学用患者(2) 


 

震災の後も半年余り、ここのところ大学病院の整形外科病室で扱った患者も、大部分が退院していた。しかし、重症で学用患者にでもしなければ経済的負担にたえられぬと思われるのも何人かいる。
 誰でも地震の時は、家から表へ逃げるべきなのか、それとも家の中、屋内に留まっていた方が安全か考える。咄嗟のこと故、誰もが夢中で熟慮できる筈もないが、東大整形外科で扱った患者につき、その負傷原因を調べたら、次の通りだった。
屋内にて 二一名
外に飛び出したとき 七名
屋内より飛び下りた者 四名
全く屋外にいた者 四名
その他間接的外力 一四名
屋内にいて負傷した例が多いのを見れば、やはり屋外に避げ出すのが安全なのだろう。しかし、屋外に出ても、レンガの塀や露路内では負傷することが多い。しかし、外に避げる場合にも、よほど機敏にせねば出る刹那に負傷する。また屋外にいても崖崩れや倒貴物のために埋没することがある。外傷の種類では、やはり骨折が一番多く三十六名。脱臼十二名。神経損傷十一名となっている。
津田医師もまだ相変わらず病院へ出勤していた。本来なら論文を書きあげて故郷に帰り開業できたのだろうが、震災もあり、なかなか思うにまかせなかった。田代博士の下谷練塀町の田代病院も完全に瓦解していた。今日は松蔵はめずらしく本郷の本院へと出掛けて行った。その当時は東大の構内もあちこちと損傷が目出っていたが、もうすっかり修復されて外部からでは見わけがつかぬ程になっていた。
 医局で久し振りに津田に顔を合わせる。助手の高木が昨年暮,ドイツ留学から帰って以来、医局の中には何か華やいだ空気が流れていた。行きかう看護婦の顔にも
「学園の方は如何がです。順調にやっていますか」
「おかげ様で、このところ生徒が増え過ぎて妻がふうふう言っていますよ」
「あなたも掛け持ちじゃあ大変でしょう」
「ええ、そうかといって病院の方をきっぱり止めてしまうわけにはいかないんでね」
「それも分かります」
助手の高木が七月には助教授に任じられていた。
「田代先生は今日もお留守らしいですね。今日は大学にお見えになる日だと思って出掛けてきたのですが」
「田代先生も大変ですよ。今年の暮は停年だし、田代病院は焼けて再建しなければならないし、三井病院の方もいろいろと難かしい事があってね」
三井病院とは三井財閥の手によって建てられた慈善病院で、田代博士がその院長となっていた。
「田代先生が今年一杯で停年だとしると、どなたがここの教授になるのですか。高木先生ですか」
「まあ、順当にいけばそうなるところでしょう。けれど噂では、田代先生は教授会で神中先生を強く押してるって話ですよ」
「まさか」
松蔵は打ち消してみたがそんな噂も全く根のないことではない。高木と神中では高木の方が先輩には違いないが、卒業は神中の方が一年早い大正三年である。高木は途中三年程、体を壊して留年していた。
温厚な田代博士には高木の溢れる才気と緻密な零細さに、どこか肌の合わぬところがあるらしかった。博士は初代軍医総監、田代基徳の二代目とはいえ養子である。生家は足利在の名主の家とでも百姓に違いない。体躯も逞しく、多少の力仕事にも充分耐えられる体力を持っていた。この頃の整形外科医は皆体格のしっかりした者が多かった。整復術には担当の力を要し、柔道の段位さえ持つものもいた。
それに比べれば、高木は都会育ちである。その家は代々の相当な旗本で、父の佐金吾も東京では評判の開業医で、その屋敷も池の端仲町と本郷の彌生町に二つもあったようだった。一高の入学祝いに写真機を(プロの写真家が使う大型の黒い布を被って写す本式の物らしい)買ってもらえる高木である。
 一方、田代は大学予備門の学費にもこと欠き、田代の家に書生同様に住み込んでいる。伝説だが高木はランゲの整形外科学教科書を丸々全て暗記していたと云う。そうした高木の才気を田代博士も買っていたには違いないが、内心では朴訥な神中を押していたのも本当かも知れない。
  最新テクノロジー、エックス線をものしたのも高木であった。高木も神中も、同じ年、大正十一年に博士論文を提出している。高木の論文は
「骨盤エックス線影像の研究」その頃としては相当金の掛かったものだった。これに対し神中の論文は「麻痺筋の人工的ノイロチザチオンに関する知見」と題するもので、どちらかと言えば生理学の地味な研究であった。留学も神中は翌年の大正十二年にならなければ欧米へは出掛けていない。
結局、教授会では最後まで高木と神中、それに後で慶応に行った前田の三人に絞られていたらしい。こうした医局内の噂を反映して、高木の後輩の浜田は三、四人で田代博士の様子を探りに行った。
「君達がそんな事を心配する必要は無いんだ。教授会は公平なものだから、黙って成り行きを見ていれば宣しい」
浜田は博士にたしなめられて帰って来ている。局内がなんとなく落ち付かなかった。もちろん、一介のマッサージ師に過ぎない松蔵には、後任教授の人事なぞ全く関わりのないことに違いなかった。
 確しかに今は慈父とも仰ぐ田代博士が大学教授の現職を去られるのは淋しいし、また現在、ようやく軌道に乗りかけたばかりの事業にとって、まだそれが海のものとも山のものとも判然としない時だけに、心もとない気が残っていた。出来得れば後は教授となる人もその事業により多くの理解と援助をさし延べて貰える人になって欲しいと思うのも当然だった。
松蔵は重い教授室の扉を軽く叩いた。
「柏倉ですが、、、、」
「よう。柏倉か。入り給え」
