大正十三年の暮、高木は正式に田代博士の後を襲って東大第二代目の整形外科教授に任命された。助教授になったのが七月だから、五ヶ月も経たずに教授に任じられたことになる。高木自身も、後には九州帝大に行く神中はじめ多くの競争相手いたことだけに、さすがに嬉しかったらしい。もちろんその当時は果して整形外科だけで医家として成り立つものであるか、と誰もが首をかしげていた時代だ。弱冠三五才の高木にすれば、前途洋々として眠られぬ一夜を明かしたのも無理はない。事実、整形外科出身の先輩たちからは、このままでは整形外科は立ち腐れ寸前だとよく言われていた。
一夜、その抱負を書面にして、田代博士の教授室を訪れる。恩師の顔は、高木が入室前に想像していたよりも厳しかった。高木は折りが折だけに慈父のごとき温顔を期待していた。それ故一段と身の引きしまるを憶えざるを得ない。
「高木君、そこへ座りたまえ」
例え身は本日より東京帝国大学教授にあるとても、田代の前に出れば一介の学生と何の異なるところもなかった。
「君にははっきりいっておく、最初、吾輩は神中君を推そうと思ったのだ。もとよりこの問題に関しては、私情には絶対流されない覚悟でいた。吾輩も随分と辛かった。君も吾輩の可愛い弟子なら、神中君も可愛い弟子の一人だ。君を教授会に推挙するに当たって、入沢の助言も強かったし、医局の連中の気持も相当、汲んだつもりでいる。少くとも、これからは君が整形外科教室の全てを負うのだ。若い君には相当過酷な場合いもあろう。しかし君は、今日からは助手でもなければ助教授でもない。ひとつひとつの言動に整形外科教授としての自覚と自身をもって行動してくれたまえ」
「そのことは良く分かっているつもりでおります。」
高木は昨夜からの気負った気持が一時に崩れていくのを感じた。寝ずに書きあげた書面を田代博士の前に出す意欲も、八分通り失いかけていた。
「それは何だね」
博士に言われて高木はちょっとためらった。
「いえ、もういいのです。今日は、、、これで、、、」
「まあいいじゃないか、見せたまえ」
「ですが、、、」
「それは私に見せたくて持ってきたんだろ」
「はあ。実は抱負のようなものを個条書きにして、先生に見ていただこうと思って、書いてきたんですが、今のお言葉を聞くと、とてもおこがましくて。今日のところだけは、勘弁して下さい」
「まあいい。いいから見せなさい」
おずおずと差し出す高木の書面を、田代は手に取った。まず第一に
『教・療・職三位一体の徹底とクリュペルハイムを東大に附属させること』
と書かれてあった。そして高木らしい微細な計画が書き記されていた。博士の顔にまた厳しさが戻った。
「東京帝国大学医学部の目的は、何だね」
「日本における最高の教育機関として、最高の医師および研究者を育成することにあると思います」
「そうだろう。その目的にあるものが、それを逸脱して何になる」
「しかし、先生も御承知の通り、この仕事は誰かがやらねばならぬ重要なことだと思います」
「それは分かっている。それには膨大な金が掛り、文部省からの研究予算位では、どうにもならないことは、君だって、よく分かっているだろう」
「はい、それだけにその筋へも強く働きかけようと思って居ります。この問題に関する知識の普及に力を汲ぎ、帝国大学として、そうした事業を実践することが必要なのではないでしょうか」
「しかし、自分達の使命を逸脱してはいかんね。」
「先生に何度も御報告申し上げているように、このことは欧米の如く国家事業として、やらめばなりません」
「当り前だ。一個人の財力や善意だけでできる仕事ではない。君も知ってのとうり、柏倉も、ああやって、弧軍奮闘しているが、それがどんなに大変か見ればわかるだろう」
「私も先だって見てまいりましたが、全く大変だと思います。よくやるなと思いました。彼は昼間はほとんど病院に居るのですから、あの奥さんの仕事は大層なことです。もと教員の経験があるらしいが、女一人で、よくあんなに、と感心しました」
「これを暖かく見つめて育ててやるのが、我々の役目なんじゃないだろうか」
「しかし、あれではクリュペルスクールであってハイムではありません。教育ばかりじゃなく、治療と職業教育まで一貫したものでなければ、ならないと思うんですが」
「それでからこそ、我々が助けてやらねば、ならないと思うのかだな。新しく種を蒔くより、例え一粒の貧しい芽であっても、それを大事に育てていく方が難しい」
