新教育(3) 


 

 学園創始当時からフイの父に紹介された保母のカツも三年務めて、大正十四年の三月には嫁に行くと郷里の香取へ帰っている。代わりに山形から松蔵は妹の娘、身内のヨシノを呼び寄せた。洋裁を習わせてやると云うことが条件だったがカツが止めてみると、四月からは寄宿生も増え忙しく、なかなか思うようにはいかなかった。彼の伝記では一度も弱音を吐かないが、学園経営で一番悩ました問題の一つだったろう。
 そんなある秋の一日、フイが高円寺の学園を訪れた。フイは学用患者として大学病院入院当時、初めて一人で過ごした正月、本郷の松蔵の家に治療に通ったことはあったが、高円寺は初めてだった。新宿を省線電車で下り青梅街道まで出ると、淀橋浄水池前から堀ノ内行きの電車に乗る。蚕業試験所まで戻り右に折れ曲がると、森にでも入って行くような、静かな小径がある。雑草の生い茂った、その静かな小径を行くこと約半町ばかり、真昼に近い日光浴びて美しく光った若葉の蔭に、生垣を巡らした庭園があり西洋館の円屋根が高く聳えていた。確かに淺野という金満家(富豪のこと)の別荘にふさわしい建物だった。
 実際にフイが学園に保母として就職したのは大正も最後の年、昭和の初めの年にもなる、それも七月だった。フイが世話した従妹カツが嫁に行くと云うので代わりを探さねばならず、場合に寄ってはと、打ち合わせを兼ねて出掛けたのである。しかし自分が実際の仕事に耐えられる身体なのか、それは不安だった。
「私は生まれつき弱い身体なんです。ご不自由な生徒さんたちの面倒を見るなんて、とても私には出来ないと思います」
「大丈夫よ、フイさん、すっかり丈夫になって、昔とは見違えるほどになったわ」
 トクが初めてフイを見たのはまだ大塚の下宿時代、正月に本来なら田舎に帰る大学病院の患者だった。いかにも、ひ弱な小娘、田代博士も一旦田舎へ帰したら、もう二度と上京してこないだろうと、それが本当の博士の見方だった。医者として治療のため松蔵にマッサージ治療を命じる。彼も博士の意を察して正月にも帰れぬ寂しい小娘をトクと二人で家に呼び、新年の節料理など、与えてもてなした。フイもその温情が忘れられず、学園が出来てからも保母を紹介したり協力してきたのだった。
「田代先生も多田を呼んだらいいじゃないかと前々から仰っているんだよ。頑張ってご覧」
 今でも障害者援助施設で障害者自身を職員として雇用する場合、いろいろと体力的ばかりでなく、心理的な問題も含めて、いろいろ問題を生じることを言われている。一概には言えぬ複雑な問題ばかりであろう。
 その当時、柏学園では保母として常時二名が勤務していた。子供たちからは例えば「フイ姉ちゃん」のように、上に名前をつけて「姉ちゃん」と呼ばれていても、高等小学校を出ただけの何の資格もない代用保母だった。開園から戦後までの二十五年、ほぼ三十名に近い男女の若い人たちが松蔵の学園を助けている。フイが世話した千葉県出身の保母は約十名、松蔵の郷里山形県出身者は十八名だった。その二名が仕事を分担し、一週間ごとに交代して勤務した。 一名は炊事・洗濯を主とする生活係である。もう一名は実際に子供たちの勉強や治療の面倒を見てやる児童係だった。
 彼女たちの朝は園児より、一時間早く五時には起きる。
「皆さん、朝ですよ、起きてください」
 子供たちを起こし着物を着替えさせ洗面させて、食堂まで連れて行くのは、児童係の仕事である。起きると、生活係はただちに米を炊き、おかずを作り、食事の用意をする。児童係は炊事を終われば、食膳を並べ、その児童に茶碗・箸を並べる。食事にあたっては園児にごはん、おつゆをよそってやる。これにはトクも手伝い、彼女たちと三人で行う。寄宿生にも必ず弁当をもたせた。
 食事が終わると、生活係は食膳の後片付けに入る。
「さあ学校ですよ、お教室に行きましょう」
 児童係は教室の用意をする。廊下にある学用品戸棚から、一時間目の課業に必要な教科書や学用品を取り出し、机上に並べておく。
 今度は松蔵のマッサージが始まるので、寄宿生を順番に四畳半の室に誘導し、衣服の着脱を手伝う。間もなく通学生が付添に負ばれるなどして、登校して来るので、これを受取り教室に入れる。通学生の番になれば、時間中でも呼び出し、順次マッサージを受けさせる。
 それより前、寄宿生、通学生が揃ったところで授業が始まる。一時限は四十分、一時間が終わるごとに、児童係は次の時間の教科書、学用品を机上に並べる。休み時間中は、園児を廊下に出して自由に遊ばせる。
 一方生活係は、食事の後片付けがすんだ段階で、寄宿生の寝具や衣服の洗濯を行う。寝小便、寝糞が多く、毎日が大変であった。
 昼食は、寄宿生、通学生ともに教室で弁当を開いて食べる。お湯をついでやること、食事の介補をすることは児童係の担当であった。子供達の食事が終わってから、彼女たちは食堂で昼食をとった。柏倉夫婦は昼食をとらない習慣で、座敷で茶菓子などを摘み、お茶を飲んでいた。
