その夜の幸子はやや興奮気味に圭介と話合った。就学前とは云え幸子の主眼は幼児療育にあった。月謝十円は相当の負担にも思えたが、一日置きにお手伝いに負ぶわせて、牛込まで通わせる揉み療治、一回一円五十銭を思えば、さしたる負担ではない。例え僅かな時間であっても、松蔵が毎日施療するマッサージは、医者に放って置けば治ると云われる度に、居たたまれぬ気持ちに追いやられる母親、幸子には魅力があった。温和しい圭介は黙って、幸子の今日一日だけの成果を、頷くだけで聞いて居た。 やはり問題は日々の送迎にあった。使用人をつければ、完全にミノル一人に専属となってしまう。日々の商店経営、まだ、とても軌道に載ったと、言い切れぬ若い夫婦には辛かった。 「朝は私とクニヤとで、交代で送って行くとして」 幸子が口を切ると 「問屋の帰りに、僕がそのまま、ミノルを迎えに行くよ」 圭介は存外明るく答えた。永年、問屋勤めを続けて来た圭介にとって、細かな小売屋の店番はあまり好きなものではない。昼飯を済ますと、ほとんど仕入を口実に店を出てしまう。結局、話は朝、幸子が当分送り続け、午後からは圭介が日本橋まで仕入の帰路、そのまま、杉並に向かうことで落ち着いた。それにしても五才になったばかりの幼な子を、東京の西の端から東の端まで、通わすのは容易ではない。奇跡にも近い偶然で、東京の町を東から西へ横切って自家の前から直行バスが走って居たとは云え、実際のバスは五〇分程度だがバスの待ち時間もある。一回の往復に三時間は掛かると思わねばならない、日に往復二度ならば六時間、完全に半日分の人手を要してしまう。交通に要する経済的負担も馬鹿にならなかった。 次の週の初めから幸子はミノルを連れて学園に通い始めた。もちろんミノルの入れられた低学年教室が増築したばかの教室だったとは、幼いミノルに何も知る由もない。二人机が三つ、片仮名のコの字に並べられ中央、黒板に面して教師の机、そこはトクの席である。子供たちの椅子は様々な体型に合わせ易いと籐椅子が選ばれていた。 「さあミノルちゃん、小母さんが書くように一つ一つ、お丸を書いて見ましょう」 トクはミノルのぎこちないコチコチくねった指先に鉛筆を握らせ、手を取って五分格(1.5センチ格)の四角い罫の引かれた子供用のノートに五つ程、書いて見せた。 「今度はひとりで書いてみましょう」 鉛筆を始めて持ったわけではないが、ミノルは緊張の余り指先に力が入り、鉛筆の芯が折れんばかりである。そして書かれた図形も、罫の外にはみ出し、四角やら丸やら、区別が付かぬ。 「まあ、お上手に書かれたこと、もっと書いて見せてね」 トクは正面に向いて坐り、この四月一年生になったヒロシとヤスエの読方の読本を開く。最初がサクラ・サクラと変わり、色刷りになった。左手の席は三年生、ケンジとミツルには算術の問題が出されていた。ミノルはまだ就学前、一応幼稚園と云うことだが、もう一人、一年生ヒロシの妹のシズコがいた。しかしシズエの症状は重度で、籐の小さな寝椅子に横になったまま、教育の対象とすることは難しく、教室に寝椅子を入れ、ミノルの横の席に座らせても 「シズちゃん」と呼べば頬は弛むが、それ以上の反応は望めない。幸子はトクの指導態度はさすがだと思った。 今になって考えて見れば、東京市の東の外れの深川区から西の外れの杉並区まで、直行バスが通っていたのか不思議のようにも思える。しかし考えてみれば、当時の交通機関は全て寺社参りを中心にして企画されていたことがよくわかる。ミノルの家の直ぐ前は深川不動尊、成田不動尊の出店、現在と違って交通機関が容易でなかった当時は、成田まで参拝できる人々は少なく、市電も毎月二八日の縁日には、折り返しの臨時電車が出るほどであった。一方、柏学園のあった堀之内は、同名の落語の題名にも取られたほどの繁盛寺院、堀の内のお祖師様、妙法寺があった場所である。 朝は必ず幸子が送った。それとなくトクの授業ぶりを観察しては思う。とても親にはあのような気長な真似はできぬと思う。四角い舛目のノートに丸を書かせることから始めた。一舛一舛、罫からはみ出ぬよう根気よく指導する。