次には第二として
『全ての教育機関に整形外科講座を』
と書かれてあった。その件については、田代博士も異存なかった。間もなく整形外科講座は、東京の他に京都・九州ばかりでなく名古屋に次いで、慶応はじめ私立の医科大学や医専に開かれる。それらの殆どの初代教授は田代博士の弟子であり、また高木の兄弟弟子だったことはいうまでもない。しかし最後の第三の
『日本整形外科学会の創立』
については、博士は真っ向から反対する。
「君はまったく才に走り過ぎる。整形外科は外科学会の一分科会で十分じゃないか。落ちついて整形外科の基盤を固めてからで少しも遅くない」
佐籐外科教授も同じ意見だったらしい。しかし医学部長の入沢内科教授は
「やってみるさ。しくじっても、またやればいいじゃないか」
と高木を鼓舞した。
今日も高木は田代博士の冷たい眼を意識した。年が明けた二月である。田代博士の温顔は誰にでも定評がある。恰幅の良い体躯からこぼれ出る印象は、短かく刈り上げたゴマ塩頭に闊達で高邁さを思わす。博士自身でも思う。なぜ高木の顔を見ると素直に賛成してやれなかったのか。もう教授の地位を彼に譲った以上、別にとやかく言う必要はないし、まして彼を考えれば、さすがは高木だと思わずにはいられない。それでいて、いざ高木の言葉を聞くと反対してきたくなるのは何故だろうか。自分でも年寄故に、僻んでいると思われてはと思うのだが。もちろん今学期中には教授室も明けてやらねばと思っている。
肢節不完児福利会(日本肢体不自由児協会前身)の会長就任は、田代博士は真っ向から拒絶した。教授の地位を去って二ヶ月になるかならないかの時期である。博士にすれば教授としての、教室内での地歩も定まらないうちに、こうした外部への働きかけをしていく高木の出すぎた態度が気に入らなかった。間を取り持つ入沢博士もいささか困惑ぎみだった。
「田代の頑固も困ったものだ。普段は特別どうといったこともない男だが、事が高木の話となるとどうもいかん」
入沢博士も田代博士と同時に、停年を迎え退職している。
「仕方がない、俺が顧問になってやるよ。内科医の俺では不満かもしれないがね」
もう一人の賛成者、憲法学者の上杉慎吉博士は
「高木、お前が会長になれば良いじゃないか。構うことない、お前だって帝国大学教授だろう。誰に遠慮することもあるまい。もし会長という事が否なら、年が若いから会司とでも呼んだらいいじゃないか」
高木のこの会設立の趣意は、「隠すなかれ」運動にあった。仏教の影響なのか、昔しから不具とか片輪は因果応報のごとく考えられ、両親が我が子を衆目に触れるのを極端に嫌う高木は職務上しばしばこうした事例を数多く見てきた。こんなことでどうなることかと思う。家庭内にとじ込めておいたのでは、歩ける足も足も委縮して用を為さなくなるし、場合によっては座敷き牢の中に一生を終わるわるかもしれぬ不運な子供たちも居る事を知っていた。このような迷信同様の過った態度を打ち破る為にはと、若い高木がある一つの情熱を燃やし続けていた。入沢博士は彼の心情を十分理解して呉れた。
「第一回の会場には、私の家を使いたまえ」
博士はそこまで高木を支持してくれた。実際は当日入沢博士の自宅で都合がつかなくなり、会場を急に変更して高木自身の家で発会式をあげている。大正一四年の二月九日のことだった。来場者の多くは、東大整形外科に過去もしくは現在通院したことのある、肢体不自由児の父兄だったが、主として母親が多かった。続いて四月には第二回の例会が東大病院内で開かれた。障害は治療によって回復が望まれるのだから、社会の理解を深める為には、不自由児をいたずらに隠すべきでないとの運動の主旨は、しかし、容易に発展していかなかった。皮肉にも、この運動に最も消極的であったのはそうした子供達の母親自身であった。またその時代の世間の風は冷た過ぎ、高木らの息吹も母親達にまでは届かなかった。
同じ時期、高木は日本整形外科学会設立という、東大教授として学術上の大仕事に取り組んだ。ここでも最大の難関は田代博士だった。田代博士対高木の人間関係は、恩師対愛弟子、それには違いないのではあったが。
高木の学生時代、卒業末期だが親類の一人が階段から落ちて脱臼し、彼は頼まれて田代のもとへ付き添って行く。まだ卒業後の指針も定まっていなかった。しかし整形外科などという、当時まだ海のものとも、山のものともつかぬ診料科目など、全く選ぶ意志が無かったことだけは、確かでだった。
