新校舎(3) 


 

 長崎は坂の多い町である。港から山に向かって登っていく。深くえぐられてから昔から大きい船も陸地近くに付けた。信次郎は馬丁の容次に声をかける。
「もっと速く」
 坂はかなり急になってきた。馬は先ほどから急かされて息を弾ませている。
「旦那様、もう無理ですよ」
 信次郎は焦っていた。長崎の八月、夕暮れ五時と言っても炎天下、まだ日は落ちる様さえ見せない。信次郎も馬上で喘いだ。
 とにかく早く帰りたい。長女の田鶴が朝からおかしかった。五歳かわいい盛りだった。昨夜の刺身が悪かったのかもしれない。妻のレンが夜中から下痢を繰り返すと訴えていた。気にはなったが役所に出ねばならない。控訴院の上席検事である。岐阜の山村に生まれながら八歳から苦学して高等官まで出世できた。算術を習った士族の宮腰甲子雄に認められ養子になり中学至誠館に入れてもらえる。しかし間もなく宮腰家は士族の商法で破産没落、退学せざるを得なかった。しかし枯れても士族、推薦されて巡査、法律の道に入った第一歩だった。明治十三年四月には上京し司法省法学校を受験したが失敗、また独学の道に代える。それでも判事、山本昌行に推薦され横浜裁判所の守衛になれた。その時代やはり横浜、長崎と同じく海の彼方の文明の影響は受けやすくキリシタンには関心を持った。横浜海岸教会で洗礼を受けた。
 明治二十年二十五歳、ようやく奏任官五等、検事補に任じられる。甲府の始審裁判所、おそらく今なら地裁と呼ぶのだろう。初級裁判所だった。巡査、岡っ引きから始まり、お白州取り調べ、ようやく夢を果たした訳だった。
 門構えの玄関に入るや否や妻のレン声をかける。普段なら出迎える妻の姿が見えなかった。
「田鶴の具合はどうだ」
 レンの側に長男千葉太が寄り添っている。二月には三つの栄子が亡くなっていた。麻疹を拗らせた結果だった。初めての我が子を失う悲しみを味わった。またかと、嫌な予感が走る。
「どんな様子だ」
 レンの顔は暗い。
「熱は全然ひいてくれません」
 田鶴が息を引き取ったのは明け方近かった。更に翌年七月には生まれて間もない次男の崎男を脳膜炎で失った。明治三十九年、信次郎は四十四歳の時に控訴院上席検事を退職する。もうこれ以上の出世は望みようもないと達観したからである。それに検事という仕事、とにかく何はともあれ、罪を暴かなければならぬのが仕事だった。クリスチャンに帰依した身、始めは正義と思って身を立てた仕事だが、それが罪と感じるようになった。法の道にはこの頃になると専門に学問が成り立ち自分のような任官試験で職に就いた者は何かにつけて居づらくなってきた。
 検事退職後、信次郎はクリスチャンのボランティア団体、当時はまだ結核予防団体とも云えぬ社団法人白十字会を設立する。それまで様々な実業会社を設立し、参加もしていた。だが明治四十四年三月、三女の深江が八歳で腸の病を患い死に至った時には深く考えざるを得なかった。何故に幼き生命が斯くも簡単に失せて行くものかと。たとえ主の配慮にしても、あまりにも酷すぎる。虚弱に生まれた子供たちのために何か手立ては、先進の国々、欧米の例を見てもまず学校しかなかった。
 虚弱児たちの学校、大切なものは日光と空気と滋養食物、校地の条件として気候や自然環境が良く物資の供給が良い場所となる。まず最初に沼津に適当な土地を見つけたが、やはり東京周辺の子供たちには鉄道があまりにも遠すぎると考えた。今なら新幹線、なんでもない所だが、当時は丹那トンネルも開通しておらず、小田原の手前の国府津からゴトゴトと登り富士の裾野の御殿場を通過して、ようやく沼津に出て行くのである。やはり湘南が適当と考えた。その頃でも鎌倉から湘南の海岸近くには、南湖院、恵風園、鈴木療養所など結核専門の治療病院が多くできて居り、近くに住む子供たちなとは幼いころから肺病に罹っては大変と、母親に教えられた通り、その門の前を息を止めて走り通ったものだったと云う。信次郎も初めは千葉を考えた。稲毛に有力な土地を見付けたが、さてとなると地元で反対運動が起きてしまう。