まだ当時は前小学校教育で、仮名の指導はタブーだった。 帰りは問屋の仕入れを済ませた圭介の担当である。日本橋から直接杉並へと向かった。その当時でも、今で云うダンピング回数券が、かなり出回っていた。特にミノルが乗る青バスは市バスに比べ安価で手に入る。質屋などに「市バス」「青バス」と並べて「安売り回数券」の張り紙がしてあった。一円の回数券が時には七十銭代にまで下落することがあり、その点では楽だったと云える。もっとも正規でも、年末などに、景品付き回数券、売り出しがあった。当然「安売り回数券」には適応せず、子供心には何か物足りなさを覚えただろう。 午前中、一時限、四十分の授業が終わると、休み時間は、松蔵がマッサージを、生徒交代で施術する。残りの休み時間は「手と足のお稽古」に当てられた。「足のお稽古」は松蔵考案の足踏み器を百回、それから、高松宮御下賜と書かれた肋木の前でも、ノルマがあった。それに有須川宮記念、上肢牽引器を何回か。「手のお稽古」でも、指先は丸い小さな缶から生大豆を開け一粒一粒指で摘んで缶に入れる。もう一つ「手のお稽古」は、脱脂綿をガーゼにくるみ、大小様々の団子を丸める。入れてあった箱は、多分、婚礼贈答の鰹節箱ではなかったか。もちろん、それぞれ、子供たちにより、メニューは、異なったのだろうが。 午後からは授業のある上級生は別として、必ず天気の良い日は運動場へ出る。よく手入れされた芝生、中心には歩行練習用の平行棒がある。もちろんミノルのように、なんとかピョコタンピョコタン、歩行可能な者は、芝生の周りを百回廻るのだが、子供にとって退屈至極だった。幸子は入園当時芝生を見て、この中で子供たちが自由に、遊べるものと思っていた。しかし歩行練習中でも、角を横切り芝生の中に、一歩でも踏み入ろうものなら、たちまち、トクの皮肉な言葉を浴びなければならない。 「芝草が痛い痛いと泣いているわよ」 トクが運動場の周囲に花壇を造り、子供たちが外に出ている間、自分も手入れをしながら見守っていた。赤や黄色のダリア、チューリップ、秋になるとコスモスが生い茂った。赤いダリアが咲き出した。コスモスも蕾をつけている。トクが、丹精している花壇にはもう秋が近いことを思わせる。夏休みに八日に終わった。普通なら一日の始業式が松蔵の持論で延びる。普通なら七月も二十日からの休みも二十五日が終業式だった。従って夏休みに避暑と思ったら父兄は他の兄弟の手前戸惑う。 ミノルは左角の手前に悪漢が隠れていると身構える。右手に持った拳銃を左手で構えた。もう二十三回目、後二回、二十五回廻れば休憩、葡萄棚の下の縁台に腰掛けられる。ヤスエちゃんはもうそろそろ休みかな。彼女は芝生の中の鉄棒、八メートルの間をおぼつかない足取りで往復していた。彼女のノルマは一日二十往復程度、五往復でお休みか、**姉ちゃんに負ぶさり縁台に来るはずだった。 「そしたら二十面相、催眠術を掛けてしまったの」 「催眠術ってなあに」 ミノルには催眠術など、初めて聞く言葉だった。 「こうやってね。目のそばに手をかざしていくと何でも掛けた人の思う通りに相手はなってしまうだって」 「じゃ魔法使と同じじゃないか」 ミノルには童話の世界と同じことが現実世界を描いたはずの小説の世界で同じことが起こるのは不満だった。ミノルが買ってもらえる幼年倶楽部には江戸川乱歩の『怪人二十面相』は載っていない。もちろん当時一番人気、犬がヒローの軍隊漫画 『のらくろ』も、少年倶楽部なので掲載されてなく、毎月載っている漫画は『凸凹黒兵衛』黒い兎の少年の話だった。幼稚っぽい童話に近い読み物よりも、ミノルにはヤスエが日曜に帰って読んできて話してくれる少年倶楽部の話の方が面白い。 「ミノルちゃん、柿の木の下に」 ミノルの拳銃は火を噴いたつもりである。しかしトクには異様な形にしか写らなかった。「なにかいるの」 運動場を一回一回、廻る度に指こそ折らぬが、もちろんCPには指を折って数を数える指数?など難しいが、頭の中で数は一生懸命数えている。いちいちノルマの百から一回廻るごとに後何回とその度に引き算している。しかしなかなか数は進まない。