元年が七日しかない昭和の歳月は早足だった。瞬く間に四っの歳を数える。世界恐慌の時代に差し掛かっていた。中には父親の失職と共に学園を退学して行かなければならぬ子供も何人か出てくる。例えばヒロシの父は海軍少将、その時代の軍人、将官になれれば地方なら出世頭である。そんな地位にあった父親でもやはり退官すれば恩給だけとなり、とても大學並の月謝は無理である。もっとも大學なら父親もわが子への投資、それも自分への投資とも、考えてくれただろうが。
「僕のお父さんは巡洋艦の艦長だぞ」
ヒロシは九歳、学齢からは二年遅れていた。まだ歩けず膝頭でなんとか移動していた。震災前の五月、入園してくる。第一回目の記念日、まだ小石川の借家時代である。海軍の父親はほとんど京橋の自宅にいることは少なく母親が連れてきた。当初から寄宿希望で寝具着替えなど、一切を持参してきた。
土曜の晩には松蔵はヒロシを負ぶい、平和博覧会の夜景を見物させに連れて行く。母親にはあまり外出させて貰わなかったらしい。嬉しそうだった。これから子供心にヒロシは自分で立って歩くことを考えるようになった。
「ヒロちゃん、歩けたら自動車を買ってあげようね」
この日はどうしても一人で歩けなかった。しかし翌日六月十三日には手放しで四歩歩いた。松蔵も嬉しくなり玩具屋に走り、ゼンマイ仕掛けの自動車を買ってやった。十月の松蔵の養育日誌では、ヒロシは今まで転がせなかったボールを転がし、一本杖で廻り歩きが出来たと記述されている。翌年三月には二階を二廻り連続して歩けた。
「これからはお父さんとお母さんが勉強を教えて下さるから」
「でも勉強は学校で先生が教えて下さるものでしょう」
ヒロシにはなかなか理解出来ぬらしい。勉強は学校でやるものだとヒロシは思っている。六年生になっていた。もう小学校も卒業だと自分で思っている。どんな風に話したらいいのか、さすがの松蔵も、いよいよトクと相談するしかなかった。
一応その頃、西荻窪にあったヒロシの実家に松蔵は送り届けたのは暮れも二十五日になった終業式が終わってからである。一月になれば学校になぜ行かないのかと、母親に言い出すに違いない。母は泣くばかりだろう。
「記念日や遠足のときには必ず呼ぶからね」
そんな言葉を掛けて戻るより仕方のない松蔵だった。
昭和四年二月松蔵は学園の前に立て看板を作った。駅ホームに駅名の書かれた白ペンキの看板と同じような物だった。
本園ハ手ヤ足ノ不自由ナ子供ニ小学校育ヲ授ケ治療ヲ施ス日本唯一ノ学校ナリ
CRIPPLE SCHOOL 柏学園
同じ年の昭和四年、その二月に発行されたNHK、当時の東京中央放送局JOAKの『我子乃為に』という家庭講座のテキストがある。筆者は昭和三年五月生まれ、押入の奥から出て来たものだが、恐らく母が購入したものと思う。或いは当時もう深川に店を持っていたから祖父母たちが孫たちの参考として購入したのかも知れない。
赤ちゃんの被服類「編物」哺乳児の栄養法など様々なわが子のための育児講座のラジオテキストだ。この五番目に『奇形児の話』として陰山という医学博士が三回放送している。今では差別用語にうるさいNHKとは思えない。これに比較すれば松蔵の書いた看板は「手ヤ足ノ不自由」と述べ、明確に学園の目的を明確に小学教育と治療にあると宣言している。ちなみに肢体不自由児という用語を初めて使用したのは高木で昭和三年の事である。しかし身体不自由と言う言葉を使ったのは恩師田代で大正九年であり、留学から帰って大正十三年高木も教授となり、翌年肢節不完児福利会を設立したのだが、やはり恩師田代に追随して、この言葉を使用するようになったのであろう。
ジロウが大正十二年五月に弘前から帝大病院へ入院する。海産物問屋の次男だった。典型的なリットル氏病、アテトーゼ型脳性マヒである。田代病院で尖足治療のためにアキレス腱手術を受け、この後入院したものと思われる。もう十歳に、多分大正三年の生まれでないか。もちろん弘前の田舎では、ピョコタンピョコタンとつま先立ちで歩き、周囲の笑いものになりながら成育していた。弘前の小学校に入学できたいたのかわかるのが、ともかく一年生として学籍に入れた。すぐに関東大震災、園長松蔵は郷里山形に戻り、トクは深川の成田不動尊に参り、大塚の校舎に残っていたのはカツとジロウだけだった。校舎とは言え借家の建物、倒壊こそせず山の手ゆえ火災も免れたが相当な被害を受けたと思われる。後年筆者はフイの紹介で老年のカツに会ったが、ほとんど当時の学園情報は聞けなかった。しかし震災のときは、どうしてたと聞けばジロウと二人、どんな様子だかを興味あるニュースを聞けたかもしれない。松蔵が大塚へ戻ったのは九月も十日過ぎである。弘前からジロウを連れ戻しに来たのは、もっと早かったのかもしれない。十一月に後援者浅田氏のすすめで高円寺の別荘に移り学園を再興、ジロウが寄宿に戻ったのは翌年一月だった。ジロウの父兄からの要請で翌年十四年四月からは近くの高円寺小学校四年生に編入させる。無事にかなりの学業成績で数学、算術もできた。もちろんこれはトクが二年生在籍とは言え、それ相応の学業を授けていたからに違いない。新校舎に移り近くの大宮小学校に転校、昭和三年三月ジロウは卒業できた。そして四月日本済美中学校に入学する。
