昭和四年の四月にはマサオやムネオが入学し、学園もようやく定員十二名をオーバーした。やはり曲がりなりでも学校体制が充実した校舎が建てられたためだろうと、松蔵は松蔵なりに自負する。
その上、本年入学の二人はともに自動車通学だった。マサオは神田の毛糸問屋の息子、ムネオはある実業家の息子で父親は後には後楽園の社長にもなった。朝夕、校門前には計四台の運転手つき自家用車が停車する。この時代とすれば異様なことだった。近所では学習院並の自動車通学が目につき評判になった。しかし松蔵の気持ちは晴れない。この年は一方では世界的大恐慌、父兄の中には学園の多額な出費に耐えられず退園するものもいたからである。学費免除や半減などの措置を松蔵は取ってみたが、追いつかず結局みな退園していくことになる。
また校舎が確立したので通学に便利なよう学園の近所に一家をあげて引っ越ししてくる者もあった。マサトシの父親は深川の汽車会社、深川へは直行の青バスが通じていたので父親は新宅から通勤するようになる。ヒロシの家もそうだった。
一方一家では無く手軽な家を作り祖母が付き添って住まった者もいた。アキラは埼玉から、この祖母は熱心なクリスチャンだったから小宅では日曜学校をひらき伝導に努める。アキラが昭和八年、後には受洗までしたマサトシもマスジやタテキらと共に四名、第一回卒業生として二教室の間切りを取った式場で卒業式を行う。アキラはやがて童話作家として赤い鳥にも入選し、その道で立つことも出来るようになる。
相続問題で大いに苦難の道を歩んだコウイチもトクの学業指導のもと順調に勉学を続けた昭和五年九月はコウイチ自由ヶ丘学園五年生に編入できた。卒業後は中学に進み昭和十八年には中央大学法学部を卒業する。
昭和五年十月に文部省の秘書課長、小笠原豊光は娘ヤスエを連れて妻の昌子とともに柏学園を見学した。まだ東京市が不具児小学校設置を決めたと聞かされた段階である。ヤスエの掛かり付けの虎ノ門病院神経科の佐多医師がもうこれ以上処置する事も無いと告げられたからである。産後の麻疹、高熱の後遺症としての脳性マヒだった。指示に従って当時としては最も新型と云われる電気治療器の置かれたクリニックにも通っている。
「秋葉原に田代病院という病院があるのです。むかしに帝大の整形外科を始められた方が田代先生、その田代博士が大学を停年でお辞めになってから作られた病院ですが、このような子供さんのためには一番良い病院だと思いますよ」
もちろん豊光はなんの躊躇う事も無くヤスエを連れて田代病院を訪れた。ヤスエはまだ四歳、学齢前の準備教育としても早すぎると告げられた。まして長女のミエコでさえ幼稚園に上がっていなかった。文部官僚の彼として当時、幼稚園制度には疑問があり直接小学校へ入学させるべきだと考えていた。
十一月には全国児童保護事業会議が開かれる。アキラと同じようにして、祖母と共に学園の前に小住宅を建て、学園に通うのは昭和六年入学のケンイチだった。彼は卒業して一年から同級だったミツルと初めて学園卒業生として済美中学まで通った。
その翌年の六月になって、ようやく文部省の大臣秘書課長豊光の娘ヤスエが、学齢前の準備療育として柏学園に入園する。ヤスエは脳性麻痺で歩行は困難だが、言語に、それほど障害もなく知能レベルもかなり高い。一昨年の参観時、入園を頼んではあったが、母親は新聞記事を読み光明への入学を主張した。
「今度東京に公の学校、市立の身体の悪い子供たちのための学校ができたのですよ。なぜ私立の学校になんかに、ヤスエを上げるのですか」
だが豊光は取り合わなかった。もちろん豊光が文部官僚として光明開校を知らない訳がない。親とすれば、松蔵の療育に魅力を感じたのだろう。新しい学校教育よりも実際に不自由なわが子を少しでも人並みの体にしてやりたいと、文部官僚とは親心には変わりなかった。
「学校だけが教育ではないのだ。ヤスエには身体のことも見て貰わなければならない」
豊光は間もなく実務教育局長になり、戦時下新体制の実務教育視察のため欧米にも洋行までしたのだが、現職中の昭和十四年に突然他界する。激務による殉職だと囁かれた程だった。
「今日から学園へ行こうね。今日だけはお父さんがヤスエを連れて行くから」
