円太郎(1) 


 

 大正十三年九月に定年で田代博士が帝大整形外科教授を退官し、十二月になると、予想通り高木助教授が主任となった。子弟ではあっても温情型の田代と秀才型の高木では、どこか肌の合わぬ所があったのも当然だろう。紆余曲折はあったのも当然と云えば当然だったと云える。以前と異なり大學病院でも松蔵の居場所はマッサージ室に限定され居辛いものになっていった。
 十月に入ると高円寺も新開地らしく、夏から残った緑もすっかり秋らしい。今日は病院出勤せずに済む松蔵は朝から夢中だった。クランクを回してエンジンを始動させようとあせるのだが、なかなか思い通りには掛らない。いくらか掛ったかと思えば、手に掛る反動はものすごく、そのたびに体が飛ばされそうになる。昨日、東京市の交通局から運ばれてきた時には、立派にエンジンが掛ったのだがと思うのだが、もう一度腰を屈め踏ん張って両手でクランクハンドルを掴む。
「先生、もっと力を入れなきゃ。もう少し勢いよく廻して下さいよ」
 運転台の半沢は交通局からの運転手である。運転免許証のない松蔵は、非番の彼を頼んで始めて子供達をそれぞれの家へ送らせてみようと思いついたのだった。黒塗の鈍重な野獣は、わざと松蔵の言いなりにならない。彼があせればあせる程、野獣は二つの目玉を大きく見開いて松蔵を小馬鹿なしたような顔つきで覗める。
「だめだめ、先生それじゃあ全然エンジンが掛りませんよ」
 半沢自身も小馬鹿にしたような顔になって松蔵を見下す。エンジンからのシャフトはフロント下部にクランク状の鉄棒を嵌め込んで、勢いよく廻して始動させねばならぬ。指二本でキィを回し、セルモーターのスィッチを入れると云う時代ではなかった。
「ところでガソリンは本当に入ってるんでしょうね」
「昨日東京市から動かしてもってきたんだから、たぶん入っていると思うよ」
「さあどうですかね、他人に売ってしまう車へガソリンを一杯入れとくお人良しなんて、あまりいるとは思いませんけどね」
 云われて見れば松蔵も首を傾げざるを得なかった。
「そうすると、もうガソリンが無くなっているのかなあ」
 何でも新し物好きの松蔵であったが、そのくせ文明機械に対しては、からしき弱いのが松蔵である。カラクリは魔法の一種としてしか眺めるだけの世代なのだろう。自分自身は合理的人間と自負しているのだが徐々に自信を失ってきた。
「だけども先生、本当にこの車は動きますのかね」
 半沢運転手もうっかり自分が売手側の立場にあることを忘れてしまう。運転免許を取ったのは二年前である。とにかくパンク修理だけは身を持って体得したがエンジンとなると空しきだった。人の良さそうな目尻を下げる。
「とにかく動いたからこそ、ここまで持って来られたんだろう」
「だけど、故障ばかりしているから東京市の方でも面倒臭くなって廃車にしたんでしょ。そんな中古を買って大丈夫なんですかね」
 松蔵の新しい物好きは今始まったことではない。出来立ての岡蒸気に夢中で乗ったその若き日から、上京して来てまだ岡山にはなかった市内電車はもちろんだが、寄席の高座の上でプープーと手真似よろしく、橘家円太郎が真似た馬車のラッパが有名となり、俗に円太郎と呼ばれるようになった乗合馬車にも、さっそく松蔵は乗ってみた。
 震災後、東京市は米国からT型フォードを数百台購入した。フォードは自動車大量生産の草分けである。米国中に普及し、農業労働者の中にも行き渡った。映画にもなるスタインベックの小説「怒りの葡萄」の中でも、このトラックに家財から家族まで乗せて農園から農園へとさ迷う労働者のあり様が描かれている。東京市はこれを馬車に代えて乗合自動車として使用した。全長*メートルで、今ならさしづめマイクロバス程度だ。それでも二十人は楽に乗れた。小型トラックを改造したようなものだから、立派な窓があるわけではない。屋根だけはついているから雨降りも困らないと云え風が吹いたらどうなるのだろう。すぐ現代人なら考えるだろうが、暖房も冷房も当時の人達には慮外の話である。最高時速でも三十キロ程度だから、二十キロで走れば相当なスピードに感じられた。
