新教育(4) 


 

 翌大正十四年、田代博士は東京市会議員となる。民生問題、今なら福祉政策が主眼だった。そして大正十五年三月、松蔵も帝大病院を退職した。学園の仕事も軌道に乗り専従の目安もついて来たからには違いないが、温情あふれる子弟にも似た二人の間から、若い高木の教室には居辛いものがあったのは事実だろう。
 日本整形外科学会は大正十五年の四月三日に発足いているが、その設立に反対したのは、我が国整形外科の創始者、田代博士ばかりではなかった。九大の柱田博士も大反対だったし、わずかに高木に賛意を表してくれたのは新潟から駆けつけてくれた本島教授と、その仲間である片山、伊籐の両教授ぐらいなものだった。
「我が国における整形外科学の発達上、むしろ日本外科学会席上で研究者の発表をした方が適当ではないか」
 と言うのが大勢の意見だった。感情的に
「今さら外科と分れるのは淋しい。分れても直ぐ自滅の道しかなかろう」
 という者もいたし、
「会長には誰がなるのだ」
「会計はどうする」
 高木に対する質問の矢は強烈である。高木はこれに対して
「会計は俺が何とか借金してやろう。会員だって余々に増やしていけばいいじゃないか」
 と応酬した。高木の熱意は日本医学会の佐籐三吉博士をも動かした。東京帝大外科部長だった佐籐自身、外科の立場を離れて、整形外科学会が正式に成立したら、外科学会の一分科会として招聘するつもりだと高木はこの言葉に力を得る。一機に田代博士の牙城に迫ることになった。
「こうなったら、例え田代先生が反対されてもあくまで断行すべし」
 若手にすれば現役を退いた老人など、どちらでもと云う気持ちは捨て切れない。
 しかし今や現役の中心になったばかりの高木にすれば、それで済む問題のわけではない。だが高木には成算があった。会場も日取りも決まった一週間前、田代の許を彼は訪ねた。
「先生、学会の設立準備会の会場と日取りが決まりました」
「・・・・・」
「ぜひ先生に出席していただきませんと、ご都合いかがですか」
「議会の民生評議委員をしとるから、とても忙しくてね」
 案の定、始めから博士の態度は無愛想だった。高木にすれば、いつものことであり別に動揺する程の問題ではなかった。
「何日なんだ・・・。何時から・・・。三時からか、評議会は昼過ぎに終わるからなんとか出られることもないが・・・」
「会長には先生にお願いすることに、みな申しておりますが・・・」
「なに・・・。吾輩は絶対ならんよ」
「・・・・・」
「君が会長に成ったらいいじゃないか。もう君だって帝国大学教授だろ」
「そうなると多分、、、みなの意見で、会長選挙ということになると思います」
 博士は無言だった。高木は云い切ってから言葉を続けた。
「この学問を創始なさったのが先生です。間違いなく先生が当選なさると思います」
「・・・・・」
「東京市会選挙で議員になられた先生、まさかお受け下さらないとは誰もがみな思ってないようです」
 ここまで来ると割合、田代は素直だった。
「老いては子に従えか」
 それ以上、博士は何も口にしなかった。
 それでいて田代の前での高木は最後まで怒鳴られ続けていた。後年、昭和も十三年目に入り、それも暮れが近い。最後の田代の病床を見舞ったときである。十一月の晩秋、高木は風邪で三十九度に近い熱を出す。しばらく博士を見舞っていなかった彼は、いくらか熱が下がると恩師の病床を訪れる。その月初めの八日、あの親友の入沢博士が一足先に死去していた。彼には気落ちした田代が心配だった。よもやま話の後で、つい自分の体に一言、口がすべる。とたんに田代の雷が高木の上に落ちて来た。
「医者たる者が、そんな軽はずみなことで、どうするんだ」
 これが田代と高木、師弟の最後の出逢いになった。その年の昭和十三年、十二月一日、ついに田代は三年に渡る病床生活を終えて、永遠に帰らぬ人となった。



 

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