中から異外な程元気で張のある博士の声が響いて来る。人事問題や二つの病院の復興など。時が時だけに明るい田代の様子に松蔵はほっとした。
「どうだね。高円寺の方は。大分、片付いたかね」
「どうやら恰好だけは何とか付いたように思います。でも、昼間は妻(サイ)が一人でこつこつとやって居りますだけなので、、、」
「いやあ、吾輩を見に行こう。見に行こうとは思っておるのだが、、、練塀町の方も三井の方もなかなか片付かなくてね。地震の時には君にも大分、世話になったが」
「とんでもない。何も出来なくて。それより先生。お忙しいとは分かっているのですが、高円寺の方、一度だけ見に来て戴きたいのです」
「分っとる。分っとる。よし。今月中に何とか暇を見付けて行こう。高円寺の方。浅田さんの別荘と云うから、少しは見ばよく、学校らしくなったかね」
「はあ、それは、立派な洋館ですし、巣鴨の借家とは全く違います。しかし、何しろ子供等が使いますので、、、。痛めはしなやかと、、、」
「いやあ、何も君がそんなこと気にすることない。先方だって始めから分かって居ることじゃ」
「はあ」
と松蔵はうなずく。
「それよりも、、、、」
田代博士は気げんよく
「悟輩。今年一ぱいで停年じゃ。大学を辞めたら吾輩、さっそく市会に出ようと思っとる。何の為に君、東京市会に立とうと思っとるのが分かるかね。吾輩、別に政治などやりたいとは思わん。
 しかし、この近代社会に盲や聾唖の学校ばかりじゃなくて、クリュッペルの為の学校を立てさせにゃあいかんと思ってる。君もこの偉大な仕事を始めてみて、いろいろ気付いただろうとは思うが、どうしても一迎んの力で成し得るものではない」
「、、、、」
松蔵は大きくうなずく。松蔵もその事業を延ばせば延ばす程しみじみ限界を一層強く感じて来た。
「不具病疾者とは云え、国の大事な力なのじゃ。公の力でやらねばならん。まず最初にそれを東京市にやらせようと思っとる。柏倉、君も今は確かにいろいろ苦しいもつらいこともあるだろう。しかし何とかがんばってくれ。吾輩も働くよ。そして何とか形がついたら、柏学園を市に移官して、君にその時は校長になって貰うからね」
校長と云う言葉は松蔵にとって青天の璧暦だった。師範時代から一介の体操教師に過ぎぬ。帝大はおろか高等師範も出ていない自分が校長になれるとは、一度も思ったことはないすが、どんな形の学校であれ、博士から公立校長学校の言葉のように響いた。
「いや、私など、、、とても、、その任では、、、」
 口龍る松蔵の顔はいくらか紅調して見えた。博士眼差しは慈眼溢れるものだった。同じ愛弟子とは言え、才気ほとばしる高木助教授に接する時の厳しさはなかった。やはりまで土の香の抜け切らぬ松蔵の人となりを、博士は高木とは別の形で好ましく愛していたのだろう。
「高円寺へ移ってから大分、生徒が増えたと云うじゃないか。奥さんも一人で何から何までやるのでは大変だな」
 よそ事のように博士は云っていたが、その生徒たちの大分は大学病院なり、田代病院に博士の名声に、その診寮を受けようと集まった子供たちとその親たちに違いない。開園当初、新聞に出した一片の広告では一名の生徒も集まっていない。博士の温情には松蔵はただただ頭の下がる思いがする。
「妻一人では手が廻り兼ねますので、現在、生徒もご存じの多田の従妹に当たる小女と、私の郷里から連れて参りました女子に手伝わさせておりますが」
「そうそう、そんな事を前に聞いたね。これからは地方からの奇宿生も預らにゃいかん。なかなか結構じゃないか」
「それが今度、多田の身寄りの女子が田舎から嫁にやると云って参りまして、、、、ようやくなれて参りました所ですし、仕事が仕事だけに、おいそれと他にへ頼むわけにもいかず困っております」
「多田を呼んでやれよ。多田を。フイとか云ったけな。まだ、あの娘なら田舎にいるだろう。明るくてなかなかよい娘だよ」
 快刀錬磨の如き博士の鋭い回答、松蔵松蔵はいささか度肝を抜かれた形となる。
「しかし、あの娘は、、、 体自体、虚弱でありますし、それに、、、」
「体かな。体のことなら大丈夫じゃ。吾輩が保証するよ。生長するに従って脊随の方も固まって来る」
「しかし、、、。私が心配しておりますのは不具者が不具者の世話をすると云うことでありまして、、、。特に子供たちへの精神的な影況を心配するのですが」
「何もそんな問題を危具する心配はないと思うね。どんな体の者が接しようと、結局は接する者の心じゃ。いくら身体が丈夫であろうと心がよじれておればやはり駄目じゃ。その点あの娘は体がどうであろうと、心に明るい清いものを持っている。あの娘なら自分より一層、不幸な子供たちを見れば、親身になってその子共たちの世話をするだろう。そうなれば、子供たちにはあの娘の体の小さな欠陥など、全く眼に入らなくなる」
松蔵は田代博士の熱のこもった言葉を一つ一つうなづきながら聞いていた。そして、自分の心の奥に閉まっていた考えと一致して来たのを知り、ほっと安努した。
「よく分かりました。実は私もそうは思ってはおったのですが、やはり心配になる点がございましたので、さっそく多田フイを千葉から呼び寄せることに致します。きっとあの娘も喜んで私共の許へ来て暮れると思います」
「それはいい。しっかりやれよ。吾輩もなるべく早く暇を見付けて、学園へ行くからな」
教授室を拝辞する松蔵の背で、鞭達するように博士の声がぱんぱんと響いていた。



 

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