第2部 愛の学園
 学用患者(1) 


 

学園が高円寺に移っても、松蔵は相変わらず大学病院に通い続けていた。巣鴨に住んでいた頃と違って、ちょっと歩いて通勤というわけにはいかぬ。どうしても省線に乗って新宿へ出ねばなにない。
 それにしても近頃では新宿駅の混雑のしようは大変なものになっていた。周辺に媚集する人の群もおびただしい。震災後、東京の寝床は、西へ西へと伸びていく。それらの場所の一つに住んでいる松蔵自身が驚くほど急速だった。
消滅した下町の復興も予相外だった。地震後は誰もがあんなに危検な場所に住む者はないと思われ、また自分達も絶対、逃げ出そうと考えていたに違いない。
 しかし時間と共に余震もおさまり劫火も完全に消えてみると、いつしか瓦暦(がれき)の山のなった古巣に戻ってみるしかない。ある者は行く方の知れぬ家族を求め、又ある者はせめて残った家財の一つでも堀り出そうとする。
 それがやがて焼けぼっくりを集め堀立小屋になり、バラックになってみるみるその数を増していく。人間がもつ動物の帰巣性なのだろうか、と松蔵は思った。
長い渡り廊下を通って、外科病棟の入口にかかると、松蔵の心はふと変わった。今までのコンクリートの冷たく固い感触が、松蔵の上穿きを通して弾力あるリズム感を与える。
 病棟の廊下は板の角はすっかりすり減って丸味おび。節のあとが深く抜けて、そこにいた穴を空けている。塗り変えられた壁の漆喰(シックイ)の白さだけが目立って見えた。
看護婦がひとり、松蔵に頭を下げた。見慣れぬ顔だった。看護婦の方から松蔵に頭を下げられることは、まずなかった。たとえ白衣は着ていても、松蔵と同じ年恰好の医師なら、さしずめ助教授かも分らない。しかし他科の看護婦でも、松蔵の存在が何であるかを皆よく知っていた。
「失礼ですが、マッサージの・・・・」
松蔵は、やはりと思った。
「ここは整形外科の病棟ですから、マッサージの方がいらっしゃると思いまして・・」
その看護婦の右の目尻に一つほくろがある。いくらか緊張気味の頬をほぐしていた。二十才前だろう。別にとり分けてどうと言う顔でないが、乙女の若さは光る。松蔵はまだ正看になって間もないなと思った。
「私は分院の勤務でここの人間ではないけれど、マッサージの方をやっているから、その方の事なら、大たいわかりますのよ」
 優しい松蔵の答えに看護婦はほっとしたらしくその顔を見上げた。
「マッサージの方で片輪の子供たちを集めて学校をやっていらっしゃる方を、、よくお名前を存じ上げないのですが、、、」
心を伺う真剣な目差しに松蔵は「おや」と思った。
「それは私の事なのですが、そんなこと、どこで聞いたの」
「やっぱり、始めからそうではないかと思っていましたが、、、。お年頃から云って前は学校の先生をなさっていたと伺っていますい。お噂は大分前から外科勤務の友達から聞いています」
若い看護婦仲間でも、噂して貰えていたのかと思うと、松蔵は満更でもない気がした。
「なかなかなのですが、、、」
「そちらに、おフイさんがお世話になっているそうですが、久しぶりに一度会いたいな、と思いまして、、、」
「おフイさん、、、」
松蔵はいぶかし気に首をかしげる。
「多田フイさん。学用患者だった、、」
「ああ、多田ですね。多田ですね。多田なら学園には居りません。今、学園で手伝って貰っているのは多田の従妹に当たるカツと云う女です」
若い看護婦の顔に軽い失望の影が差した。
それにしても、なぜこの看護婦が多田のことを知っているのか不思議に思った。学園設立当時の古い話のように思う。
「どうして君は多田を知っているの」
「おフイさんが入院していた時分、講習所へ遊びに来ていましたもの」
講習所には当然のことながら、大学病院内の看護婦講習所のことである。その当時でも若い娘が正規の看護婦となる為には、日本赤十字の学校なり、病院の講習所へ入って二年の修了期間を終え、一年の見習期間を過ぎなければならない。他には検定試験を受けるしかないだろう。
講習所さえ無論、病院内の枠役に従事するが、宿舎は全く別である。確かに、その当時多田とは、小学校を出て間もない同じ年頃だったと思うが、松蔵内心「不具な娘にしては社交性が強い女だな」と驚ろきもした。
