今日も松蔵はトクに弁当を作らせて出掛けていった。ここの所、日曜と云うと古いズボンに黒い脚絆を巻き、地下足袋を履いている。水筒を掛けた上着の袖はすり切れて被った帽子の中折れもよれよれだった。それでも松蔵は半纏、法被と云った職人和装は絶対しない。例えボロであっても洋服に袖を通していると云うことが、教師としての自負らしかった。それでもトクには気になるらしく
「いくら田畑の中を歩くと云ったって、街の中も歩くのでしょう。それではあんまりじゃありませんか。せめて帽子だけでも、新しくハンチングでも買ったらどうですか」
と勧めてみるが、松蔵は全く眼中にない。
「歩いて捜すにはこれが一番いい。いくら良い運動靴を買ったって、田んぼの中にはいりゃ一辺さ。地下足袋なら一番歩き良いし、帽子だってこれなら雨に降られても何の惜しげもない」
「でも、ここは浅田さんの別荘なのですよ。ご近所の手前もありますし、あなたがあまりにひどい恰好でいらっしゃると、浅田さんのお名前にも関わりますよ」
トクはもう一度松蔵をたしなめてみたが、何の反応もなかった。そんな言葉はトクにとっては毎度のことだった。もう口には出さないと思っているのだが、ついつい口に出てしまう。ほっと溜息をつき、トクは松蔵を送り出して子供の部屋を見に行った。日曜ではあるが昨日の土曜日に迎えが来なかった男の子が一人残っていたからである。
ここのところ松蔵は日曜というと、まあ言わば草鞋脚絆の姿で外に出た。さすがに草鞋こそ履かなかったが、地下足袋はその頃でも労働者以外には履く者もいない。震災以後、西へ西へと伸びていく東京のベッドタウンは上辺りだけは瀟洒な洋館造りでも、中はアメリカ杉やアメリカ松の安っぽい木目が目立った。住人達は男は一様に背広を着て、中折れにステッキ、革鞄を抱え省線電車と郊外電車に媚集する。女達は夫の留守中もてあました時間を特有な語尾変化の付いた言葉で語り合う。山の手言葉とでも云うのだろうが、松蔵は吉原の花魁言葉と同じだと思った。そうした言葉も地方地方の方言を隠すために使われたのだ。トクはそうした人種にそれなりに順応しているのだが、松蔵には気に入らない風だった。
浅田の別邸から青梅街道までは五分ほどの距離である。街道に沿って荻窪に向かいさすがに都会化の波は早く、豊多摩郡と言う市街地故に東京市電こそ走らなかったが、西武鉄道のボギー電車がごとごとと荻窪まで単線レールの上を走っていた。今日は堀の内まで行ってみよう。蚕糸試験所の赤レンガの塀に沿って、妙法寺の参道を南へ歩き出した。一丈はゆうに越すと思われる青銅の燈籠が目に付いた。
この前の日曜には松蔵は北に向かって歩いていた。野方から沼袋の辺りまで歩いてみたが、安っぽい新開地が並び畑地が続いて、まとった林野の土地は見当たらなかった。この春、つまり大正十四年三月、慶福会から松蔵は五千円の御下賜金を戴いている。慶福会とは前の年大正十三年に皇太子ご成婚を記念して御内努金、皇室のポケットマネーだが一萬円を基にして、私設社会事業のための基金集めにできた慈善団体である。この会の設立一年目にしてもう彼はその助成を受けることができた。もちろん田代博士の口添えあってのことだが、この他に浅田家からの基金もある。たとえ浅田家の別邸とは云え、いつまでも仮住まいとはいくまい。この辺で独立した園舎の夢を、と松蔵は思っていたのである。
堀の内、江戸時代には落語の演題となって噺の舞台にも登場するほど、妙法寺は堀の内の御祖始さまと呼ばれて市民の口に膾炙していた。元来は他宗の寺であったが、元禄年間、目黒碑文谷にあった妙法山法華寺が「不受不施」を称えたため、当局の忌避するところとなり廃寺となったので、その寺の日蓮像をここへ迎えてからとみに寺運が隆盛に向かう。日蓮宗の中でも「不受不施」の一派は強固な信仰をもち、上からの束縛は遺棄し一種の共産的社会を形成して来た宗派である。そのために時々の施政者たちからは、常に迫害視されて来た。
さすがに妙法寺は山門、祖始堂、本堂、薬師堂などかなりの結構を極めていた。門前町も殷賑を極めていたが、茶屋の前に掲げられた垂れ幕から、油で揚げた餡饅頭が寺内の名物らしかった。
寺の裏手から松林を抜けて遙かに見渡した松蔵は、ほうっと大きく息を吐いた。台地が開けて南西に田が続く。左手のこんもりした丘の緑の間に、ちらほらと桜が彩っているのが目に付いた。そこから一線、銀色の蛇のようにくねりながら続いているのは善福寺川であろう。昔の神田上水の名残がそこここに眺められた。武蔵野と呼ばれていても、全く平地が続くわけではないのだと改めて松蔵は思った。北へ向かっては野方から練馬へかけてどこまでも畑地が続き、その中に新興住宅地が点在していたが、なるほど、ここらは和田堀風致区とよばれるだけあって、なだらかな丘の合間には楽しげな小川がせせらいでいた。
松蔵はすっかり気に入った様子だった。こんな近くにこれ程までに自然に恵まれた土地があったとは知らなかった。確かに交通の便は良くない。省線の高円寺や阿佐ヶ谷駅からかなりある。南へ下がっても京王電車の代田橋駅まで歩くしかない。交通のデスポイントだったのだろう。しかし松蔵は体の不自由な子供の療育には最も適した土地のように思われた。
先程の妙法寺から眺めた森の台地に松蔵はやってくる。由緒深げな神社があって、ほの暗い参道に入った。杉並木が実にみごとである。ゆうに樹齢は三百年は優に越すと思われる杉の大木が、何十本となく空に聳え、樹影から覗く青天井はわずかだった。特に静寂なたたずまいを見せる社殿の横、松の神木は素晴らしい。樹齢は八百年と伝えられ、その幹は子供が手を繋げば七、八人は必要とするだろう。しめ縄の張られたその幹の横に筆黒々と『八幡太郎義家、手植の松』と認められてあった。松蔵はここも源氏ゆかりの八幡神社かと合点がいく。ここを大宮と呼んでいるらしい。帰路は元の神田上水に沿って歩いて行った。
美しい流れである。源に井の頭の池を発しているだけに水は清く、川底に揺れる水草もしなやいで、その緑を土手に沿って松蔵は歩く。蔵王の故郷の川のほとりを歩く思いだった。神田上水は玉川上水と共に江戸の二大上水として、三代将軍家光の寛永年間から明治も三十年代まで、江戸百万の上水道としての使命を果たしてきた。今ここに何百万人かの命の水となったこの流れも、使命を終え静かに自然にとけ込んで残りの余生を送り続けていた。
ふと見上げると、左手の丘に霞のごとく十数本の吉野桜がたなびいていた。染井でない古木である。松蔵がその裏手の畑地、四八七坪を買収したのは夏の暑い盛りになってからであった。八月二十七日、全ての登記を済ませる。生まれて初めての不動産購入と云う責務を果たして、ほっとして間もなく、松蔵は世間にありがちなトラブルに巻き込まれる。役所の土地台帳と現形はあまりにも違いすぎていた。本来農地である。昔から年貢に対して少しでも狭く申告したいのが人の常だった。いざ建築となると境界線すら明白にはならない。直ぐにと思った校舎建築も手づかずその年も暮れた。
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