豊光は役所に向かう行掛けにヤスエを送ってくれた。家事手伝いの琴やに負ぶわれ出掛けて行く。小田急経堂駅から次の「玉電宮の下」で降り、終点下高井戸で京王線に乗り換える。今度は二つ目の代田橋、そこからやっと青バスに乗って、ようやく八幡通停留場に着くのだった。直線距離にしたら三キロ程度だろう。しかし一駅、二駅にしても乗り換え乗り換えだから一時間はたっぷりかかった。
昇降口から入ると廊下では、松蔵が先生と呼ばれ廊下で毛布を敷き、保母に教室から交代で、生徒たちを呼んで来させは、マッサージを一人一人続けていた。
「今日から入ってきたヤスエちゃんだよ」
皆に紹介されても誰も無関心で、ヤスエの方を振り向こうともしなかった。
「では宜しく、お願い致します」
役所があるからと園長の松蔵に頼んで、豊光はバス停に向かう。ヤスエはおばさんと呼ばれたトクが担当する低学年の教室に入った。三.六メートル四方の板敷きの教室、当時ならば八畳敷きの広さだった。二人掛けのテーブルを三つ、コの字形に並べ正面に黒板を背にしてトクの机があった。奥の窓には最低学年の一年生、真ん中の机は二年生のケンジとミツル、手前の机には一番高学年の四年生マサオさんとナオちゃんがいた。ヤスエと同じ一年生にはヒロシちゃんとゼンちゃん、間もなくヤスエは松蔵に呼ばれてマッサージをしてもらう。
お勉強は一年生が読み方と呼ばれた国語をやっていれば、三年生は綴り方と呼ばれた作文、四年生は図画だった。トクは山形時代、分教場も体験しているのか、こうした授業は上手かった。最も岡山は都会だから普通の小学校が多かったのだと思うが、隣の教室には上級生。翌年織田訓導が赴任してくるまで松蔵が担当している。しかし唱歌と算術だけはトクが教えた。ヤスエはカタカナを全部読んだり書いたり、算術も一から百までの足し算引き算は出来たし、ちょっと授業は物足りなく感じていた。お昼になってお弁当、教室で一緒に食べてから、午後は運動場のリハビリである。歩けないヤスエには歩行訓練は苦しかった。
昭和六年十月、もう十六歳にもなったカツイチが入学を希望してきた。この年四月には一年生としてケンジとミツルが入学しており、三年にはマサオたちのクラスが入っている。トクも学業教師として活躍の時期だった。カツイチは完全に思春期、背丈も伸びて本郷の医師の息子だけに、何とか最上級のアキラのクラスに入れてみた。仮名も覚え算術も付いていけそうだった。言語障害があり上肢もかなり痙攣が激しかったが、下肢はしっかりして、覚束ないが歩行もできる。幼児から付添っていた看護婦見習いのハツに身体の不自由児の療育を任した。ハツが学業も教えていたらしい。いずれは看護婦試験を受けさせて雇用するつもりで居る内に、いつしか十年が過ぎた。後に童謡作家になるアキラに比べれば相当の差は付いているが、かなりの成績も取れるようになってきた。一年を過ぎて松蔵は一応安心はしたものの、やはり気に入らないことが出てきた。
「おしっこ」
必ず付添いのハツがトイレに連れて行く。手摺りがついた男子便器の前に立たせて、ズボンのボタンを外し、ペニスを取り出て小水をさせる。
「カッちゃんも、もう大きくなったんだから、一人でトイレへ行かなくちゃ駄目だよ」
松蔵は気になり、なんとか下の始末だけは、自分自身でするように、仕向けなくてはと試みた。
「坊ちゃんがご自分でなさると、すぐ横に引っかけて、お仕舞いに、なさいますものね」
確かにカツイチの左指はアテトーゼで蜥蜴の如く硬直する。覚束ない指で、そのものを取り出すのは、難しかろうとも思う。最初に反対したのはハツだった。ハツは看護婦見習いとして十年前、六歳のカツイチの面倒を見るようになって以来、続けてきた業務だった。もちろんその間、カツイチの身体は成長し、局所も大きく変化していた。毎日マッサージを続け下肢を片足ずつ上に上げている松蔵にはよく解る。
「ハツさんが後ろから、しっかり身体を支えてくれるから、両手を使っても大丈夫だ」
何とか、してやらねばと、松蔵は考える。しかしカツイチが朝、学園に顔を見せなくなったのは、それから間もなくのことだった。
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