新教育(1) 


 

 小原国芳も松蔵と同じように暇を見ては郊外へと足を伸ばした。牛込原町のの校舎も震災で倒れることはなかったがガタガタだった。やはり子供たちを預かる身には心配となって当然だ。全面改築となれば莫大な費用、郊外に広い土地を求めてということになる。若松町から新宿角筈、わずかな距離である。飯田町からの甲部鉄道、甲州街道沿いに線路を引く予定でいたが旧宿場町の調布、府中と猛反対があった。鉄道など引かれては町が寂れてしまう。今から考えると不思議な感覚だが当時はそれが通用した。それならばと新宿追分から直線コース、何もない畑地だから土地買収も安上がりだった。やはり町々の考えも変わったのだろう。新しい線路が計画されるようになった。大正四年一九一五年になってようやく新宿追分、現在の新宿三丁目まで完通する。京王電車である。都下の郊外電車としては王子電車と並ぶ草分け的なもの、国芳の住居も代々木練兵場に近い所だった。代々木村の大山に、かなりの土地がみつかった。京王電車の幡ヶ谷停留場にも近い。かなり乗り気になったが、すぐそばに火葬場があるので止めにした。
 中央線を回れば国芳も荻窪、ここにはアメリカキリスト教の支援を受けた東京女子大、吉祥寺には三菱財閥の成蹊学園、羨ましい気持ちで眺めて歩いた。小金井の高台の土地は魅力的だった。遠くもう多磨霊園の森を眺められる。魅力的な土地だった。四谷の大木戸から遊郭のある追分までが内藤新宿となる。江戸末期からかなりの繁華街となった。従って京王電車の起点も追分だった。
 国芳が沢柳に呼ばれて三度目の上京を果たしたのは大正十年、松蔵の柏学園開園の年だった。広島の高師付属小から呼ばれて主事となる。彼が一番心配したのはやはり離婚歴だった。教育者として一番の難点、彼は最初に二時間、沢柳に説明する。
「うん」大きく頷いて彼は続ける。
「なにも問題ないじゃないか。なにかの時には私が良い弁護士を紹介してやるよ」
 沢柳政太郎は山本権兵衛総理が文部大臣にしたかった人物である。しかし貴族院でも彼は社会主義者とさえ言われる悪評をとった。さすがに権兵衛総理も二の足を踏まざるには得なかった。二つの帝國大学総長、貴族院議員、それが今や私立小学校校長である。新教育、明治五年に学校令ができて寺子屋から代用学校、公立小学校が全国に立ち始めたが、到底公立学校だけでは間に合うはずもない。ようやく日本全国に公立学校が固まったのは明治も中頃である。日清日露に大勝したつもりの五大強国、今までの師範制度から脱却した新教育が芽生える。沢柳も新しい私立小学校を目指した。中学校としての成城中学校は、まず陸軍士官学校の予備校として始まる。しかし沢柳が目指したものは、陸士の予備校としてではない、新しい感覚の、いわゆる新教育の小学校だった。
 新教育、誰でも人を教える立場になった場合、悩むことはただひとつだ。もちろん複数の子供たちに教える以上は内容を完全に、そして平等に理解させてやろうと思う。しかし子供たちの学習能力、みな同じではない。ある子供は教える立場の内容以上に理解している子供もいると思えば、全く関心すら示してくれない子供もいる。自分の教科がどの水準を保つべきか、誰でも教師となった場合、悩む問題だった。
「ダルトンプラン」は、 一九二〇年代にアメリカのマサチューセッツ州ダルトンの小学校において女教師ヘレン・パーカーストにより指導実施された新しい教育指導法である。沢柳は日本で最初に同人赤井米吉に翻訳させた。赤井がダルトン・プランのパーカースト著書、最初の翻訳者だった。パーカーストは三度来日している。国芳がすべてに関わったらしい。最初にダルトン校を訪ねたのも国芳、留守中に主事を代わったのは赤井だった。この間、どんな状況があったか詳細がわからぬが、双方の伝記に明解な記載がない。
 結城捨次郎が東京へ出て来たのは、これも大正十年、柏学園開校の年である。東京の教員収入はなんと言っても地方に比べれば高い。彼もそれを魅力に上京した。夜学の高専を受け上級の教員免許の取得を目指した。受験は思うとおりにはいかなかったらしい。やがて同郷の先輩でもあり、また遠縁にも当たる赤井米吉の成城入りに従って上京の翌年、震災前に成城の同人となった。同人とは、沢柳政太郎が好んで使った言葉である。同じ新教育を目指す同志との意味だろう。
 関東大震災の時には夏休みでもあり、結城も松蔵と同じように郷里、石川県の実家に戻っていたらしい。ただ松蔵と違って結城の場合は借家が完全に倒壊、家族はしばらく行方不明だった。細君、秋と長女の久乃の母子二人だつた。結城は結婚後に旧姓の加糖姓から結城姓に変わったようで、母子は慣れぬ土地に困惑したらしい。結局かなりの被害を受けていたが、なんとか倒壊を免れていた夫の勤務先、成城小学校に避難し、無事再会できた。現在とは大分コミュニケーション事情が違う時代だけに、相当な時間が掛かり、双方ともに心配したらしい。気の毒に思った沢柳校長からは古着や、なにがしの喜捨を受けた。ただ沢柳自身の山高帽だけは、なんとも大きく結城の頭にも乗らなかった。しかし家宝にすると、だいぶ後まで残されていたようだ。しかし、翌年の三月には赤井が明星学園開校で退職したので彼も成城を去る。しかし明星へは行かなかった。東京市の教員になれたようだ。麹町小学校、かなりの名門校、そこで開放教室の運営に従う。それが、その後の彼の教員生活の運命を変えることにもなる。
