学園創設(1)


 

松蔵が田代博士に自分の夢を打ち明けたとき、欧米の先進国ではもうすでにやっているよと言われた通り、そうした試みは一八世紀の終わりから欧米では行われていた。特にこうした面ではドイツは一番早い。日本の医学は全てをドイツに学んだだけに、クリュッペルハイムの知識も、全てをそこから出発していた。
 ドイツでは、一八三三年ミュンヘンに創設されたクルツの不具者教療所(クリュペルハイム)をもってその嚆矢とする。一八四四年に、バイエルン侯国の国立施設としては世界で初めてのものである。イギリスの肢体不自由児教育の起原は、ロンドン北西部のメリルボ−ンで、一八五一年女子の職業学校を催けようとする生徒を募集したところ、一名の肢体不自由者が混っていたことに始まる。これが肢体不自由女子の授産ホ−ムにまで発達したのだった。
 一八六三年アメリカではニュ−ヨ−ク市に最初の肢体不自由児教育を行った。これはアメリカ最初の整形外科病院において、その入院児に教育の必要なことを痛感して、院内に設備が設けられたのが始まりである。北欧では、デンマ−クのクヌ−ゼン牧師が有名である。一八七二年コペンハ−ゲンにおいて、たまたまそまつな松葉づえにたよって通りすぎる一少女を路上で見たことから「肢体不自由児援護協会」を結成し、翌年からは救護院の一室を借りて外来診療所を設け、一八七五年には一八才未満の肢体不自由児の為の職業学校を、一八八0年には成人用の学校にまで発展させた。ドイツのクリュッペルハイムも、クヌ−ゼン教師から受けた影響は大きい。
 いずれの国にしても、肢体不自由児の教育は、盲唖に比べればずっと遅れて出発している。障害の軽い児童は普通学校へ通わせれば済むし、学校へ通えぬ程、重度な者は成人しても社会参加が難しいので、教育する意義が少いとする社会通念の現われであろう。また、体が動かせない者であれば、たとえ通常の教育を施さなかったとしても、非行や犯罪に走って世相を悪化させる恐れがない、と考えられているからでもあった。
 我が国でも、一八六六年(慶応二年)福沢諭吉がその著「西洋事情」の中にヨ−ロッパの唖院、盲院、痴院の紹介をしているし、明治五年の学制では『廃人学校も有ルベシ』とその存在を規定しているが、実際に唖児教育を始めたのは明治八年、京都待賢小学校で行なわれたのが最初である。翌年、平野知雄、熊谷実弥が東京に盲人学校を開設した。
 しかし肢体不自由者については、この時代まで何の対策も行われていなかった。わずかに明治三十六年、静岡県富士郡吉原町で、乳児院である富士育児院の渡辺代吉が、一般の孤児院、育児院から収容を拒否された肢体不自由児や精神薄弱児を収容した、との記録が残っている。当時、カメラファンだった高木も、一高入学祝いに父から買ってもらった暗箱写真機をかついで富士を写して歩き回ったとき、吉原で三人の肢体不自由児を見た。後年、彼はこれこそ肢体不自由児を収容した日本最初の施設ではないかと言っている。ただ軍に収容したと云う事が、肢体不自由児として取り扱った事になるかどうか、この点について高木は何も触れていない。 
 津田医師から高木助手の話を聞いて三日後、本郷の本院に出かけた用事のついでに、彼に会って話を聞こうと思った。その頃の整形外科教室は、今よりはずっと南に寄っていて昔の本郷区役所(今はたぶん文京区の本郷支所になっていると思う)のそばの竜岡門を入ってすぐ右側にあった。明治十年以来の建物で、南校・北校と別れていた時代には学生の寄宿舎にしてあったと言うから、相等古いものであったろう。
 松蔵には学士出の若い医局員達は苦手に違いない。それでも整形外科出の医局員達はどちらかと言えば、みな体格のよい方で体操教師の松蔵にも馴染み易かった。しかし、痩せ形で整形外科には珍しい秀才肌の高木助手に、松蔵はどうしても威圧を感せずにはいられなかった。
 語学が全く弱く自信のない松蔵。英語とて、今の中一程度の実力もあったかどうか分からないが、当時の医学に於ける主要外国語だったドイツ語については、自分でも認めている通りに全く駄目と言うしかなく、亀文字の書体でドイツ語だと知る程度だった。それ故、図書室で医療体操の文献を探すにしても写真だけが頼りで、あとは推理が勝負の松蔵だった。
