新校舎の設計準備に和田工学士が見えたのは九月末、四月一年入学のコウイチが変な事件に巻き込まれたようになったのは、秋もようやく残暑がいくらか和らいだと思われる十月の始めだった。
「昨日コウちゃんのお爺さんが見えたよ」
コウイチもなかなかの知能を持つはずだと松蔵は思った。 その前日、松蔵はコウイチの祖父と称する人物に訪問を受けている。その朝もコウイチは母に連れられ登校して来た。授業前にマッサージをしてやろうとコウイチを毛布寝かせつけ話掛けた途端、その母の顔には不安の影が射した。
「しつこい男でね。コウちゃんの引っ越した場所を詳しく聞こうとするのだ」
松蔵はコウイチが学園に通園するため近くに借家を借りているのを知っている。なぜ祖父ともあろう者が孫の住所を知らぬのか不可解だった。
「おかしいと思って知らないと答えていると、体の具合はどうなのだと聞いてくる。歩けるのかと聞くから、立派に歩けますよと答えてやった。勉強なんかできるのかと聞くから頭いいし、なかなか利発なお子さんですよと云ってやった」
「先生、それ以上なにもお答えにならなかったのですか。お願いですからそれ以上なにもおっしゃらないでいて下さい」
細面の色白さに当惑した眼差しが、くっきりと読み取れた。
「あまりにシツコイから不愉快で、段々いい加減に答えるようになって帰してしまったが、本当のコウちゃんのお爺さんだったら、大変な失礼をしたかと、後から大分心配したよ」
「それで結構なのです。もうそれ以上、何もおっしゃらないで下さい」
母親の細面の白い顔が紅潮し、また暗い憂いが走った。やがて思いつめたように改めて切り出した。
「先生、今はちょっと事情があってお話できないのですが、コウイチを隠さなければなりません。明日からは当分、学校を休ませて下さい」
入学した時、母の説明ではコウイチの父が亡くなったのはコウイチの生後間もなくとのことだった。昨日は祖父と称していたが、最近その祖父も他界したというから問題は複雑のように松蔵にも思えた。結局、コウイチには遺産相続の問題が起こっていたのだと徐々に分かってくる。
その当時の民法では直系家系長男が相続するのは建前である。だが当時、禁治産者と呼ばれて、知能や体力などに欠陥があり財産管理能力がないとみなされれば、廃嫡されることも可能であった。その場合にはコウイチの父の姉妹が相続することになり問題は複雑となる。現代と違って旧憲法、当時の民法は嫡子に全ての相続権があった。
コウイチの母親は我が子を連れて家を飛び出し、転々と居所を隠して歩いていた。やがて松蔵のところに在学しているのを知って、一族の代理人たちが何とか証拠をつかもうと、執拗に訪ねて来たのだった。コウイチも長く欠席させれば、まだ一年生、かわいそう、松蔵はどうにか、ならぬものかと警察に行ってみる。幸い窓口の警察官も同情してくれ、万一の場合には警察で保護してくれると聞き安心する。いずれ民事裁判になろうことは当然だと思うので別に公的な機関ではないが証明書のようなものを書いておいた。
コウイチが学園に入って来た時は、ほとんど歩けなかったが、夏休み前には何とか、よちよちと歩けるようになってきた。
「昨日、学園からの帰りに手を引いて駅まで歩かせたのですが、どうやら全部、歩いてくれました」
やっぱり母親は嬉しそうに松蔵に報告した。
「うん、コウちゃんも本当は歩けるんだよ」
この分ならば、将来、歩き方は無様であっても、平常の暮らしに差し支えないよう、歩行できるのではないかと松蔵は思った。もちろんコウイチもリットル氏病特有の尖足、つまりつま先立ちで、ピョコタンピョコタンと歩く。上肢にも障害があり言語も不明瞭であるが、学業は同級のマスジに比較してよくできる。
慶福会へもそのままとも行かず、松蔵も五月には財団理事長に弁明書を書いている。確かに購入した土地は、時価に比較すれば、半値程度だと自信はもった。学園関係者の中で田代博士は構うことない、そのまま着工すべきと簡単に云われる一方、それなり事業家として苦労をなめている浅田社長は、台帳により訂正してから建築すべきが、後になってトラブルに巻きこみまれない唯一の法だと力説する。松蔵は全く自信を失い、秋には深大寺に別の土地を購入した程だった。
大正十五年、この秋には購入した深大寺の土地も処分がつき、校舎建築の建前もできるようになった。棟上式はもう秋も終わりになっていた。午前中には浅田氏も来てくれたし多くの職人、人夫が参加して賑やかに行われた。松蔵はこの日を晴れやかな永遠に記念すべき日になると思わざるを得なかった。しかし年末は寒気厳しく、壁の上塗りは不適当と、翌年の春を待つことにする。だが、暮れにはご不例であった。大正天皇もついに崩御される。東宮を摂政とされた永年の御病床だった。そして改元、短い昭和元年が続く。校舎が完成し、足場が外されたのは昭和も二年となった三月二十九日である。
