子供たちの通園が目的で買ったスクールバスだったが、実際には経費その他の面で到底、不可能であることが松蔵にも分かって来る。さらばこそ松蔵は市バス払い下げ第二の目的だった遠足へと使用することを計画始めた。体の不自由な彼ら、どうしても室内に留まりがちになる。彼らにこそ身の回りの社会に対して少しでも見聞を広くげてやらなければ。お花見は浅田別邸の庭、山桜の若木の下で辨当を食べて終わらした。
「遠足には何処に行きたい」
五名となった全校生徒に松蔵は問い掛ける。
「ドウブツエン」
圧倒的に上野動物園が多かった。松蔵も今まで何回かヒロシやジロウのような寄宿生を連れて上野の山に通っている。山側の駅口から動物園まで子供を負うのはかなりしんどい。もう歳なのかとも思う。まして今度は自動車だ。山下から五人の生徒背にと思えば、ちょっと二の足を踏まざるを得ない。実際に子供たちを連れ始めての遠足に連れ出したのは、円太郎バスを買って八箇月目、六月も後半、二十一日の日曜になっていた。まだ当時は病院勤務がある。平日に休暇は松蔵には取りずらかった。寒い時期には幼い子供たちを連れては出られない。円太郎はバスとは云え、冷暖房付き近代バスではなかった。トラックに屋根を付けただけの窓ガラスなし、吹き曝しの車だったからである。
当日はやはり梅雨本番の六月だけに朝から曇り空、一番心配した天候だった。しかし雨は降り出さない。松蔵は空を見上げては出発を考えた。しかし子供たちの方は朝から夢中である。初めての遠足、まして自動車に乗るのだ。九時にはみんな集まっていた。
「みんな落ちないよう、気をつけて乗ってよ」
子供は日曜なので普通小学校に通うジロウも含めると六名になる。五人の付添、それに園長夫妻と保母のヒサが乗り込んだ。もう一人の保母だけが留守番に廻る。松蔵は後部座席の中央に座る。車内がすべて見渡せた。もちろん当時のバスは小型で*メートル、現代のミニバスとほとんど変わらない。
運転手の半沢は九時半にくる。ガソリンその他は昨日のうちに準備してあったからクランクを回せばすぐにエンジンが掛かった。全員十四名、学園中の全員が一台の車に乗れたと思えば松蔵は満足だった。車はすぐに青梅街道、みんな近隣者は物珍しく見送る。すぐに五日市街道に曲がり吉祥寺へと、当時はまだ井の頭通りはない。堤防に挟まれて水道の水路である。なんの円蓋も無かった。したがって人が渡る歩道橋はあっても車が通れる橋は無かった。吉祥寺の踏切を渡り井の頭公園、震災後新しく東京府が開発しはじめた公園だった。
子供たち、**も**も自動車自動車と興奮し窓側に首や手を出したがる。子供たちの間で流行った付添の大人たちはそれを押しとどめるのに懸命だった。しかし車が吉祥寺の手前にさしかかる頃から雨がぽつりぽつりと吹き始める。公園の林内に入った頃から雨は本降りに近かった。松蔵は公園口の茶店に全員降ろし、弁当、子供たちが何も解らぬまま、十時半にはまた円太郎に乗せねばならなかった。帰園したのは一時半、二時にみんなを帰したが、それからの松蔵は大仕事が待っていた。何しろタイヤは泥だらけ、郊外には舗装道路などほとんど無い。長靴を履きズボンを履き替え、車の清掃に二時間はかかる。さすがに彼もしんどかった。
二度目の遠足は大正最後の歳の筈たったが、新校舎の建設に追われて忙しく、翌年の四月に新校舎に移り初めての昭和、それも七日で終わり、昭和も二年になって七月である。この時は開業したばかりの地下鉄に、子供達を乗せてやりたいと云う思いからだった。この年、初めて浅草、上野間に日本最初の地下鉄が走る。不忍池を周り今の水上動物園、当時の博覧会場を廻って浅草、子供たちをひとりひとり負ぶって、階段を下り地下鉄に乗せてやった。彼の新しいもの好き好奇心は、故郷上山に初めて牽かれた汽車に始まった事ではない。自分が好きなことは子供たちだって好き、彼のやさしさだった。
これ以降、春と秋には必ず遠足に円太郎バスを使った。日本最初のスクールバスである。当時日本の特権階級学園、学習院にスクールバスがあったかどうか、むろん筆者は知らないが。時には最延長の高尾山、大正天皇崩御の間もなく故、多摩御陵には二度ほど、豊島園や鶴見の花月園、遊園地はもちろんだが、築地の本願寺が洋風建築で、震災後新築された時は子供達を見せに連れてっている。興味深いのは芝の増上寺オタマヤだった。子供には何の縁のないような遠足場所だったに違いないが、徳川家歴代の将軍霊廟、戦災で完全に焼失した。一般の好事家でも見ている人は希有ではないか。日光よりも金箔などを多く使わず、地味な漆仕上げなどの工芸作品が多く、むしろ芸術的価値は高かったと言われていた。しかし圧巻は何と云っても、子供たちを羽田へ連れ飛行機に乗せてやったことだろう。当時は飛行機など、墜落するもので、乗れるものとは考えていなかった時代であった。
日中戦争が始まり、ガソリンも急迫してくる。まずガソリンの切符制に始まり、軍需はともかく民需のバス、トラックなど木炭・薪などの代用燃料車になってくる。やがて小型のタクシーもすべて代用車に限られた。学園のスクールバスも、いよいよ古くなり、切符の配布は受けたものの、ほとんど使用されなくなっていた。昭和十五年八月二十六日の遠足が、配給ガソリンを使っての最後の遠足となる。深川の清澄庭園から月島の埋立地へと、本来なら、この年行われる筈だった東京オリンピック、開催場所の一つになる筈だった。当然帰路にはこのために企画された大型開閉橋、勝鬨橋を渡ったことだろう。そして、この年の十一月に、この思い出深き円太郎バスも廃車となる。
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