多田フイは千葉の香取から父に連れられてやって来た。大正十年も暮に近い頃だった。取入も済ませ、大饗祭も終わった香取神宮の深い森を右手に眺めながら、田の畔を父のししくれた指先を握りしめつつ歩いていった。
「東京サ行く。東京サ行って、大学病院サいく。そして、、、必ず、、、」
フイは心の中で、不安と期待の入り交じった流れにまかせながら呼び続けていた。すっかり苅取られた水も抜かれた稲穂の上を筑波おろしが吹き無さんで行く。幼ない娘の手をつかんだ父の気持も同じだった。
「せめて、せめて、、、。この娘(こ)を嫁サにやれる体に、、、」
片輪の子ほどと云うが父親の娘に対する不憫さは増していた。そしてその胸中深くには秋の収穫代金の大部が納められていた。
もちろん、その時の父娘には整形外科の言葉すら知らない。香取の村医者は云うまでもないが隣町の佐原の病院でも、全く聞いたことのない言葉だった。例えそれが伊能忠敬と云う日本の夜明けを開いた大科学者を育て先進的な卷土地桶の池であったとしても。
フイは生まれながらに虚弱だった。両親も祖父母を含めた周園の家族たちさえ、フイの生育を危ぶんだ。それでもどうやら、あと一、二年で学校と云う年頃になって未だ両親が娘の体に並の子供と違っているのを気付き始めたのはその頃だった。
 始めは単に猫背位に考えていたものが、次第に口小言で「背を延ばして」位では済まないことが分り始めた。小学校に入って一・二年すると
「あそこんちの娘はせむし」
と噂かれているのが両親(オヤ)の耳にもはっきり聞こえて来る。さてこそとは思わぬではないが、そこは田舎。
「せめて学校サを出たなら東京サへ連れて行って」
 と、思う間に歳月は流れる。
フイが小学校も一年に進学した頃から、泣かずに家に帰って来る日は一日もなかった。せまい地域社会の中で、他人の振りだけが単調な生活リズムに変調を乞える唯一の鼓動である。
 子供の社会でも同じで、他人の身体欠陥を嘲笑することが、一番簡単に自分の優越を誇示することが早道となる。とりわけ日頃から学業に優れを取らざるを得ない男の子の一群からは、彼等の劣等を補うために、毎日その生にえに選ばれた。
「いじめられて学校へ行かない日が多かったんだろう」
田代博士から見たフイは、目がくりりと大きく丸顔で、浅黒い肌に髪も決して豊かとは云えなかったが、少女らしい可愛さは充分感じられた。そして目の底には外果を窮ういききした生気があり、こうした不具者にありがちなめぽっい暗さは全くなかった。
「そんなことはありませんよ。わし、毎日、学校サ行ってましたよ」
真顔になって博士を見上げるようにフイは抵抗する。がっしりした体格の博士に較べれば、円背のフイの背大はようやく博士の乳下に達っしない。しかし、その身長は極端な奇形と呼ぶ程のものではなかった。
「ハ、ハ、ハ、ハ。本当にそうだったのかな」
豪快に博士は笑って背後の医局員たちを見返した。
「まあいい、しばらくは病院にいなさい。自分でも一生懸命、努力して矯正運動を続ければ、脊筋もまっすぐ延びるようになるから」
フイは学用患者に指定された。恐らく脊随疾患の原因を調査研究中だった博士は高原病でもカリエスでなかった症状に興味を持たれただろう。
 学用患者とは大学病院で医学研究のために入院費及び治療費一切を免除された患者のことである。もちろん学用患者に指定されるには難病と云うべき特別な疾病を持つ者に限られたが、唯一契約書を書かされる際、遺体は解剖に供せられることとの条文は患者にとっても家族にとっても相当な抵抗となったことだろう。
 しかし健康保険制度の全くない当時としては、そうした患者達は慈善病院に入るか、大学病院の学用患者にならない限り、長期の入院治療を続けることは難しい。せめて東京の大先生の診療を受けるだけでもと考えていた父親は小程度で娘が療養できることに安心して千葉へと帰って行った。
しかし、間もなく十五才の花恥ずかしい少女としては、一生忘れらせないショックな出来事が起こった。上半身を裸らけて横向きに自分の恥部を衆目に露すによい位置に演に立たされたフイはただ夢中で入口の重い大きな部厚いドアをにらめていた。
