく、東京帝国大学名誉教授は天下の御意見番にも等しい。永田市長も藤井局長もほとほと困り抜いた。それで今日、最後の断を文部省の武部に求めたのだった。
「高輪小学校の教頭をしている結城と言う男を知っているかね」
「はあー」
 と藤井は曖昧に答えたものの、いくら教育局長でも校長、教頭の姓名を全て憶えているわけもない。武部が新教育と言ったが、彼は成城の澤柳と親しい。まだ、成城小学校が牛込にあった頃、主事は後に玉川学園を造る小原国芳で、明星学園を造った赤井に誘われ結城も石川県からやって来た。二年足らず、この新教育に参加したに過ぎない。一般的には,それまでの教育の古さを批判し革新する教育,というように理解されているが,より限定した意味では,一九世紀末から二〇紀初頭にかけてヨーロッパ,アメリカの教育界を中心におこった児童中心主義的な教育思潮とそれにもとづく教育改革の試みをいう。新教育は一つの運動となり一九二一年には国際的な新教育運動のための組織として国際新教育連盟 も結成されるにいたった。
 日本では日露戦争直後に京都帝国大学教授の谷本富がヨーロッパ,アメリカにおける新教育に学んで、日本にも新教育運動が必要とされることを説いて,教育界に波紋を引き起こした。彼の主張は,今後の日本の帝国主義的発展を支える人間は,それまで明治政府がすすめてきた画一的形式主義的教育からは育たないとして,カリキュラムの近代化と教育方法における子どもの興味や自発性の尊重を説いた。そのような主張は大正期,とくに一九二〇年代に入ると教育現場において受けとめられ,新しい理論や実践をうみ出した。たとえば,千葉師範や奈良女子高等師範の付属小学校は新教育のメッカと目されたし,成城小学校をはじめ自由学園,文化学院,明星学園,池袋児童の村小学校などの私立学校が、新教育の実践的探究をめざして誕生した。
「柏倉君は師範の体操教師だったが、在職中に医療体操に興味を持ってね。ちょっと変わった人間だが、根は生真面目な男だ」
「医療体操とはどんなものですか」
「一般には体操というとスポーツ、そんなイメージが強くなるんだ。壮健な肉体を想像するが、本来は貧弱な肉体を持つ者のために、あるんじゃないのかな。彼はよく学校体操で身体の弱い生徒たちが、見学などと称して、脇に立っている姿を見て、矛盾を感じ我が輩の所へ手紙をよこしたらしい」
「なるほど」
「ご本人は目明きで、それも師範の教員身分ながら、盲学校まで行って按摩、マッサージの資格を取ったと言うから、見上げたものだと思う。大学病院、我輩のところへ研究に来るにしても、マッサージ師となれば給料も落とさねばならない。幸いと云うものなのか、それはちょっと分からないが、彼には子供が出来なかったんだ。女房も教員だったしね」
「子供が居たらとても無理でしょう。もっとも、考えもしなかったでしょうがね」
 藤井は至って冷淡である。わが身を振り替え考えて見ても、そんなお道楽は出来たものではないと思う。
「大学病院では雇いの身分でマッサージ師にしたのだ。確かに新教育、新しい教育理念も必要かもしれないが、こうした子供達のためには、学校教育ばかりでなく治療というものも、考えてやればならぬと思うがね」
しかし田代博士も松蔵の推薦はこれ以上、無理と考え東京市当局に帝大整形外科教室での結城の研修を勧告した。光明学校について教授の高木の対応にしても、必ずしも好意的なものとは言えない。しかし恩師田代博士の提言があれば無下にも出来ず、また医師以外に病院内部への立入は、許可する訳にはいかないと云っては見たが、一応黙認の形を取った。病院見学の第一日目は、マッサージなどの物療部門見学、この日はさりたる問題も無かったが、二日目の手術見学の際、結城は二度ほど貧血を起こした。神経質の彼らしい。これに対して柏学園の松蔵には、オペを見て貧血を起こす神経質さはない。もちろん大学病院でリハビリを担当した以上、マッサージ師として、手術に立会うことも、何回でもあった筈だ。学園を開設して後、例えば故郷山形から、猟で打ち落とされたキジが送られて来たとして、子供の前で平気で解体し、内臓の説明もしていた。
 





 

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