学園創設(3)


 

柏学園の名称は、別に深い他意があったわけではなく、柏倉の姓から一字とったものに過ぎない。しか社会状勢は多きく変化しつつあった。第一次世界大戦で大きく延びた日本社会主義は、大きな曲り角にたった。米騒動や労農運動、好景気に拘わらず、低辺の人の生活は高上してはいなかった。為政者達は、対策に苦慮し、大正六年物議をかもした救護課が設けられ、それがわずか二年の内に社会課となり、九年には社会局として、失業救済軍事救護等の事務を司り、現在の厚生省社会局に引きつがれている。社会事業の必要が強く叫ばれ始めたのも、この時代だった。大正九年の暮れ十二月九日に大杉栄、界利彦、山川均らによって社会主義同盟が結成され、翌日十日の創立発会式では解散命令が出されている。明けて大正十年の一月十三日には、社会事業調査会の官制が公布されている。これは現在の民生委員制度が法制化された始まりと言えよう。
 こういった機運の中で、松蔵は着々と準備を進めていた。しかし何をやるにしても、全く手本とするものが無いだけに、雲をつかむような話である。講義に診療、研究指導もあれば、東大教授としての医療行政の会合にも出席せねばならぬ。忙しい田代博士に逢う機会はまれだったし、わずかに津田医師が医学書の中で探してくれたクリュッペルハイムの写真だけが頼りだった。
 まず、教室ということで、黒板、机、椅子なのだが、これを並べると夜寝る場所がなくなってしまう。トクの発案で黒板は三尺四方のものを二枚並べて折畳みとし、子供達の椅子は藤で作らせた。軽くて持ち運びが便利な上に、子供が倒れたときも怪我が少ないし、なによりも利点として、子供達の体に合わせて自由に成作することができたからだった。ひどいマヒで両上肢が全く便えぬ子の為には、口とか場合によっては下肢を使用させて字を書かせる。こんな場合には藤は一番便利なように思われた。
 机を折畳み式にするには大分苦労した。まだ、その時分には折畳みなどという概念が、一般化していない時代であったから、どこの家具屋もなかなか引き受けてくれなかった。すぐ隣りに酸素付け溶接を専門にしている職人が住んでいたので、相談してみると器用な人で、すぐに案を持ってきてくれた。普通の厚板、一枚に鉄棒の折れ曲る脚をつけただけの簡単なものだったが、不要なとき脚を折れば、一枚の板になってしまうので、なかなか便利だった。このようにして昼は教室に、夜は寝室にという様に変化していった。
 それにしても一番困ったのはやはり屋内運動場だった。もちろん、こうした肢体不自由児の為には外科手術やマッサ−ジも重要であるが、それ以上に体操や運動が必要なことは言うまでもない。教室でさえ、やっとの学校で屋内運動場ができるはずもない。松蔵は考えた末、客用のテ−ブルを丸く作り、足の悪い子はそれを座敷の真ん中に置いて伝い歩きをさせ、歩行訓練をさせることにした。丸テ−ブルならば角が無いから安全だろうと、松蔵は考えたのである。
 松蔵の自伝によれば、歩行練習用の平行棒も彼が自分で発案して、この家の狭い庭に取り付けたのが、世界で最初であると述べている。果たして、これが真実かどうか筆者にも解らないが、現代どこのリハビリテ−ション施設にも見られる平行棒を我が国で最初に使用したのは松蔵であったのだろう。もちろん当然のことだが今で言うPT(理学療法)OT(作業療法)のための機械、器具が何ひとつ有ったわけではない。手の悪い子供には手を使うような、言語障害のある子供には発音練習になるような遊具をと、それぞれ松蔵が工夫を凝らした。外出の際には玩具屋をのぞいては、何かよいものはないかと探し回った。
 五月一日の開園式には、各方面に趣意書を配り、五社程の新聞に親指ほどであったが、広告を載せたにもかかわらず、入園希望者はたった一名に過ぎなかった。新聞広告を見て四、五名の人々から規則書送れの頼信があったが、いずれも、小学校卒業したけれど肢体不自由の為、職に就けず、授産所のような施設を探し求めている人々だった。松蔵は日記に
「今回は、初等教育場のみを創設せしも将来不具者の職業専門教育場を設立するの必要を認めり」
 と記している。式場は階下の六畳と三畳の界の襖を取りはらって一続きにし、正面に白と水色の幕を張り、その中央に国旗を二本、赤白の木綿で組み合わせて釣るした。新調したテ−ブルの横にベビ−オルガンを置き、向い合わせに椅子を並べた。出席者は総員八名で、帝大整形外科教室からは田代博士が出席してくれた他は津田医師が参加しただけだった。トクのオルガン演奏で、全員「君が代」を奉唱した後、松蔵は新調のテ−ブルの前に立って教育勅語を奉読した。松蔵にしてみれば、一度はやってみたかったことに違いない。たとえ首を垂れて、謹聴する者が数人に過ぎなかったとしても得意だった。次いで松蔵は挨拶を始めた。それは大体このような要旨である。
「本日ここに開園式を挙げる事を得ましたのは誠に喜びに堪えません。当柏学園は勿論、我が日本帝国にとっても永く記念されるべき事と信じます。これ全く田代先生を始め皆様御援助の賜物と深く感謝致しましたが、御多用中御臨席下さいましてありがとうございました。定員十名を募集致しましたが、只の一名なりと迎えることの出来ましたのは誠に満足に思います。なお募集致しまして、この同一境遇にある子女の為め尽し、甘んじて一生を終わる覚悟でございます。なお進んで識者の覚醒を促し、私どもの精力と資力の続くかぎりを尽し、可憐なる子女の為社会事業に致したい決心でございます。なお一層の鞭達と御後援を仰ぐ次第でございます」
 最後に田代博士が顧問として祝辞を述べる。博士もわざわざフロックコ−トの正装だった。こうした事業の意義を述べ、それに携さわらんとする夫婦二人の前途を激励した。博士も後に自ら私財を投じて、羽田の飛行場近くに「實徳園」というカリエス専門のサナトリウムを開いている。開園当初の入園児二名も全て博士の紹介によるものだった。博士の理解ある助力がなければ、松蔵の事業も始めからおそらく成り立っていなかっただろう。開園式が終わって後、二階八畳で会食をした。雨戸をはずして白布で覆ったのを食卓代りに、トクの手製の赤飯と取り寄せた不味い西洋料理で無事閉会となった。「尚、あまりにも疲労甚しいため、五月六日に始業することとする」と松蔵はその日の日記で結んでいる。



 

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