そんなある日、田代博士の教授室を入沢医学部長が訪れる。入沢と田代は予備門の学生当時から、お神酒徳利とまで言われた仲であった。入沢の居る所に田代あり、田代の居る所に入沢ありと言われていた。晩年、博士が脳溢血で倒れた後も、入沢は月に一度は田代を訪ねて病状を見舞っている。その入沢が突然、田代より一足先に亡くなる。半身付随だったにそんなある日、田代博士の教授室を入沢医学部長が訪れる。入沢と田代は予しろ闘病続けた田代はさすがに気落ちしたらしい。同じ年の内に田代も逝いている。
「君は、後任に神中君を押しているんだという噂だが本当かね」 「いや別に、そういうわけじゃないが、高木は少し才気に走り過ぎる。二代目としてこの整形外科を支えていくには才気ばかりでは収まらないこともあるからね」「しかし、医局の中では高木を押す空気が強いのだろう。上に立つものは、時の機運に逆うことはしてはならんと思うがね」
入沢博士は高木の留学にも尽力している。これより先、高木が肢体不自由児の教育に関して、文部省まで陣情に出掛けたとき、一介の助手に過ぎない彼では何も問題にされなかったと聞いて
「高木君、教育だけでなく、治療と生活まで共にしようというなら文部省だけでは駄目だよ。内務省へも行かなくては」
遂には大正十年三月、入沢博士は高木を内務省まで同道している。入沢は高木を高く買っていた。さすがに役人に対しても、東京帝国大学医学部長の肩書きはものを言う。内務官僚の中でも相当な人が、高木の話を熱心に聞いた。実は高木自身もこの人物が誰であったのかさっぱり分かっていない。
本人もそのことが残念だったらしく後年になってもよくその事を口にしていた。とにかくこの人物が、日本で最初に肢体不自由児の養護教育の必要性を認めてくれた高官だったのだろう。高木は、四月の学会を終えるとすぐ再び文部省を訪れた。先月内務省に入沢部長と尋ねた話をすると、
「なるほど、内務省でもそんな風に考えているのですか。それならこちらでも良く考えて、内務省とよく話し合ってみましょう」
との言質を得た。しかし、この話はそれ以上には発展しなかった。翌年の五月には高木はドイツ留学の途に出ている。
もちろん高木は留学先の第一次大戦に敗戦直後のドイツで積極的に肢体不自由児の教育療育施設たる『クリュッペルハイム』を参観している。中でもベルリンのダーレムやミュンヘン郊外ハルラヒングのイサール渓谷、ハィデルベルヒのネッカァ河畔などにそびゆる壮大な建物と完備した設備には驚異の目を見張った。当時の日本は戦勝国である。敗戦国ドイツはインフレの圧力に苦しみ、朝夕にも物価が高騰する時代で最後には紙幣に天文学的数字まで印刷せねばならぬ時代でもあった。逆に外貨を持つ戦勝国などの旅行者には途轍もなく有利となり、この時代の日本人ドイツ留学者にとっても誘惑が多く、まともな勉学を続けられた者は居ないとさえ、極言されている程だった。
そんな時代であってもドイツでは一九二〇年に肢体不自由児救護の法律が発布されており、その四年後にはドイツ全ての州に同様の法律が施行されていた。恐らく単独法としてはアメリカにも先立つ世界最初のものだっただろう。
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