田代博士は学生の高木に患者の容態や治療法を懇切に説明してくれた。当時の整形外科教室は御大の田代博士が堂々たる体躯の持ち主なら、医局員も有段者揃い猛者揃いである。
「それでは先生、整形外科というのは柔道でも出来ないと、とても出来ない診療科目なんですね」
なる程、その頃の整復術は相当の体力を必要とし、若い高木は田代の前でズバリと言ってのけた。整形外科の講座試験も昨年済ませていたし、相手が教授の田代であろうと鋭利な高木には何も憶するものが無かったのである。博士はジロリと黙ってにらみつけただけだった。
高木がただひとり、田代の教授室に呼ばれたのはそれから三日後だった。教授室は全てが四角四面の固い感じがした。日頃は温顔の田代博士も、この室で人に合うときは四角四面の気持で合うのだということで、置いてある調度も四角に作られていていた。心なしか、田代の顔までも四角ばって見える。学生の高木が教授に何を言われるのかとますます固くなって座っていた。
「高木君、君は来年卒業だろう。卒業したら整形外科に残れよ」
意外なやさしい言葉に高木は戸惑った。
「いや、とても僕なんかその任ではありません。体力の方も目方(体重)は、たった十一貫三百(約四十四キロ)しかありませんし」
「これからの整形外科は、人間の力にばかり頼っていてはいけない。力が使えないような人間が来れば、力を使わずにすむ方法を考えるのではないかな」
この田代の言葉に、若い高木は感蹟をゆすったのも無理はない。今まで全く考えてもみなかった診療科目だが、翌年の卒業後、高木は整形外科教室の助手となった。同じ師事するなら、田代博士のようなの教授のもとで、と思ったのだろう。
或いは彼の写真道楽と云う興味がそこに向かわせたのかも知れない。恵まれた医家の嫡男に生を承けた高木、その当時は趣味と呼ぶよりも道楽と呼ばれる程の経済的余裕が無ければ道に落ちられない。
高木が肢節不完児福利会(日本肢体不自由児協会前身)の設立に意欲を燃やした第二の理由は整形外科医療知識の普及と教育にあった。
まだ彼が医局に入って間もなくの頃、或いは矢の如き光陰、二とせや三とせの歳月は瞬く間もなく過ぎ去っていた頃なのかも知れない。高木が助手室の外、廊下へ出た途端、彼にすれば一生忘れられない程の異様な光景を目にしたのだった。かなりの紋付羽織の紳士、地方からとは思われるが相当の身成だった。息子と思われる五.六才の男の子を前に手を取り号泣している姿だった。
「知らなんだ、知らなんだ。何も百円なんだの金、借金など、する気になれば訳ないものを、ただあまり気が進まぬままに三年置いてしまったがために」
男の子は父親の異様な姿態に戸惑い気味でなすところも知らぬ形だった。
「どうされたのですか」
高木が思わず尋ねてみると、不惑に達したかまだ三十路の坂を登りつつあるのか、まだ号泣続けている。彼は白衣姿の若い高木にまで手を取らんばかりだった。
「先生、何とかのならんのですか。たとえ手術に三百金積んだとしても、治せるものなら治してやりたい。一生ちんばで送らせるなど、それも父親としての私の不注意がために」
だんだんと高木には異様な情景の結末がつかめるようになってきた。右手方の外来診察室から今し方出て来たのも気配で分かる。
「借金するなは、親父からの家憲だったのです」
先天性股関節脱臼、これは厳密には先天性と呼べるものばかりではないかもしれない。単に出産時の衝撃で股関節が半ば外れかけたに過ぎないのだ。昔でも熟達した産婆ならおしめを強くするだけで矯正されることを知っていた。矯正は女児の方が男児より容易であることも知られていた。症状が重く手術を必要とする場合でも年齢には極端に左右される。まだ整形外科教室に助手として入り幾ばくも経たない高木の目でも、完全な矯正は難しいだろうと、男の子の左足を引きずり引きずり歩む姿に目をやりながら思った。
「まあいいじゃありませんか。丈夫に子供さんは育ったのですから、これまで大きく育つ前に亡くなられるお子さんも大勢いるのですから」
「でもこの子は一生ちんばと呼ばれて過ごさなければならないのですよ」
たしかにこの子ほどの年齢となれば誕生時には軟骨だった関節も完全な骨質に置き換えられてしまう。正常な歩行は絶望と云うしかない。父親は紋付き羽織のまま床にひたひたと安座をかき慟哭続けるだけだおった。
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