九月一日、第二学期が始まる。シゲ子は通園ならば良いが、寄宿はいやだと言い出したらしい。それは家庭の都合で、到底、出来難いこととあって、退園して行く。子供を預かる苦労から解かれて、内心、トクは喜んではみたものの、授業する相手がヤスオ一人になってしまい、やはり、シゲ子の退園は淋しかった。
だが九月二十六日には九才のヒロシが入園して来た。この子には特別に復雑な家庭事状があったらしい。後になって分かったことだが、最初から本当に子供を教育するつもりで入れたわけではなく、恐らく、障害児の養育を巡るトラブルから、一時的に利用したに過ぎなかった。
このヒロシも脳性マヒだったようで、入園時には自立することもできなかったが、三ヶ月後にはいくらか歩行も可能になった。食事も初めはひどいもので、まるで野良犬が食い散らした後のように汚して食べたものだが、後には割合きれいに食べられるようになる。ヒロシは子供心にも余程、嬉しかったように見えた。それ故、松蔵夫婦にもよく懐いでくれ、お正月も学園でするのだと楽しみにしていた。
ところが暮になって突然、家の者が何えに来て無理矢理連れて帰ってしまう。ヒロシは実母も居ないような不幸な家庭の子であったので、自分の家でも帰りたくないと言って泣いていた。一度も子育てしないトクは勿論だが、松蔵まで生まれて初めて男泣きして別れる他なかった。
その正月休み、暮れから毎日、本郷の大学病院から田代博士の命で、松蔵の所へマッサージ治療に通って来る若い娘がいた。後年、柏学園の保母として最も松蔵夫妻から信頼された多田フイである。学用患者であったフイが正月、田舎へ帰って、そのまま上京して来なくなることを恐れた田代博士の計らいだった。寄宿生も一人もいない学園で、松蔵は懇切にマッサージを施し体操を教える。トクも家族のように正月を見知らぬ都会で過ごさねばならぬ若い娘を遇した。一月後、退院したフイに松蔵は代用保母の斡旋を依頼する。あちこち探し廻った末、三月にフイは高等小学校を卒業したばかりの従姉妹のカツを推挙して来た。
それから間もなく、ある春の日曜の午後だった。 「柏学園さん、荷物ですよ」 玄関からの声に代用保母のカツが出てみると大きな荷物である。
「柏学園ってこちらですか。ずいぶん探しましたよ。学校だっていうから大きな所だとばかり思って、普通のお家(うち)なんですね」
運送屋はひとりでブツブツ言いながら玄関先に布団包みと大きな行季をひとつ置いた。
「はい、みとめ。これで学校なんですかねえ、ここでは何を教えてるんですか。一体、生徒さんはどこに居るのかな」
運送屋は小娘が相手なので、ひとりで喋りまくっている。カツは何と答えてよいか解らず、ただ黙って府いているだけだった。
「あのう、奥様、荷物が届きましたけど」
トクは長火鉢の引出しからみとめを出して渡した。ガタガタと音を立てて手車が立去って行く音が聞こえた。たぶん今月から入園して来ると言って一週間前に学園を見に来た子供の荷物だろうと思う。午後の運動と治療を後えて、子供達を帰したトクは安堵した気持でカツに手伝わせながら行季を開けた。それにしても子供の行季にしては、ずいぶん大きな行季だと思う。
「こんな大きな行季で送ってきて、もっと小さいのにしてくれれば良いのにね。狭いのに置く所がなくて困ってしまうわね」
「本当に、左様でございますわね、」 これも親心なのだろう、中には、まだ値札が付いたままの下着類がきちんと積み重ねられていた。
「まあ、沢山もってきて」
トクはひとりでつぶやく。ふと、行季の半分から下は同じ様な白い布が何枚も重ねられているのに気付いた。シーツかなと思ってトクは行季の底を探ってみる。シーツにしてはかなりの量である。トクはその一枚を引き出してみた。
「何だろうね」 それを広げてカツに話し掛ける 「何でございましょうね」
気が付くと・巾一尺程の白いさらしが両端がぬい合わされて輪のようになっている。長さは三尺以上ある。 「何かしら」
トクはもう一度首をかしげた。 「奥様、これはおしめじゃありませんか。赤ん坊のにしちゃ、ずいぶん大きなおしめですね」
言われてトクは、ハッと気付いた。子供を生んだことの無いトクには、赤ん坊のおしめを取りかえた経験など、ほとんど持ってない。しかし言われてみれば確かにその通りだった。赤ん坊用に比べれば相当、大型であったが、おしめであることに間違いない。それにしても、その大きな行季の下から半分が、同じ品物で占められていたことには驚かされた。
「今度来る子は、おねしょでもするのかしら」
先日父兄に会った時は何の話も聞いていなかった。脳性マヒで知能も多少は遅れているとの話しだったが、そんな話は全然聞いていなかった。ただ、家が隣県のBだと言うので、とても通学は無理だと思って預ることを承諾したのだった。たまにしくじるだけなら仕方もあるまい。それにしても、おしめの量があまりにも多いのが気になった。
タケシは十二になっていた。七〜八才の頃まで手を取れば幾分歩いたらしいが、今は全く運動させていないため、各関接は錬縮(れんしゅく)している。肩および股関接だけがブラブラしていた。それ故ひとりでは寝起きさえも出来ず、四肢の運動も全く不能に近かった。この脳性マヒの子にトクは何かを学習させように試みたが全く手答えが無かった。言語も不明瞭でよく聞き取れず、家ではほとんど寝かされていたらしい。