 スクールバスは松蔵の夢である。欧米のクリュッペル・スクールでは、自動車を使って子供達の送迎をしているという話を、松蔵は聞いたことがある。あるいは、そうした写真を見たのかもしれない。体の悪い子供達であり、通学範囲も広くなるのは当然であるから、父兄の負担が大きくなるのは当然である。事実、今までこの学園に入学を希望しながら、送迎の負担に耐えかねて退園していった子供も初めから断念していった親達もある。
 タケシの家は下町の商家だった。朝は母親がタケシをおぶって学園へつれてくる。バスを乗りついで一時間は充分に掛かった。まだ乳飲み子の弟妹もいる。母親も一日、タケシについているわけにはいかない。タケシを置くとまた飛ぶようにして下町の我家に帰る。午後からは父親の番だった。昼過ぎまでに店の仕事を一段落つけて、二時には家を出なければならない。帰ればどうしも五時近くにはなっていた。
 昨年、高円寺の園舎に引き移って間もなく、浅田氏の厚意で運転手付きの自家用車を借りられたことがある。十一月末の薄ら寒い日、秋雨が強く降りそそぎ、小枝に残った色あせた落葉樹の葉を一枚一枚、むしり取るかのような日だった。
 三人の子供たちを乗せて学園を出発したのは、午後の三時五十分、四十八分で麻布に達し、ひとりの子供を下して本郷へ向かう。四十五分かかった。さらに二十二分で目白に着く。浅田邸に車を帰した時間は六時四十五分だった。合計所用時間は二時間五十五分である。車の速度も上り、路面補装が行き届いた現在でも、このコースを走るのに交通渋滞のために同じ位の時間を要するだろう。
松蔵はどうしてもこの夢を実現させてみたかった。幸い東京市がバスを安価に払い下げると聞いて購入してきたのだった。相変わらずトクには、このことについて何も聞かされていない。夕食の膳で、
「今日、自動車を買って来たよ」
 と聞かされ、さすがにトクも目をまん丸くて驚いた。今の世の中で自動車を買って来るのとはワケがちがう。震災も翌年、大正十三年十月の話しである。自家用車を持つなどと言うことは、浅田家のような世間から当時の言葉で金満家と呼ばれるような家は別として、普通の庶民では、とうてい考えられない事だった。
「運転手は誰がするの」
 トクは松蔵が車を欲しがる気持をよく理解できた。トクから見れば松蔵は子供のようなものである。
「半沢さんにでも、休みの日に運転してもらえばいい。そのうちに私が運転免許をとることにしよう」
「園長さんが運転手になって、生徒さんを送り迎えするのですか。大変な学校ですね」
 トクは松蔵の真面目くさった顔をからかうように笑った。今に始まったわけではないかが、幾つになっても、この人は子供だとトクは思う。それがこの人の良さでもあるし、それがあるからこんな突拍子もない仕事も続けていけるのだと思う。
「車庫、ガレージも入りますよ。自動車って、すぐパンクするんですってねぇ」
「こんどの新しい園舎ができたらガレージは作るつもりだよ。クリュペルスクールには必ず自動車が付き物なんだ」
「あなたにパンクしても修膳なんか、出来るものですか」
 トクにしても自分の夫がそれほど器用人だとは思っていない。むしろ無器用な方ではないかと思っててる位である。しかし、どこで調べてくるのか松蔵の新しい知識欲に、しばしばトクは驚ろかされざるを得なかった。
「あんなもの、慣れれば何とかなるさ。あの位の機械、アメリカでは百姓だって皆んな使っているんだ」
 松蔵はいたって気楽だった。大量生産と云う課題で一時代を区切ったT型フォード、払い下げ価格もそれ程高いものではなかったらしい。製備技術も進んでいなかった日本では半年走った車でも、ちょっととした故障ですぐに廃車にしたものらしく、松蔵は自分の夢に一歩前進できたと内心得意だった。
 やっとエンジンが始動したのは、五時過ぎである。通園の子供たちは皆、親たちが連れ帰った後だった。それでも寄宿の子供たちを二、三人乗せて見た。あたりを三十分程ドライブすれば、それでその日は終わりとなった。
 普通の大人たちでも自動車など、珍らしい時代だったから、子供たちが驚喜したのも無理はない。それからも何度か、半沢を頼んで子供たちの送迎に使ってみたが、いくら厚意でも頼んだ以上は、運転手に手ぶらともいかず、ガソリン代を入れると馬鹿にはならなかった。



 

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