日本済美学校は明治三十九年、理想に燃えた今井恒郎が三万坪からの土地を購入、松下村塾にあやかって、全寮制の定員五十名規模の学園から出発する。日本新教育運動の先駆けで、指折に入るものだった。しかし理想の高さに比べ,実際の運営の面では、全く苦難の連続だった。やはり小人数、精鋭主義では破綻が多い。
創立者、今井恒郎は新教育を目指し家塾、松下村塾のごとき少数精鋭主義を目指した。したがって全生徒が学校内に寄宿する。しかしジロウだけは特例を認めて貰い、学園から通学をさせてもらう。やはり全寮制の中には身体の不自由な子を入れるのは無理と考え、特別に学園の寮舎からの通うことをを許可されたのだった。
それでも借金地獄の中で暴力団に、学舎を破壊されていく様をジロウは見てきた。苦衷の中に倒れた今井政吉の葬儀、松蔵も参加した。それでも最後に棺桶を支える若者たちの姿を見て、彼は自分の最後に棺桶を支えてくれる弟子がいるのかと、羨望を感じたと日記に書いている。戦後六・三・三学制改革により新制高等学校に移行しなかった唯一の旧制中学校となる。最後に残った五百余坪の土地、後継者今井政吉は杉並区に寄贈、済美教育センターとして今に残るだけになった。昭和八年ジロウは無事に済美中学校を卒業。また昭和六年にはケンジとミツルのクラスが済美中学に入学を許可された。もっとも初めは正式の小学校認可のない柏学園だったから一応聴講生という形での入学であったが。
夏休み校庭の周囲に回られた檜にとまり、ジージーと鳴く油蝉の声も激しかった。松蔵は一応手入れをすました身体の汗をぬぐおうと葡萄棚の日陰に移る。暑い中ジロウはなにをしているのかと、ふと思った。四月から中学に通えるようになったが、夏休みというのに故郷の弘前へも帰れない。家業が忙しく迎えに来られないというのは実家からの要請だった。震災の年はさすがに実家からの迎えで弘前に帰れたが、それ以来、毎年夏休みは学園で預かることにしていた。やはり母親がジロウをそばに置くのが、気恥ずかしいらしい。松蔵にすれば心外なのだが、致し方のないと思っている。
「先生、英語がわからないんです」
ジロウが校庭に出てきて松蔵に話しかけた。はてと思う。中学に入っていくつか新しい学科を習うようになった。国語、歴史、地理はともかく小学校の延長と思えば松蔵にもなんとなく教えられたが、算術はなくなり代数、幾何と、体操学校では習わなかったが、師範時代、専門の教師たちが周囲にいたからそれなりに理解できた。しかし松蔵には語学が一番の苦手である。もっとも大学病院時代CRIPPLE SCHOOLが英語でこうした子供たちの学校であることを理解し説明された書物を図書室で探し出したが、松蔵は写真でそれらを設定するしか仕方なかった。
「先生どうも英語は苦手でね。今度先生もジロウに負けないように英語を勉強するから、ジロウも先生に負けないように英語を勉強してくれよ」
べつにジロウも松蔵を困らせようと思って英語の教科書を持って来たわけではなく、ただ語学は苦手だったからである。
「ところでジロウ、明日横須賀へ連れて行ってやろうか」
横須賀と聞くとジロウは目を輝かせた。
「戦艦三笠に乗せて貰える?」
大宮小学校の昨年秋の卒業遠足は横須賀だった。隣県神奈川の横須賀、今の小学校なら観光バスに高速道路で見学の旅も容易なことだろう。たとえ足の悪い子供がひとりいたとしても、なんのこともなかったに違いない。しかし当時としては大遠足だった。まず早朝四十名いた六年生を校庭に集める。校長以下担任二名の訓導が付き添い、まず妙法寺前の停留場まで十五分は歩かせねばならない。荻窪まで通じた青梅街道路面を走る西武電車で新宿駅、後には都電に編入されたストリートカーである。更にそれから省線電車の山手線に乗り換えて品川か東京、そして始めて横須賀線に乗車できるのである。貸切車両の調達が難しかった当時、引率者の神経は大変だった。さすがに松蔵も単に寄宿させているだけの子供のために自分が付き添って行くわけにもいかず、ジロウは卒業遠足には参加できなかった。
「三笠の三十センチ砲、すごいんだってね」