 昼からは、園児の運動、歩行訓練が行われる。これには児童係が芝生の庭に出て、園児たちの世話をする。訓練具を並べたり、時には松蔵の指図で、児童の手を引いて運動場を回ることもある。
 一方、生活係は昼食後の片付けをすませてから、教室の掃除をしておき三時の お八つとして,菓子,ヨーカンやバナナなどを教室に並べておく。校庭のダリヤも咲き出す初夏になると、トクの弾んだ声も聞かれた。
「山形のサクランボ,熟するすぐ前に送って貰ったのだから甘くて美味しいわよ」
 お八つの仕度が済むと生活係はすぐに夕食の用意にかかる。予めトクが立てておいた献立に従って、近くの商店に赴いて買入れる。当時は近くにまだ店が少なく御用聞きに小僧が廻って来るのは、魚屋と酒屋(調味料,醤油,味酬など)ぐらい、魚屋は木板を薄く削った経木の切れ端に、魚河岸からその日仕入れた魚の名を記してある。刺身にできる魚など数少なく、トクはほとんど膳に載せることはない。ごく近くにあるのも豆腐屋しか無かったため、肉屋、八百屋にしても、かなりの道のりを歩いて買ってこなければならなかった。
 その一方、児童係は校庭での訓練が終ると後片付けをしてから座敷の掃除にかかり、また通学生を迎えの者に引き渡す。夕食は朝食と同じように生活係と手分けしてその子供たちの世話をした。夕食後は隔日だが入浴があった。真夏の暑い日々には行水だけにし、毎日となる。風呂をわかすのは生活係の分担であるが、風呂へ入れるのは児童係の分担であった。しかし衣服の着脱までは彼女たちが行なったが、実際に風呂場で洗ってやるのは、トクか,松蔵が担当した。責任ある仕事と思ったのであろう。松蔵は褌一つで洗い場にいたが、トクは風呂桶の中に抱いて一緒に入ってやらねばならず、裸体になり、そのままの姿だった。風呂桶は小判型の大型であった。手術後の子供を横に寝かしたまま入浴させねばならぬ場合もあったからである。
 一方生活係は,その間に夕食の後片付をする。園児たちは夜八時にフトンに入ったが,そのフトンを敷くのは児童係の仕事である。手があけば生活係もこれを手伝う。全く彼女たちには休む暇はなかったという。
 朝起きて寝る迄,便所へひとりで行ける子供はよいが、行けない子供には、児童係がつれて行くことになっていた。彼女たちは子供が寝てからトクより裁縫など、家事教育を教えてもらった。
 彼女たちが寝るのは玄関横の彼女たちの部屋である。彼女たちの体の調子が悪い時はここで休むしかない,しかし、この部屋が昼間、マッサージ室にもなるので、二階で休むことになっていた。洗濯は大小便で汚れたものが多かった。園舎の外の洗い場で東北の角に井戸があり,そこにはトタン屋根がかけてあったが、冬は風が冷たく洗濯機など、何処の家庭にない時代ゆえ楽でなかった。洗い物の多いときはトクも手伝ったという。彼女たちは午後十時に就寝したが、それ以後は全く解放された。彼女たちに対して
「お前たちを寝るまでは使わない」
 これがいつものトクの口癖で、午後十時以後の子どもの世話をさせなかった。自由時間も与えるとの意味で当時の家事労働基準から云えば、あるいは進歩的だったのかも知れない。
 柏倉夫妻は家屋の掃除にはやかましかった。いつも廊下は光っているように要求した。それ故に冬の雑巾がけは辛かったと、フイは昭和初期の昔を回想する。寄宿生は家からフトン、洗面道具、ねまきの他に、食堂の板の間、フローリングに敷く座ブトンを、持って来るよう要求されていた。その食堂の座ブンを片付けるとき,必ず男の子のものを上にし、女の子のものは下にするように命じられていた。その当時のトクの倫理観、現在では到底考えつかぬものだろうが、その当時はそれが通用した地方、場面もあったのだろう。例えばそれが戦前の倫理観であったとしても、ちょっとあまりに古すぎるかもしれない。
 フイはそれからほぼ十五年、松蔵の学園を助けて身体の不自由な子供たちの面倒を昭和十四年九月まで見続ける。夫妻の一番の助け人だった。身を引いてからも本格的な戦争となる昭和十六年まで何度か一、二ヶ月、学園を助けに来ていた。
 最初にフイが世話したカツが結婚が決まり退職したので勤務するようになったのであろう。代用保母が二名となったのは高円寺校舎に移ってからである。姪ヨシノを呼び夜間女学校にも通わせて三年ほど勤めさせた。しかしこのあと夫妻郷里の山形から十八名の代用保母を求めているが、詳しく調べてみると長くとも一年程度、一月にも満たない者が三人もいる。学園が機能した実質二十年、カツ、フイがリードを務めていたからこそ学園運営が成り立っていたであろうことがわかる。



 

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