 それに比べれば高木は、その頃教室にはたった一冊しかなく、それも教授室に置かれていたので、田代博士の許可がなければ見るさえかなわぬランゲの教科書を、全て丸暗記していたという伝説の持主だった。七・八百ペ−ジもあろうという大部で、英米でも盛んに使われていた教科書だが欧州大戦の影響で、その頃、日本にはたった一冊しか入っていなかった本である。
 写真道楽だった高木はいつもレントゲン室にこもりがちで、松蔵の存在などは物好きな体操教師の物好きなおじさん位にしか映っていなかったろう。その頃のレントゲン室は、まだ真空管整流が無かったから、入っていくとそのごうごうたる音は外来者を威圧するに充分であった。火花を散らして機械式の整流だったから、今だったら大変な電波障害を起こしただろう。
 先日の田代博士の言葉以来、すっかり興奮ぎみの松蔵は息堰切って高木助手に話しかけた。
 「先生お考えの夢の学園教療所を私が是非やって見たいと思っているのですが。どんなものでしょう。先生のお力を得たいと思いまして」
 だが高木は松蔵の期待に反して冷静そのものだった。
「そんな簡単に出来るものではありません。たとえば手術室や治療設備はどうするんです。大変な金が掛りますよ。とても個人の力でやるような仕事とは思えませんがね」
「いや、とんでもない。私達がやるのですから、子供が無くていくら夫婦で共稼ぎをしたからと言って、教育生活で溜めた小金、といってもたかが知れています」
「到底個人で出来るような仕事ではないと思いますがね」
「ですから、最初はごく小規模に無理をしないで10人前後の子供を集めてやってみたいと思っています」
「でもやる以上は、生半過なことはやらない方が良いと思いますがね。僕も実際向うへ行って見て来たわけじゃないけれど、なかなか立派なものらしいですよ。クリュッペルハイムというのは。病院にも敗けないような医療設備がそろっているらしい」 
「とても借金をする元気もないし、寄付を集めるなんていう真似、私にはとても出来そうにありませんから、小さな一戸建ての借家でも借りて始めてみるしか方法がないのです」
「それで田代先生は何ておっしゃったんです」
「先生は賛成して下さいました。是非やれとおっしゃって、協力して下さるそうです」
 それ以上高木は何も言わなかった。しかしその鋭利な眼差しの奥には「先生も物好きな」という囁きがあったことを松蔵は見て取った。
 高木と松蔵では生れも育ちも全く違う。高木の生れも都会なら、その父もすでに東京では医家として名高かった。片方が原書を丸暗記してしまう程の秀才なら、一方はABCも禄に出来ぬ田舎教師である。同じ事を考えたにしても、見方が全く異るのも無理はない。
 それでも新しい仕事に対して、松蔵はすっかり夢中だった。しかし、田代博士とトク以外に積極的に賛成してくれる人はほとんどいなかった。特に親戚の誰もが真向うから反対した。
「いくら子供がいないと言ったって、教員さえ続けていれば不自由なく暮していけるものを、今さら物好きに、そんな片輪ものの、よその子供を引き取ってみて、何になるんだ」
 これが親類縁者から返ってくる言葉の全てであった。
 だが、松蔵はまず建物探しから始める。幸い、すぐに津田が自分の下宿の近くで二階建ての借屋を一軒見つけてきてくれた。
 小石川区大塚仲町三十六番地十八号(現在の文京区は戦後、小石川、本郷両区が合併した)
 相当古い家だった。道路に面した方は板塀があり、くぐり戸付きの出入口、まあ云わば門を入ると、玄関は間口一間、ガラス張りの格子戸になっている。格子戸の内は土間に続いて三尺程の板敷、さらに障子を開ければ狭い二畳の間。そのわきに三尺の廊下をはさんで六畳、四畳半、それに台所と便所。二階は床の間つきの八畳二室。まだ水道は無く、近所と共同使用の井戸がある。階下の四畳半のわきにあるトタン張りの下を炭や薪の置場にした。縁側の外に六坪程の空地があり、子供達の運動場に使うつもりであった。
 巣鴨宮下町の下宿から実際に松蔵がこの家に入ったのは大正十年四月の初めだった。津田からこの家を紹介されて、契約したのは一月の終わり頃である。最初、田代博士に松蔵が自分の夢を打ち開けたのは、大正九年の秋口だったから、ここに至るまでに半年を経過している。この間、松蔵は柏学園の創立趣意書を作ったり、また入園の為の規則書を作ったりした。


 

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