 東海道線藤沢駅の次、辻堂という小駅で下り茅ヶ崎に向かって線路沿いに下ると小部落があって南へ海岸に通じる小道があった。この部落が小和田、九代目団十郎が別荘を建てた地である。大正二年に辻堂信号所が開設される。東海道五十三次の宿場町、保土ヶ谷から藤沢宿と、次の平塚宿まで三理半、十四キロ近くあり茅ヶ崎には宿場町はなかった。品川からの駅間距離でも最も長い。従って茅ヶ崎駅には明治になつて駅舎こそできたが、大正三年三月- 辻堂停車場設置期成同盟会が発足したのも無理ならぬことだった。大正五年十二月には日本海軍横須賀鎮守府の砲術試験場(辻堂海岸)への物資運搬を理由に国有鉄道の駅として高座郡節藤沢町辻堂に開業したのだった。
 砂丘に囲まれた松林の中、政道館、民子寮、両善寮三棟の寮舎、小さな校舎と食堂、本屋など七棟の舎屋が建てられ開校する。政道館は銀座の島田洋紙店主による五千円の寄付、また三井物産重役の飯田義一によって建てられたのが民子寮、両善寮は東大安田講堂でいまだに名が残る安田善次郎の寄付によるものだった。間もなく義介寮、義一寮、勇二寮が増築される。この寮名が示すとおり人名から取られたものである。信次郎は松蔵とは違って自分が宗教家であり慈善にはこだわりがなかった。金持ちいわゆる資産家、当時の言葉なら金満家の家々を訪ね、奉加帳を回して歩くことに躊躇はなかった。ただし以前、山梨で一緒に高女や女子師範など、その開校に尽力した甲州商人、現在にも残る根津美術館の名に残る東武鉄道の創立者、根津嘉一郎の邸宅を訪れたときは、
「今度の学校の名、俺の名を取って「根津学園」と、新しい学校の名を付ければいいじゃないか」
 そうすれば幾らでも多額の寄付をしてやるよと言われた。山梨英和高女の場合には東洋英和の姉妹校であり、認めざるを得なかったのだろうが、この時は金持の名誉欲に根津も固執したらしい。
「.......」
 信次郎は無言たった。あくまでも「コロニー・デ・バカンス」林間学校の名前にこだわった信次郎からで、この時ばかりは拒絶する。信次郎が林間学校の名前にこだわったのは、大正五年当時、東大法科学生だった長男の千葉太が、フランスの雑誌からウェルネー林間学校の紹介記事をみつけたことから始まった。自分だけが医師でない白十字会、その中にあって自分がその力を注ぐことが出来るのは、子供たちの結核予防のために寄宿制の小学校だったと思う。白十字林間学校のあと、大正十二年には大阪の浜寺林間学校、翌年の赤十字による富浦海浜学校だったが、昭和に入り千本松原林間学校などいくつかの開放性でない結核児童のための保護施設が続く。少なくとも白十字会林間学校が、その元祖であった。
 信次郎は校長には麻布中学校長の江原素六を招聘する。元代議士でありクリスチャンとしても七十歳を超える老齢、名だたる人物だった。しかし茅ヶ崎までは開校式のほか、その日の前と六年間、二度ほどしか訪れていない。実際には信次郎が理事長として林間学校の運営に携わってきたのである。
 大正十一年に初めて二代目校長となった信次郎、しかし僅か三年間で、不慮の交通事故により天国へと旅立つ、東京駅を下りて皇居の方へ向かう道路だったらしい。事故を起こした貨物運転手の名前もわかっているが、免許を取って三日目というから随分乱暴な運転をしていたのだろう。松蔵が東京市から円太郎バスを買って、わが国最初のスクールバスを導入した年でもあった。東京駅からの道路は当時としても、メイン通りであるる。東京で何台の車が走っていたのか、頭部をぶつけられ最初から意識がなかったと言うから状況は想像できる。
 この後は宮腰信次郎の四男、丈夫が主事として実際の林間学校の運営にあたる。旧制中学しか出ていなかったので、正規の教員免許を持てなかったのは父親、不慮の事故の為であり、その為に不利な点も多々あったことだろう。実際の校長は白十字会本部の林止医師だった。だが二十余年後、太平洋戦争末期の五月、新潟六日町への疎開学園長として妻の共に困難な任務を果たし九月には帰校したが、そのまま責を取って職を辞する。校長村島帰之は病後で赴任できなかった。気の毒だったと云える。



 

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