円太郎(4) 


 

 大正十四年、前の年に定年で教授の職を辞した田代博士は東京市会議員となる。民生問題、今なら差詰め福祉政策と言うべき民生政策が主眼だった。そして翌大正十五年三月には松蔵も東京帝大付属病院を退職する。学園の仕事も軌道に乗り専従の目安もついたからだろう。だが翌月から日曜毎に午後必ず、羽田の寛徳園へマッサージと、言わば今のリハビリ指導に通っていた。寛徳園は田代博士が遺児の冥福の為、建てた個人的カリエス療養施設である。松蔵は今で云うボランテア活動で真実、博士に対する恩返しの気持からだった。通う電車もよく打ち会わせて博士と同じ電車に乗ったが、帰りは必ず一緒だった。松蔵の経済状態を心配して、切符は必ずご自身で買って下さり、その度に、お茶は、食事はと誘って戴く。これは博士が亡くなり、寛徳園が閉鎖されるまで十二年間続いた。そして温情あふれる子弟にも似た二人の間には、博士から公立肢体不自由児小学校創設の抱負も、何度か聞かれたに相違なかった。
 その前年、四月の新学期になって一年生入学を希望してきたコウイチも、アテトーゼ型の脳性マヒだった。もちろん大学病院から田代博士に紹介されている。九月には博士は帝大定年、この後も下谷練塀町、田代病院に博士は多くの不幸に生まれた子供たちを診察しておられた。前年に入学してきたジロウ、マスジ、アキラもアテトーゼ型の脳性マヒ、当時はリットル氏病と診断されていた。一八四〇年、英国のリットル氏によって命名された病名、何れも出産時の障害が原因らしく四肢が麻痺と云うより異常に硬直し運動障害、知能も遅れているようで、よだれを流し尖足つまりハイヒールを履いた状態で歩行するのが、この病名を付けられた子供たちの典型である。知能は遅れていると云われるが松蔵は、こうした子供たちが学業に十分耐えることを認識し始めていた。もちろんトクの懇切な教授法によるところが多いのだろうがジロウにしてもアキラにしても普通児よりむしろ優秀な成績を修める子供ではないかと思っていた。産科技術が発達していない十八世紀または十九世紀でもアテトーゼ型脳性麻痺児なら生存率が高かったのだろう。その当時は出産障害でも大脳皮質に損傷があれば、まず生存は不可能だったに違いない。リットル氏病など周辺部の損傷で済んだゆえ、何とか生存できた子供が居り、またその中にはかなり多く成人まで生育し得た子供たちもいたに違いなかった。
 松蔵はもらった大學から退職金で今で云うリハビリ用品、つまり運動療法器具だがを買いそろえる。小石川区や本郷区、今の文京区、大学病院周辺の医療器具店からである。舶来では英国製の歩行器、三輪で現在のものに近い。これは十七円だった。当時にすれば全て特殊なものばかりだけに、一円を一万円とすれば現在の価格が想定できるだろう。彼は本来、機械好きだった。今なら松蔵も発明マニア、下肢運動のための足踏み機も考案して造らせた。自転車のチェーンを利用し設計する。これは特注だから三十円も掛かった。
 また三輪の車イス、手動のチェーンが付いた自走式のものだった。四円也で鉄骨屋に頼み簡単な四輪の手押し車を造ってもらう。しかしこれは歩行できる子供には何らく押すことが可能であっても、全く歩行のできぬ子供には何の役にも立たぬことを知った。
 松蔵が浅田氏に紹介された和田信夫工学士に校舎設計の依頼に出掛けたのは、まだ夏の日差も衰えぬ九月も末だった。土地問題は棚上げにして何としても、建築を開始すればならなかったからである。和田はまだ大学を出て間もない。だがそれだけに身体の不自由な子供達のために、どんな点を留意しなければならないかと思う。
「やっぱり身体のご不自由なお子さんばかりですから、いざと云う場合がご心配でしょう」
「もう当分はあんな大地震は起きないとは思いますが」
 実のところ松蔵は震災の直接体験はしていない。偶然にも休暇が取れたので郷里に帰っていた。すぐ舞戻りその惨状は目の当たりにしているし、トクがただ一人、深川不動に参拝に行き市電停留所前で出会った話は何度聞かされたか、言わずとも耳には、たこになっている。
「柱は三寸二分、米杉、アメリカから輸入した材木で、けっこう固い材が簡単に入るようになりましたから一間おきに建てることにしましょう」
 震災直後の当時だけに耐震建築がやかましく叫ばれた時代だった。
「廊下はぜひ一間は欲しいですね」
 普通家屋の廊下ではでは三尺(90センチ)であり、やや高級な家屋でも三尺二寸(96センチ)が限界だった。もちろん校舎であるから全く普通家屋とは感覚が違うことは和田にはよくわかっていた。その時代なりバリアフリー問題を意識できた。
「歩けない子供達は便所、ご不浄にはどうやって入るのですか」
「手で這うしか仕方ありませんよ」
 トクもこうした歩けない子供達を扱う場合、最初に困惑した問題でもあった。最初の生徒シゲ子が入園の際には荷物の中に大量のおしめが入り驚く。おしめなしでトイレに連れて行こうと苦労する。なんとか這うことが出来るから廊下や畳の上は移動できたが、トイレの中は当惑した。トレイはご不浄と呼ばれ不潔な場所として誰もが認識している。はじめはトクも手と膝に草履を着けさせてみたりして工夫してみたが上手くいかなかった。結局清潔に保てば良いのだと思う。最初の借家のトイレも浅田家別荘のトイレも最初はトクが自身で清掃した。便所トイレはご不浄と呼ばれ不潔な場所として扱うから不潔になってしまうのだととくは思う。
「舐めてもきれい」
 トクの自負である。絶対に下働きの保母たちには自分が納得するまで、単独一人では清掃させなかった。
「ご不浄だから不潔な場所になってしまうので、お浄め場所と思えばよいのよ」
 上雑巾には廊下拭きと同じものを使用させたので、潔癖な父兄の中には眉をひそめる者もなくはなかったが。
「便器は落ちないように落し穴の小さなものが最近作られるようになりました。前に木製の丸棒を捕まれるように取り付けましょう。もちろん小便器の前にも」
 教室はもちろんだが食堂、洗面所も板張り(フローリング)にするしか考えようがなかった。ただ洗面流しだけは座位でできる位置にした。食堂は各自座布団をして坐る。だが畳敷きの和室は寄宿生徒の居室と襖越の八畳二間のみである。玄関横にも当時流行の洋風応接間ができる。まだ応接間を洋間にしても食堂に椅子テーブルを置く発想がまだなかったのは、キッチン台所はあくまでも竈、流しのある地上土間、それから一段高い板の間に長い座卓と座布団を置いても不思議と思う者はなかった。もちろん食事は同時刻、園長夫妻から子供たち、賄い担当の保母まで向かい合い全員一同に会したのは云うまでもない。



 

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