「電話も引かなくてはね」
こんなことを言い出したのはトクだった。出入りの酒屋に醤油など注文の電話を掛けながらふと気づいたのはトクだったからである。もちろん小石川の仮園舎には、通常の借家のこととて、電話など、付いていた筈もなかった。それが金持ちの御別荘、初めてトクも電話の効用を知る。もとより日常用品の注文など、保母を走らせれば済むことと分かっている。しかし、例え規模は小さくとも、学校となれば警察、消防も含めて官公暑への連絡、父兄との交信にも、必要となることは明白だった。
「電話を引くとなると大変なお金がかかるだろうな」
松蔵はためらわずざるを得なかった。
「もう少し待ってみたら、電報屋さんもいることだし」
そう言い出した女のトクたった。女が金銭の問題となると消極的になる。だが、いざ整地も終わり建前も済ませ、半ば建物も建ち上がって来ると、男の事業家として寸刻も待てぬ問題だった。
ここまで来て夫婦は最初は全く思わぬ出費があったことに驚かされる。電話だった。さりとてこれだけは、どうしても引かねばならず、今までのお別荘住まいでは予想だにしていなかった。それが文明の利器を使って見て、初めて解ったことである。それも辺鄙な場所だけに七百五十円も掛かる。この全く予算外の金額は、まず何もない広い野原に、まず電柱を立てて、それから電話線を引き廻して行くのだから無理もないと云えるが、その当時なら七百五十円あれば、小さな古家屋なら一軒、買えるかも知れない金額であった。
しかし松蔵の頭に最初からなかったので、夫婦の貯金をはたいて当てるしかなかった。ちなみに、当時の小学校訓導の給料は、月にして四、五十円と言う所である。子が無く共働きだったには違いないが、二人して文字通り爪に火を灯し貯めた蓄えだった。
五日前の二十四日に学年末の終了式が行われた。生徒十名、ほぼ定員に達していた。もちろん遺産相続問題に巻き込まれていた一年生のコウイチなど何人かは欠席していたが。
「今度の新しい学校、野原の丘の上に建っているのよ。見通しが良くて裏の原っぱには桜、大木で十本はあるから、あれなら盛大なお花見が出来るわ」
「学校のお家は一軒しかないのだったら泥棒でも入ったら困るでしょう」
大人たちの口から辺鄙な場所として聞かされていただけに不安がる子供も居た。
「大丈夫よ。通りの向かいはお百姓さんのお家、藁葺き屋根だけど林もあるわ」
それでもどの子もみんな、まだ見ぬ新校舎への期待、多弁なトクから聞かされたものだが膨らむ。学業が終わとすぐ松蔵は畳屋を呼び畳替えをする。もちろん子供達によって破0られ継ぎ貼りされた障子も直ぐに全面張り替えた。その翌日、松蔵夫婦揃って宝仙寺の浅田邸を訪れ別荘を借りられた謝意を述べに行く。浅田夫妻は機嫌良く出迎えてくれた。
「ほんとによかったね」
「ずいぶん気をつけて使わせて頂いたのですが、何しろ子供達のことですから」
トクはあっちこっち傷つけた箇所を頭に思い浮かべながら、ひたすら頭を下げる。
「仕方がないよ、でも今度から思うとおりに子供達のためにしてやれるじゃないか。土地のこともあるけど、あまり気にしない方がよい。自然に解決して行くものさ」
浅田氏は老獪な事業家らしく鷹揚に松蔵を慰撫した。翌日の引越の日にも浅田氏は気になるのか見に来てくれた。東京市営バス運転手の半沢もこの日夜から泊まり込みに来てくれている。
「三河屋さんにも車を頼んであるわよ、小僧さん一人手伝いに来てくれるって」
トクは一月も前から引越の手配に忙しかった。押入、箪笥の身の回り品整理、細々とした不要品の遺棄、しかしそれよりも新しく増えた椅子机など、オルガンも含めた学校用品、教材などかなりの量となる。
「自動車を使えばいい」
「あんなもので荷物を運べると思うの。屋根があるのよ」
「円太郎は本来バスではなくてトラックなんだ。アメリカの百姓どもはみんなあれを使って農作物を運ぶんだ」
たしかにその当時は自動車を使って引越をするなどと云う発想はまだ普通にはなかった。荷車や馬力などが通常の陸上輸送手段の本命である。坂の下には通称「立ちん坊」と呼ばれる人々が待っていた。車の後押し専門職である。現代ホームレスのアルミ缶拾いより率はよかったらしい。手伝い大工は二名、父兄など、十数名が手伝いに来てくれた。松蔵自慢のT型フォードは高円寺から方南まで七回往復した。当時の引越には馬力荷車が普通だから松蔵は相当ハイカラな引越をしたことになる。だが出来上がった筈の舎屋にはペンキ塗装もしてなかったし、障子張りの経師屋も入っていなかった。
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