それでも一応、学校へ入った以上は、昼間は起こして椅子に座らせ、紙と鉛筆を取ろうと宛がってみたが、よだれを垂して何かギャーギャー言っているのみである。鉛筆も取ろうともしない。トクはタケシの手に鉛筆を持たせ、手を取って丸と三角を描かせてみる。トクが手を取っている間は描くが、手を放すと全く気が無いらしくポロリと鉛筆を落とした。とても算術や読方など、教えようと思うのは無理である。慣れないトクは、これからタケシをどんな風に教育して行くべきか戸惑った。
それでも昼間は良かった。おしめをして寝かして置くと、明朝にはビッショリと濡れていた。昼間も三時間おきくらいに 「シー・・はどう・・」
と絶えず気を配らなければならない。三日目の朝、トクはタケシを起こしに室へ入った。タケシの顔が不快気に歪んでいた。
「さあ、タケシちゃん。朝だから、もう起っき、しましょう」
トクは相手が十二才だと思っても、こんな風では、ついつい幼児語を話すようになる。トクは自分でおかしさを噛み殺した。夜具を捲ったとたん、たまらぬ異臭が鼻を突いた。
「だめねタケシちゃん。朝からおナラなんかしちゃ」
寝間着を広げておしめを取ろうと、トクはタケシの腰に手を入れた。グシャリと異様な感覚にトクは思わず手を引っこめる。右手の指先から掌(てのひら)にかけてベタりと茶色のものが粘り付いていた。こうした経験に乏しいトクは思わず顔色が変わった。左手を延ばしておしめを取ると、もう割合柔らかい物らしく、尻から腰のあたりまでベッタリである。まさか、おしめの取替えだけで済むわけはない。小便も一諸にしたらしくシーツも完全に汚されていた。
今までトクはカツが、私には弟妹がおりましたから慣れてます、と言っておしめの洗濯は引き受けてくれたが、これでは、とても任すわけにいかない。カツにお湯を沸かせて、トクは自分でタケシを抱くとタライの湯でその仕末をすべく縁へ出た。
出勤してゆく松蔵にトクは何も言わなかったが、さすがに病院から帰ったときには泣きごとを言い出した。トクは疳性(かんせい)なたちである。表から帰ってきて玄関に入って来たら、表の塵を全部払わなければ家に上る気がしなかった。室の片隅に塵ひとつ残っていても気になったし廊下もピカピカに光らせなければ気がすまなかった。今日もタケシのおしりの仕末をすると、カツを薬局に走らせて、クレゾールを買ってこさせ、洗面器の水に加えて手を洗った。実を言うと便所に入るのにも着物を着替えて入りたかった程だった。
松蔵は何も言わなかった。なんでこんな仕事を始めたのかと、詰るトクに 「どんな事があっても一旦、引き受けた以上、断るわけにはいかぬ」
と低い調子で答えたのみであった。
松蔵も今朝の現場を見ているだけに、大変な子供を引き受けたものだとは思う。こんな子供を教育して何になるのかと、自問自答もしたくもなる。しかし、それを言えない松蔵は辛かった。
最初の年、大正十年は合計四名の園児が学園の門をくぐった。しかし四名が一時に揃って入園したわけではないから、一人が入園したと思えば一人が退園する。また一人が病気で欠席すれば一人が出席して来るという風で、出席者が皆無のため授業の出来ない日も幾日かあった。仕事が忙しく苦しいよりも、仕事が無くて苦しい法が辛かったと、松蔵は自伝で述べているが、それも当然のことであろう。
だが、第二年目に入ると、合計七名の肢体不自由な子供達が学園の門を叩いた。それ故、皆欠席の日はたった一日だけであったから、トクもその点では張り合いをもって授業を進めることができた。
この頃松蔵は突然、中野の富豪、浅田氏に呼び出され五千円の寄付を受ける。浅田家は昔からの醤油醸造家である。後には住友に吸収されると云え銀行も経営し、時代の変遷はあったにしいも、現在副都心新宿の地主の幾人かは浅田家の係累が占めている筈である。五千円と言う金額は地価が異常に高騰した今日、現代の貨幣価値に直すことは非常に難しい。五百円で、家一軒買う気になれば買えた時代だからである。最初から寄付を集めたいと思ってはいても、金持ちの間を廻り、弁舌爽やか浄財を仰ぐなどと言う芸当は、松蔵の性格からして及びもつかぬことだけに、その喜びは一汐で、特に自分の仕事が世間で認めて貰えたことが一番嬉しかったらしい。
浅田氏は松蔵から学園の様子を詳しく聞いた後 「月謝の二十円はちょっと高過ぎるような気がする」
ちなみに大学の授業料を考えれば、帝大が年間百円、私立である早稲田でも百二十円の時代であった。これに比較しても私立大学授業料の二倍となり、相当の金額となる。浅田氏は大きく息をついた。
「それに、月謝を当にしたんではせっかくの経営も成っていかないだろう。これは生活費に使ってかまわないから、」
金持にしては、理解のある言葉に違いなかった。だが松蔵は父兄からの資金を自分達の生活費にだけは決して使うまいと心に誓っている。そして金額を銀行に予金して利息だけを使って月謝を十円に引き下げた。この月謝は、昭和初期から戦前まで続いた。この他、七月には某宮家から五百円の御下腸金をいただいている。松蔵はこれを記念に上肢の運動のためのリハビリ用具を購入している。
翌年には有り栖川宮家から少額だが下賜される。しかし、これらは元を正せば皆、田代博士の温情ある影からの画策だった。
松蔵夫妻の大震災は勿論、大塚仲町の借家である。幸い当時は山の手でもあり、家屋には雨漏りする程の損障は受けたが、まだ新学期が始まらず、一人の生徒も登校していない。松蔵は一人、郷里山形に帰省していなかった。
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