どんな山にしても、一度は山に登った憶えのある者は誰でもこう考えるだろう。この山に最初に登った人はどんな人かと。現在、自分がふうふうと汗をかき、息を切らせて登りつめているこの山。立派な道がつき、それを辿ればいつかは頂上に達することが出来ると思うが、それでさえこれだけの労苦を強いられているのに、最初に必ずこの山を開いた人がいるのかと思うと、この谷を見付け、その尾根を探し出した先人達の労苦が忍ばれて来る。このピークを登れば頂上は指呼と期待に汗ふき切って登りつめれば頂上はおろか更に一段と高い峰が績き道は迂に下りとなり、谷を迂迴してこれではいつになったら山頂かと、たまらぬ不安となる。どんな道にしても、後で辿れば何でもない事が、パイオニアに取っては一つ一つピークとなって現れ出たに違いない。
六日の授業開始の日には、開園式には出なかった七才の男の子のみで、式に出席した九才の女の子は欠席であった。松蔵は引き続き大学病院へ通院しなければならない。午後、帰宅してから二名の園児のマッサージ治療を続けることにした。従って、実際の子供の面倒は全てトクの手一つに掛かって来ることになる。
ヤスオは生まれた時からの脳性マヒで四肢とも不自由だったが比較的、症状は軽い。不様な歩き方だが何とか歩いていた。母親に連れられ登校して来る。教室は奥の六畳間、開園式の時、取り払った襖は元に戻してある。四畳半は治療室にとって置かねばならなかった。例の折り畳み机の前の籐椅子にヤスオを座らせ、始業の礼から始めた。もちろん起立などと言う動作は最初から無理と分かっているので、座ったままの礼を教えた。小学一年生の国語読本を開かせ、読めそうな感じなので、読ましてみる。
「ハト、マメ、マス・・・・」 「ヤスオちゃんは片仮名が全部読めるのね」 ヤスオは得意そうだった。 「ハイ、先生」
「ああ、そうそう。この学校では私の事を先生と呼ばなくていいのよ。おばさんと呼んで頂戴」
トクの教員生活は長い。別に先生と呼ばれて何の拘りもないが、昨夜、子供達からトクを何と呼ばすべきか議論した。松蔵はオナゴ先生を主張するが、トクは反対する。
「おばさんと呼ばせるのが一番いいと思うわ。ここは普通の学校ではないの。治療もしなければならないし、第一、通って来る子供ばかりでなく、朝昼、親から預かってやらなくては。お母さんと呼ばしてもいいとは思うけど、それでは、あんまり気が牽けてしまう」
四十年後の閉園の日まで、トクは自分の事を子供達におばさんと呼ばせた。
二日後の八日から開園式に出席した九才の女の子が出席してきた。シゲ子と言う名だった。
その子は話しだすと顔をみにくく歪めた。唇も上下が合わないらしい。言葉は最初まったく聞き取れなかった。それでも二日、三日とたつ中、どうやら要求しているのが何なのかおぼろげに理解できるようになる。相手に自分の言葉が分からぬと知ると、じれて歪みは烈しくなり頚まで硬直し醜怪に傾けた。父親と母親には分かるらしく何でも頷いて見せて居た。しかし緊張がやわらぎ、ふと窓辺でも眺める顔には愛らしさが残り、もし健康な子であったら存外、なかなかの器量好しに成長したのではとも思わせた。
もちろん生後、地上に足を付けて歩んだことはない。右も左も足首から捻れて畳の上を這い廻る。どうやら両手だけは使えるらしかった。家が遠いからどうしても通学が無理で寄宿させることになっていた。土曜日の午後には帰らせることにしても、日曜の夜から預らなければならない。トクは始めて見る脳性マヒの子供たちには相当ショックだったらしい。
永年、教員生活を続けてきたトクは、何人かの身障児に接してきた経験があったが、片足が不自由とか片手の指が欠損しているというような子供達ばかりだった。松蔵から新しい事業について同意を求められたとき、トクの頭に描いた生徒はこうした子供達ばかりである。特に岡山時代、四年五年を担任した片足の悪い男の子に対する印象は深い。その当時のトクにどのような理由によるものか全く解からなかったけれど、脊髄性小児マヒ(ポリオ)だったのだろう。片足の太さが極端に違っていた。悪い方の左足はゴボウのように細く、その足を左手で支えるようにして大きく前かがみになりながら、ようやく歩いていた。
教室での勉強は、かなりよく出来たが、いつもオドオドと隅でクラス中の顔色ばかり伺っていた。 実際に悪童連から 「ビッコ、ビッコ」