日本海大海戦で勝利した日本海軍の旗艦、とにかく世界の海戦史上、未曾有の大勝利だった。少しでも主砲の直径が大きくなれば大砲の砲弾到達距離は長くなる。日本の大艦建造思想はこれから始まった。戦艦大和は四十五センチ砲、航空戦が花形となった太平洋戦争では万里の長城、戦艦大和と言われ無用長物の代名詞であったが。その戦艦三笠が現役を退き、横須賀の公園に揚げられ記念館となったのは評判だったろう。ジロウも同級生の友達から話を聞く度に心をときめかせた。
「おばさんも一緒に行くのかなぁ」
小学校三年の時、東京へ、東京の大学病院ならば、ジロウの病(ヤマイ)も簡単に治るのではと、無理して連れてきたのである。ジロウの病気が脳神経からのものなど、当時の一般の人々、ジロウの両親も含めて、なかなか理解出来るものではない。博士と言われるような帝国大学の大先生の手に掛かれば、忽ち風邪を治すように簡単に完治するかと思ってきたのである。本来、ジロウが受けたアキレス腱手術というものは、脳神経学的な障害により尖足状態の筋肉を整形手術で引伸ばすだけのもので、もうミノルの時代には、ほとんど行われなくなっていた。
手術を受けた後で、ジロウのような不遇な子供たちのための学校ができたことを知り、田代博士に紹介され訪れたのである。もちろん、そんな学校があるなど、全く両親には知らなかった。ジロウはなんとか、普通小学校に通えていた。無様な歩きであったが、笑い者には慣れていた。母親カネも愛おしいとは思うが、世間の目は煩わしく思える。手許に置くべきかと考えてはみたが、せっかく新しい学校にと思ったからだろう。すぐに大震災、夏休みにも連れ帰らなかったジロウだが、連れ戻す。大震災のあと、学園も何とか目鼻が付くようになったと聞くと、また送り出しす。田舎で物笑いの対象となるのも、可哀想とは口実で、カネ自身も疎ましかった。ジロウはそうした母親の気持ちを知っている。罪障感に似た母の気持ち、子供には分る筈もないのだが、肌では感じていた。
「おばさん」
ジロウは母親とは別の気分で呼んでいた。トクには全然そうした気持ちがなかった。町を歩いていても厭おう様もない。普通小学校から転学してきたのはジロウだけである。もちろんトクが高学年授業をすることを嫌ったわけではない。むしろ楽しかった。しかし両親からの要請もあり普通小学校にと、預かって通学させたのだった。それがむしろジロウにとっては、今まで知らなかった母親代わりに嬉しい。また、わが子を持てなかったトクにも可愛かった。
「もちろん明日はおばさんも連れて行くよ。夏休みだもんね」
待望の横須賀、軍港のある海、観音滝の灯台を眺め戦艦三笠も見学した。昼食のそばも食べさせ大船に戻り、そこから東海道本線に乗り移り二駅、辻堂の駅は前の駅、藤沢とは見紛うばかりの寂れた駅だった。駅前にはそば屋と煙草など荒物を商う店と二軒、あとは人力の俥屋があるばかりである。俥も雇うのも厭わしく松蔵はそば屋で尋ねた。
「白十字会の林間学校へ行くのは、どっちへ向ったら宜しいでしょう」
応対に出た給仕の小女には解らぬらしい。
「お上さん、ちょっと」
そば屋の女将が出てきて、
「ああ、林間学校ね、まっすぐ行く道は近いけど、曲がり曲がりで難しいから直接線路に伝っていらっしゃいよ。十分も歩けば海岸に出る道があるから、左に曲がれば十五分で林間学校が見えてきますよ」
「学校まで大分あるらしい。ジロウ頑張れよ」
松蔵トクは二人、ヒョコヒョコと爪先立ちで歩むジロウ。その歩行の緊張に強ばる手を引き、線路沿いに夏草の茂った道を茅ヶ崎へと向った。たとえ不細工に人目を惹く歩みの子であっても連れ合いと仲にして持つ手は晴れやかだった。東海道本線の踏切を右に見て左に湘南海岸へと、両側は砂地の芋畑が続いた。やがて彼方の丘の上に、いくつかの寮舎が立ち並ぶのが目に入ってきた。
「この学校を造られた方は何人もご自分のお子さんを亡くされた方だそうだ」
「お小さい内にですか」
「多分そうなのだろう。それで身体の弱い子供たちの萼と思いつかれたらしい」
学園内の松林の仲に入ると澤谷かな海風が心地よく?をよぎる。賑やかな子供たちの歓声に松蔵もトクも、ちょっと戸惑った。
「アラ、夏休みぢゅないの、ずいぶん賑やかね」
走り廻る麦藁帽子の子供たち、今し方海から戻ったばかりの子供たち、まだ海水着は濡れていた。ここの所、歩めない静かな子供たちばかり見てきたトクである。虚弱児と云われ寝椅子にでも横たわる子供たちの姿を目に浮かべていたトクには意外だった。『夏期聚落』と呼ばれ夏休み、つまり夏期には健康な児童たちも預かる「コロニー・デ・バカンス」本来の林間学校の姿だったのである。
柏学園より四年前創立の白十字会林間学校、松蔵は日本最初の養護学校として一度は訪ねてみたい場所だった。
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