大正十四年、成城小学校で元旦の式を済ませた国芳は、職員たちと小使室で冷酒を酌み交わした。ささやかな新年会だった。話題は当然新しい校舎への夢である。誰の口からか秋吉台の本間俊平先生の支援を受けたらとの話が出た。まだ始業式までは間がある。だが不意のことで国芳には旅費の準備など全く無かった。再婚した妻、信子の両親の教会、牧師館に奔る。出してくれたのはクリスマス募金の残り、新しい五十銭銀貨の筒だった。紙包みを剥がして銀貨は光っていたが、十円には満たなかった。とにかく国芳は東海道線の夜行に乗った。本間俊平は高貴なクリスチャン、莫大な資金があるわけもないが、当時の言葉で言えば不良少年たちの更正指導を山口、秋吉台で行っていた社会事業家である。
俊平先生は東京の地図を広げる。北と東、大宮から東北、市川から千葉、やはり東海道、だが、もうすでに横浜から先は余地もない。次に新宿を指さし直線で小田原へと、東海道を弓とすれば弦となる。しかしまだ小田急線は計画段階だった。果たして震災があり、実現が可能か、どうかさえ危ぶまれた。帰り際、国芳は先生から紙包みを渡される。中には猪が二枚。つまり十円紙幣だった。その資金で帰路には近江八幡。本間先生から言われた通り回ってくる。ヴォーリス氏の近江兄弟社、有名なメンソレータム、産学共同の学園まで、見学して帰ることが出来た。
国芳は父兄の財界A氏の紹介で、砧村の地主たちと交渉に当たる、小田急の駅には千五百坪、坪三円で売ってやれ、他の八千坪を六円で買うから、後になって小田急社員たちに、小原先生は本社前に、小田急社長と並べて銅像を建てればとさえ言われた。株式会社計画では坪八円の予定だったからである。小田急の会社設立は震災前の五月、すぐに大地震となり一時は電鉄開通は危ぶまれたが、なんとか昭和二年に全通する。「いっそ小田急で逃げましょか」と、東京行進曲がレコードになったのは昭和四年の五月だった。砧村に新しい学園都市が生まれた。
松蔵は慶福会の一万円を持って土地探しをしたが、国芳には極端に言えば一銭の資金も無かった。グラウンドも必要とすれば五千坪は欲しい。当時は借地が主流だった。地主の百姓たちにすれば先祖からの遺産を手放すこと無く、借地料で収入としたいと思うのは当然だったろう。
緑の何千坪かの土地、丘陵地で国芳も気に入った。いざ契約と、代表となった地主と向かい合う、借地料は坪二銭、契約違約金として一万円支払いと明記された。ところが相対で契約を済ますと地主は契約書二枚を持って帰ってしまう。仲間に見せるのが口実だった。ところが翌日やって来て、地代を坪三銭に上げてくれと言う。一応了承して契約書、翌日にはまた四銭、なにしろ違約金一万円と思うから引っ込む訳にもいかぬ。坪八銭まで上がったとき国芳は考えた。これではとてもかなわぬ。
「私は学校と言っても、主事に過ぎず経営者ではない。校長の高柳先生の許可を得なければ」
地主が捺印を済ませた契約書二通をしまい込む前に国芳は手早く懐に入れる。そして砧村に新しい学園都市、セイジョウの誕生だった。羽仁もと子、吉一の自由学園、田無の学園都市も日本最初、同じ時期だった。学園としてと言ってもまだ電車は通じていない。一番近い京王線の千歳烏山、なんとかスクールバスを走らせることが出来、小田急開通までの急場を凌ぐ。しかし一端、味を占めた国芳、あまりにも討った手が早すぎた。登戸の先の山地、三角点のある高地、小田急新宿からの初めてのトンネルができる。多摩丘陵、この辺りでは最高地点、三角点もある丘だ。二十万坪の山林を、新しい学園の創造を目指して。小田急開通間もない昭和二年である。やがて有名な校長排斥運動を引き起こす。所謂、「成城事件」だ。職員、父兄、学生のそれぞれが,校長派、中間派、排斥派と三派に別れて拮抗する。それぞれの立場はあるだろう。だが国芳は晩年まで余程、悔しかったか叙述した。だが、このためにブランクのまま残した彼の全集二巻は、ついに発刊されることはなかった。
松蔵が小石川で肢体不自由児の支援学校を始めた時期とも同じだった。考えてみれば彼の岡山師範学校時代、国芳も内海を挟んで香川、広島と過ごしてきた訳だった。
「今は山中、トンネルを」
長男哲郎はすっかりはしゃいでいた。
「まるで汽車みたい」
実際山中を走る汽車だと国芳も思った。鹿児島に市内電車ができたのは大正三年である。開化の時代だった。七月に一の橋、十月には鹿児島最大の盛り場、天文館通へも通じた。さすがに東京の市街電車は網の目のごとく通じてさすがだと思う。最初に成城小学校へ沢柳を訪ねたときには人力を雇ったが、それ以降もっぱら外出は市電である。下宿先は牛込、山坂の多い場所だった。そんな坂道をボギー電車はギコギコと運転手が腰まで真鍮レバーを急回転させる。もちろんエアーブレーキなどあるはずもない。こんな電車で急角度の坂道を上り下りして行く。飯田橋の停留場で下りて外堀線、明治三十七年に開通した東京電気鉄道だ。最初は市内電車は個々の会社で開通運転される東京市が三つの会社を買い上げて交通局で運用するようになったのは明治の終りである。
明治三十六年、東京のメイン通り上野新橋間に敷かれてあった鉄道馬車を電化したのが最初だった。もっとも市電は京都が二十年代にも引かれたのが最初だが、街路を十キロかそこら、今ならこのスピードで何だと思うのだが、交通事故は始めから多かった物らしい。白十字会林間学校を建てた宮腰信次郎も交通事故で昇天している。
江戸城外堀、家康自身が大阪攻めでは大苦労を味わっただけに、カネを尽くしたものらしい。幅は五十メートル以上もあり三代将軍家光の時代に江戸城郭、最後の工事である。東と南は川と海に遮られているが西北は丘陵続き、その防衛線、外堀は今見てもかなりの規模である。路面を走らず専用軌道で緑と水面の縁を走る専用軌道は快適だった。電車は赤坂弁慶堀まで、麻布へ抜けて霊南坂、そこに鹿児島で知り合った小崎道雄牧師の教会がある。父、小崎弘道創立の教会、日曜学校には哲郎を連れてかならず通うようにしていた。
「妹が嫁いでいる病院、今度紹介しますよ」
国芳はやはり新しい職場の疲れか、それも主事という管理者の立場の緊張か、夜寝汗をかくので気になっていた。微熱があるとも思えないが何となく気になっていた。
小崎牧師の妹の嫁入り先は結核療養で有名な東洋内科医院、神田に設立された有名なクリニックである。もっとも彼を有名にしたのは間もなく結核サナトリウムの原型となった南湖院なのだが、当時有名な文士、国木田独歩も入院し他界している。その療養記録は毎日新聞に報道されるほどであった。それ以降いくたの有名人が入退院し、結核という当時最も恐れられた。国芳も高田博士の診察を受け、自己の病苦以外に博士のクリスチャンとしての人格に傾倒する。肉体の医者であるより精神の医者、精神病医という意味で無く、結核という多大な精神の苦痛に苛まれている病者に対して接する精神の医者だと教育者国芳が激賞した。高田博士のご長男に嫁いだのは戸川残花の長女達子?だった。クリスチャン学生たちの面倒もよく見てくれる。
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