如何にして数を減らしていくか、毎日のことながら子供心に、退屈至極の時間だった。 「ゼンちゃん見てご覧なさい」 ゼンちゃんは三年上の模範生、恐らく松蔵からは、通信簿に操行は甲が点けられて居たはずだった。首を真っ直ぐ伸ばし、おぼつかない足取りながら、きちんと前に向かって歩を進めている。ミノルのように右や左と、歩む方角が変わることはなかった。とにかく百回と言うノルマを達成しなければ自由の身とはなれない。後年ミノルが白十字会林間学校に移って、仲間と松林の中を夢中で走り回っていた時、ふと自分がこれでいいのかと思うことがしばしばあった。時を減らすためにミノルは次々と空想を繰り広げていた。あの時は自分が二十面相、ある場合には名探偵ともなる。たぶん左手の利くミノルの左ポケットにはいつも拳銃が忍ばせて、あるつもりだった。 後年になってミノルは松蔵に感謝している。若い頃には彼の古い教育理念を批判した。しかし老年になって、日々一日と体力の後退が目に見えるようになると、松蔵の薫陶が偉大だったと思う。オリンピックの体操競技、人間の技とは思えぬ競技を見る度に、選手たちの日々の努力が目に浮かぶ。彼らの選手を薫陶したコーチたち、選手たちは別に日体大とは限らぬがその昔、日体大の前身、日本体操学校の出だったことを今更のように思い浮かべる。 一時養護学校への入学が批判された時代があった。ノーマライゼーション、普通学級への入学が肢体不自由、盲、聾の区別なく普通学級の編入が父兄に喜ばれた。しかしこれが果たして妥当と言えるものだったのだろうか。盲、聾の養護学校では点字、手話はともかく唇読教育などの障害に対応した療育がなされて来た。しかし肢体不自由児に対して彼らの養護学校ではどの程度の身体に対する療育がなされているのだろうか。父兄がノーマライゼーションを強調するあまり、児童の基本的療育が欠如しているような気がしてならない。 ミノルは幼稚園とも云える初等前期教育も含めて丸六年余り松蔵の下での薫陶を受けた。だが、ついに一度も運動場では鬼ごっこも野球も、一切の遊技といえるものはした覚えがない。もちろん野球といっても足腰の悪い子供たち、当然満足な野球が出来るわけはないが、時代は東京六大学野球の全盛時代、早慶戦には酒屋の小僧、八百屋の小店員も慶応と早稲田に、日本中が二つに割れてラジオに耳を傾けた時代だった。蓄音機の片面三分、両面掛けても六分に満かみたぬが、「早慶戦」と題された万才レコードもある。 ゴロベース、歩けない子供でもゴムボールを転がし、腕のバットではじく、夢中で一塁ベースに這いずる。子供たちには、もっとも楽しい瞬間だった。しかし、この遊びもトクの許可はなかなか下りなかった。下りても芝生は痛めると裏の空地の草むらだった。それも父親がPTA会長というべきマサオの提案の場合に限られていた。彼の家は神田で毛糸問屋を営み運転手付きの乗用車がある。遠足にはいつも円太郎、T型フォードに付き従った。マサオとミノルでは年齢が五つ以上違う。下級生にはこうした機会は一度も巡ってこなかった。 幼児教育とでも云うべき前初等教育課程が一年十ケ月で終わり、ミノルは学齢通り一年生の課程に入る。丁度ヨウコが入園してきた。彼女は裁判官の娘で、学齢を四年位過ぎてはいたがミノルと同じ学年に入った。一年生になる前、ミノルは忘れられないショッキングな思い出がある。 「今度、四月からミノルちゃんが入る小学校よ」 お手伝いさんに近くの区立数矢小学校へと、深川区役所からの入学通知書を見せられ、今まで学園に入れるとばかり思っていたのに、いよいよ自分も、これで普通小学校行くのかと、子供心に深刻な覚悟を決める。当時は両親に連れられ、ヒョコタンと爪先立ちで不様に表を歩き、悪童連にからかわれるのは日常のことだった。両親から就学猶予願いが提出されて居ても、幼いミノルには知る由もない。読んで貰った通知書の文面が命令調だっただけに、今更、母親に問う勇気もなかったのだ。 |
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