といじめられているのを何度か目撃した事がある。この時にトクはこうした悪童連をたしなめていたが、おそらく教師であるトクの目の届かぬ場所ではどんなに苦しい思いをしているのかと思うと、トクにだけは良く壊いていた子だけに可愛想でならなかった。それ故トクは松蔵から肢体不自由な子供達の話を聞くたびに、その子の事が頭に浮かんだ。こうした子供達の為なら、子供のいない自分達でもあり、夫の夢を適えさせてやりたいと、考えたトクであった。
しかし実際今日見た脳性マヒの子供は、トクの想像と全く違っていた。四肢も固く強張ばり、言語も不明瞭でよだれを垂らし、物を言うたびに顔面が醜く歪だ。最初に見たときは式の当時であり、父兄も面倒を見ていてくれたことだし、自分も接得に追われて、その子の様子など深く気に止めていなかった。これでも人間の子だろうかと思う。後日、シゲ子の慣れてから眺めるその顔は、なかなか良家の子女らしく整った顔立ちをしていると気付くのだがが、その時、預かった当初はそんな印象は全く持てなかった。
預かってはみたものの、勝手が解からないトクには戸惑うことばかりだった。まず夕食ということになって、シゲ子を膳に何わせる。どうやら自分で食べることはできたが、膳一杯に食粒はこぼすし、汚く食いちらかす様は子供を全く学童以外には育てたことの無いトクには驚きであった。シゲ子は何かと解からぬことを言いだした。よく聞いてみると煮魚は嫌いでお差し身が食べたいという。農村育ちの松蔵夫妻には野菜の煮付けが得意でも、魚貝類、特に生ものには弱い。それでもトクにしてみれば一生懸命だった。田代博士からの紹介の子供達であり、それも二名しか居ない生徒であってみれば、何とか機嫌を取り結びたいと、食事の菜にも気を配るトクだった。
ヤスオは無邪気で言語障害も軽いから、トクの授業にも充分、ついて来られたので、トクも張り合いをもって教えることができた。しかし、シゲ子はトクには全く懐かない。家庭では我が侭一杯に育てられたのであろう。何かと言うとすぐに自分の家の事を引き合いに出してトクを困らせた。さすがのトクもシゲ子には泣かされたらしい。松蔵に
「今日もシゲ子ったら私に、おばさん、この商売、儲かるでしょう、なんて言い出すのよ。小生意気にね。何であんなことを言うのかしら。何でこんな子の為に、こんな仕事を始めたのかと思うと、いやになるわ」
「何だ、その位のことで。親が不敏ばかりで育てたからな。思い通りにいかぬのが不満なのだろう。そんなこと、覚悟の上で、始めた仕事じゃないか」
松蔵は、トクに口ではこう言ってみても頭の上がらぬ思いだった。自分が家に居てやればその苦しみや辛さも半分は自分が負ってやることができるだろう。しかし大学から貰う三十三円の給料は大事なものだった。その頃の女中の給料が八円だった。三十三円あればその給料と食費は充分賄えたのである。どうせ園児二名の月謝だけで経営収支を償えるはずもないから、いく分でも他から稼いでこなければならない。それ故松蔵は、やはり毎日、大学病院への通勤を続けていたのである。
それにしても近所の人達には、松蔵たちの、している仕事は全く理解できなかった。ただの普通の『しもた屋』で、何を仕事にしている人達なのか、理解せよと言うのが、それ自体無理なのであろう。ただ当時で言う不具の子供達が年中、出入りしていることにだけは、好奇な目が、すぐに気が付いていた。
おそらく祈祷師とか、呪術師のように思われていたのも当然だろう。ある日の夕方、数軒先通りの荒物屋のかみさんが二四、五の若い女を連れてやってきた。着物の前はだけ目は血走り、髪は乱れていた。
「このお嬢さんはね、私が昔、上っていたお店(たな)のお嬢さんだけど、男に捨てられてからキツネが付いたようですんで、ここの先生はキツネ落とすのが上手いって聞いたもんだから」
トクが応接に出てみると、かみさんはこんな事を言い出した。 「奥さんからも、よろしく頼んで下さいよ」
ひと目見て、精神病者と解る女の姿にトクは仰天した。松蔵を奥から呼んで来て、かみさんに二人の仕事を理解させるまで、かなりの手間が掛かった。最後に、どこからその事を聞いてきたのかと尋ねる。
「魚屋徳さんがそんなことを言ってたよ。八百屋の源さんも、あの旦那は毎日、大学病院に通っているって」 と松蔵を驚かせた。
七月三十日には第一学期の終業式を行い、一ヶ月の夏休みに入る。松蔵夫婦はホッとした気持で、故郷の清純な空気を吸うため上山に帰省した。
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