養護学校(4)


 

欧州大戦が終わって三年余、全世界の趨勢は、或一つの流れに向かって動き出していた。漁夫の利を得た日本も、好むと好まざるの如何を問わず、この流れの中に巻き込まれざる得ない。ワシントン会議は軍縮の方向に流れ、シベリア撤兵へと動く。国内では水平社が結成され、サンガー夫人が来日し、過激な社会運動を取締る法案が上程される一方、日本共産党が秘密結社として生まれた。
この年、大正十一年、東大整型外科の高木助手はドイツ留学の旅に出ている。ちょうど柏学園の一周年も過ぎた五日六日のことだった。彼はこの渡欧直前の三月に医学博士の学位を授与された。『骨盤エックス線影像の研究』のテーマである。ベルツ博士奨学金を受けて勇躍して出発した。神戸を出航してから実に満二ヶ月かかって、七月三日にベルリンに到着した。八月にはベルリン大学のデブウナア講師の案内で、ダーレムのクレッペルンハイムを見学している。
 日記には
「ビーザルスキー博士はあまりハイムの機稿は語りたがらない。女医さんより小雑誌をうけて帰る。医療と教育の二本立てで職業面には余り手を尽くしているようには見えなかった」
 と記している。この他にも彼は各所のグルュペルハイムを参観しているらしい。後年彼はこの時代の事を次のように述べている。
「欧州大戦後の乏しき資材を色々と工夫して、肢体不自由児の療育に勧そしめる戦敗国ドイツに於けるクリュッペルハイムを参観し、啓発されるところ多大であった。殊に当時、約壱百に垂(なんな)んとする施設が全国に布置されていることと、就中(なかんずく)ベルリンのダーレム、ミュンヘン郊外ハルラヒニグのイサール渓やハイデルベルヒのネッンア河畔にそびゆる壮大な施設と完備せる設備には、驚異の目を奪った。唯肢体不自由児に対する精神的保護のあり方に就いては、多大の疑を抱かざるを得なかった。
それは余りにも「クリュペル」を精神的異常者扱いをしていることである。経営主体が宗教団体であるか都市かによって、勿論幾分の特色的差違は示すけれども、一貫して共通なことは、何れも、患児を精神的に歪める者ときめてかかって、これが矯正と処理にあるいは特殊教育に、余りにも抱泥し過ぎている点が腑に落ちなかった。
彼は翌年の大震災の朝をドイツで聞いている。母国を離れてすでに一年有余、情報の不充分な時代だっただめに、どんなに心配したかと思われるが、一年間の留学を半年延長を命ぜられていたため、母国の土を踏んだのは大正十二年の十二月だった。
松蔵夫妻の大震災は勿論、大塚仲町の借家である。幸い当時は山の手でもあり、家屋には雨漏りする程の損障は受けたが、まだ新学期が始まらず、一人の生徒も登校していない。松蔵は一人、郷里山形に帰省し戻っていなかった。
 その時間丁度、トクは信心の深川不動尊に出掛けていた。お参りを済ませて市電に乗り帰ろうとした、その時である。道路の中央にいたトクも地面に叩きつけられる衝撃を感じた。両側の家がガタガタと家鳴りをたて、揺れ動く様を目撃できた。家々から恐怖に脅えた人々が転げ出るようにして、市電の線路やその敷石の上にヘタヘタと座り込む。トクはふと、昔、田舎で聞いた大地震の話を思い出す。敷石が踊り出して大勢の人が石の下敷になって死んだと言う。トクはその人々の事を心配してみたが、ただ恐怖の人々には何も耳に入らなかった。また大地震の後は必ず火を出すものだとトクは年寄から聞かされていた。一番先に角の天ぷら屋から火が上がる。家の中に居なかっただけに、割合トクは冷静に振舞えた。
やがて不動尊の前の揚げ物屋からパッと火の手が上がるのが見えた。
地震の町をトクは大塚仲町まで歩いて帰る。永代橋を渡る時はさすがに恐わかった。現代のような鉄製のりっぱな物ではないだけに、ためらいながら渡った。余震でなお揺れ動く橋の上をヨタヨタと欄干にぶつかりながら歩いた。まだ火がどこにも回っていないだけに、他にはそれ程の恐怖は記憶していない。
 被害が少ないと言え安普請の借家である。トラブルは多い。それを聞いた浅田氏が高円寺にあった別荘の提供を申し出てくれる。すぐ下見に行った松蔵は豪華さに驚き、子供が使用するのですからと辞退したが、浅田氏は構わぬと応じない。十一月には大塚から高円寺へ移転した。洋館建てで庭園には池水もあり、今までの大塚の借家園舎とは比べようもなかった。