 フイの背後で教室の正面切って講義を続ける博士のドイツ語交じりの言葉、ついに一語も耳の中に残らなかった。もちろん難解な学術用語が中心であったとしても洒脱な用語を交える講義は博士の得意だった。しかしフイの頭には体内の血液が一度に上ってしまい、何を考えていたのか分からない。
 ただ、高い見上げるような階段教室の底辺で、上から集まる若い男たちの視線をフイの曲がった背は熱い程に感じていた。そして、心の中でこんな思いをするのなら、死にたい、死にたいと呼んでいた。
それはこの年、大正十年の整形外科学の最終講議の日だった。間もなく冬休が始まって病院内も、喧騒な世間とは逆に関散な気分が横溢して来た。整形外科の病棟でもほとんどが生命危険のない患者だけに、大部分の患者が国元へと帰って行く。しかし、なぜかフイだけは帰郷の許可が下りなかった。フイは大いに不満だった。十五才の小娘には、始めて迎える異郷での正月を思うと、淋しさは帰心、矢の如くであった。
フイは正月中、松の内の間、巣鴨の松蔵の自宅までマッサージに通うことを命ぜられていた。当然、暮から正月に掛けて、病院内の治療体制はほとんど休止状態となる。なぜ私だけ田舎へ帰してくれないのだろう。マッサージなんて、これ以上いくらしても、私の体はよくならないのに。きっと田代先生は私を田舎へ帰すと、もう病院へ戻って来ないと、思っているんだろう。
フイはこの間の階段教室での出来事を思うと、恥ずかしさに今でも身の縮む思いがする。再びあのような思いをする位なら、確かに、また上京して来る勇気を持てるかどうか、自分でも分からなかった。
明けて大正十一年、正月の二日、フイは始めて看護婦から渡された地図を頼りに、大学病院から白山を抜けて、巣鴨まで歩いて出掛けて行った。
賄町の通りはもう両側の商店がすっかり店を開いていた。西片町など屋敷町を控え、当時この通りは山之手でも有数の繁華街だった。
 羽子板を抱え、派手な晴着を着飾った娘たちに交わって歩くフイは、自分の銘仙の羽織が氣になってはいたが、軒を連らねた大商店の飾窓に、色鮮かなや、または華美な履物の類に目を奪われて、一時は今の立場も忘れ去る程だった。乗りつけぬ市電に乗るのもつい憶控だった。巣鴨の松蔵宅に着いた時には、もう昼近くなっていた。
マッサージの治療が終わって、トクはフイに餅を焼き、お節料理の残りなど簡単な昼食を出してやる。この時が松蔵夫妻とフイとの最初の出逢いだった。分院勤務の松蔵とは、こうした機会を田代博士が持たせぬ限り、永久に出逢うことはなかったろう。また、この時こそがフイにとっても、その前年、松蔵夫妻によって聞かれた不具の子供たちの学校を知る機会でもあった。
その後もフイは二度程、松蔵の許へ通った。松蔵がフイに学園の雑役を手伝う少女の紹介を依頼したのはこの間だった。それは家の中で奇宿生の面倒から、一切を一人やらねばならぬトクの負担を、少しでも軽くしてやりたいと思えばだった。
「仕事が仕事だろう。私たちも大学の奉給と恩給だけでやっているんだ。十分なことはして上げられないが」
松蔵はそう付け足すのを忘れなかった。
翌月、フイは退院して故郷の香取へ帰った。
そして松蔵の依頼を忘れず父親に伝える。何か非常に重大な使命を負っているいる様に思えていた。義理堅い父親は村中あちこち心当りを廻ったが、余り有利とも思えぬ條件に探しあぐねて、やむなく姪のカツを東京へ送る。カツは三月に高等小学校を卒業したばかりの小娘だった。
 従って翌年の関東大震災の時、巣鴨の学園で留守をしていたのは、カツと青森から預かったリットル氏病の幼ない三郎の二人だけである。それ故、トクが深川の不動尊から余震と出火に戸惑う群衆をかき分けながら、ようよう巣鴨にりつく二時過ぎまで、相当心細い思いをしたことだろう。松蔵だけは頂度一人、山形へ帰省中だった。病院の休暇を利用し、実家の後藤の家の墓参と養家の母を見舞って居た。従って彼だけは、地震に対する直接の恐怖を知らない。



 

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