 やはり国芳が主事として抜擢されたのも京大に入り卒論『教育学としての宗教』が出版されかなりの評判を得たからに違いない。長田の推薦に依るものだった。
「サラリーは月百円でどうかね」
「結構ですが」
 国芳にすれば高い安いも言えるはずもない。しかし沢柳にすれば相当気張ったつもりである。しかし国芳にすればかなりの印税も入り、口が立つ講演の収入も馬鹿に出来なかった。だが新しい学校経営の仕事、国芳には魅力があった。
「今度の主事さん、文学士さま、月給百円ですってね」
 あとから父兄雀のおばさんたち、評判だったが学校の実情はそれからは大分離れていた。場所は牛込若松町、戸山原に近く陸軍病院、戸山学校、演習場とまだ東京の郊外だった。三百坪の木造校舎、生徒数も百人に満たず、一クラス三十名の定員も欠けて二十名そこそこである。国芳が赴任当時は生徒数も七、八十名、まだ三学年以下のクラスさえなかった。教員も音楽専任を含めて八名、事務職員が一名、小遣い夫婦に給仕が二名、彼らはすべて苦学生だったのは国芳も感心した。後ろ盾に中国貿易で儲けた財閥が控えており、図書など自由に買えるとは後から見れば誇張で、実情は中国留学生の支援財団、中学校が二百坪の木造講堂を建てれば消えていった。
 国芳の故郷は南の鹿児島、松蔵の東北とは正反対である。生まれも明治二十年、松蔵よりは五つ年下だった。西南戦争に出陣した父、何年も行方不明であった。ようやく処刑を免れ故郷に帰って来る。しかし家財は失い兄たちとともに困窮の育ちだった。中学も途中で電信学校、かなりの倍率から合格する。長短トン、ツーの二信号、現代から見ればアナログ通信手段として単純これほどないものと思われがちだが、考えてみればデジタルである。今ならIC最先端、当時の人々にはなんとも理解出来なく、電信柱に手紙を縛り付けたら、送られていかぬかと、試みた話も、あながち嘘とも言えない。国芳は鹿児島の中継基地で日露戦争、最後のバルチック艦隊北上情報にも活躍した。月給二十五円は二十歳に満たぬ若者には大変な高給だった。彼が家の事情から目覚め師範学校入学を思いついた時には電信局の上司始め全てが反対した程だった。彼が教育者に目覚めた第一歩であった。
「ほらほら、今日も前田先生、おなごの裾に手を入れてた」
「そのたびに坂本医院の娘、肩を震わせていやがる」
 前田先生、前田篤二はもちろん若者たちの目は意識していた筈だった。垂水は鹿児島の対岸の町、目の前が桜島である。夕日に輝く鹿児島湾の美しい海、いくら感づいていたとしても若い二人は夢の中、それが風紀を乱す問題と思っても居なかった。師範学校の競争率は二十五倍である。無理もない。月謝免除で小遣いも支給される。篤二はその難関を突破して垂水小学校の訓導になれたのだ。垂水へは陸路を回ればかなりだが、連絡船ならわずかである。日曜には許嫁のシズカが訪ねてくる。二人はよく桜島の見える浜辺に出ては海を眺めた。
 シズカさんのお父様は立派なお医者さま、家と家との婚約が成立した仲だった。鹿児島の女学校から目の前の垂水まで、月に二度は鹿児島湾を越えて。それが垂水のねたみ青年たちヤキモチ種だった。今の我々の感覚では理解出来ないが、明治の鹿児島、旧弊と言わば言え、洗濯竿で男物竿の上に女物竿を上げて、離縁になった新嫁の話もある。小学校の校長は郡視学(教育委員)相談の上、師範を卒業し何年でもない訓導を、教職にある者が風紀を乱したと免職にする。転勤ぐらいが当時の常識でも当然だと思うのだが、垂水電信局に赴任し前田家に下宿した国芳にしても、憤懣の限りだつた。
「シズカさん、あなたもぜひ、勉強して女子師範に入りなさい。そしてこの家や兄たちの汚名を雪ぎましょう。私だって、ひとり勉強して電信学校へ入ったのですよ」
 お節介といえばお節介な話だった。その夜から師範学校受験問題集を買ってきて受験勉強を始めた。やがては国芳の方が夢中になってきた。電信技師よりも人生有意義な仕事のように思えた。
「そうだ、おれも好きな先生になろう」
 二十五倍の競争率の中、国芳は一番で合格した。肝心のシズカさん、女子師範に入学できたかどうか、国芳の自伝にはなにも書いていない。とにかく下宿先の前田家の不幸が国芳の人生を変えた転機だった。師範学校から高松の小学校教員、やがて広島の高等師範学校、香川師範の英語教員、やがて三十路には達したが京都帝大哲学科の文学士になる。



 

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