震災で災害はまぬがれたものの、古い建物である大塚の借家はそれ以来雨もりがひどくなっていた。ある時なに気なくこのことを話した松蔵に、浅田氏は
「それは困るだろう。高円寺に自分の別館があるから使いなさい」
との言葉を貰った。さっそく松蔵はトクをつれて高円寺に出掛ける。高円寺はいってみれば新開地だった。電車を降りた二人はごたごたとした町並を通り抜ける。やがて変畠へ差しかかる手前に、借家らしい新築がせせこましく軒を並べる中に赤い練瓦の堀が一瞬目についた。敷地は五百坪余り、建坪も七十坪以上あり、さすがに金持の別邸だけに、金の掛った造りである。トクはさすがにためらった。
「子供を扱うんですものね」
松蔵もそうは思ったが、手狭な大塚の借家を思うと、広々とした庭に子供達が遊んでいる様を考えて移転を決心した。
十一月一日(日曜日)晴。いよいよ本日浅田氏所有の家屋に移転す。場は東京府下豊多摩郡杉並村字高円寺百参番地なり。荷物運搬は馬力一台人車二台を要す。出発予定より遅れし為め、夕刻となりて、何ら取り片付けは出来ずに終わる。震災後の物価高騰によりて、荷馬車一台十五円、荷車一台五円なれど、祝儀その他にて多少の出費を要したり。と松蔵は自分の日記に記している。
大正十二年の暮、震災の報に急遽、高木は欧州留学から帰ってきた。翌年七月には助教授に任じられている。この少し前、彼は国家医学雑誌、第四四九号に「クリュッペルハイムについて」を奇稿していた。これは滞独中の施設見学に基いて、ドイツのクリュペルハイムを我が国に最初に紹介した論文であるが、その中で我が国のクリッペル救済事業について次のように述べている。
 「我が国には、いまだクリュペルハイムは見当らず、唯一クリッペルシューレとしては、一九二一年五月一日、小石川区大塚仲町に設立されて柏学園が我邦に於ける実に最初のページを飾る可きものでありまして、同学園は現在府下杉並村高円寺浅田政吉氏寄付の園舎に移転しましたが、前岡山県師範学校教論柏倉松蔵氏夫妻が献身的に不具児の為めに尽くす可く私費設立せしものでありまして、田代教授を顧問に敷て居ります。幸各方面よりこの美拳に応援されますし、特に昨年七月には有栖川宮慰子殿下より金五百円御大腸となり、某他東京府庁及び東京市庁より補助金を受け、漸次隆盛に赴かんと弧弧の声を拳げた計りで有ります。」
高木は最後まで柏学園を「クリュペルハイム」とは見ていない。このことは戦後になって書かれた論文にもはっきり示している。これが彼をして昭和一七年に整肢療護園と建てさせた。ドイツ語のハイムは英語ホームに相当するし、シューレは英語のスクールを意味する。しかし松蔵自身の軽営している施設が「クリュペルハイム」であると信じていて、実際看板にはそのように記していた。彼が取り扱かった生徒の大部分が悩性マヒ児であることを考えれば、たとえ施設内に医療機関がなかったとしても背後には田代病院なり、東大病院等がその役目を補っていたわけであったわけであり、松蔵自身も現代流に言えばPT(理学療法士)の資格を持ったものとみせなくもない。ひれはともかくとして、戦後の一時期実体は柏学園が日本のリハビリテーション史から完全に抹殺された時期があった。昭和二十三年東大を定年退職した高木がそれ以降日本のリハビリテーション界の重鎮として絶大な貢献をする。戦後の松蔵は年も年であり、彼の施設が新しい法律の下では基準に合わなくなったことを嘆きながら、彼の死の数年前に当る昭和三十四年まで経営を続けている。それは、整形外科史の研究者、蒲原宏をして次のように言わしめている。
「私どもの知らないそれ相当の理由があったかもわからないが、医学の歴史に多少とも教養のある人ならば気付くことであるが、国家や公的団体が医療政策や医療社会事業を行なう前駆として、必ず個人の行為が存在するものである。欧米の先進国では、その個人の発想と行為を歴史的に高く評価する。しかし国家権力が国の近代化をすすめてきた日本では、善意の発想と行為も、利用できるときはできるだけ利用するが、その人が在野の人であるときは、公式の場では必ずといってよいほど抹殺され、これを利用したり盗用した官庁や公的機関の業績として、その結果だけが表面にでるような仕組みになっている」

前編終わり


 

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