松蔵はこの頃よく考える。毎日、松蔵の治療ベッドにやって来る多数の四肢不自由な患者達、特に幼い子供達を治療するたびに考える。こうした子供の患者達を治療するには、病院が最も適しているとはしても思えない。学校風に子供達を集めて、授業の合間には治療にもなる遊戯もさせ、学科も教えられれば、治療もできるような場所を作ったらどんなものだろうか。幸い自分は教育者だった。松蔵にはそれが段々に天から与えられた仕事のように思えてきた。ふと、松蔵は教師として若かりし日の、みつとの出逢いを思った。彼女の障害はここに通ってくる患者達に比べれば、同じ片輪でも全く程度が違うと思う。しかしながら、彼女の場合、完全に教育の立場からしめ出されていた。その後の彼女の転落のあり様を知り過ぎているだけに、松蔵の心は暗かった。毎日こうして病院に通ってくる子供達の中で、何人くらいが普通の小学校に通って教育を受けられるのであろうか、万が一受けられたとしても、彼らが学校内で受ける仲間からの侮蔑の類はいかばかりであろうか。松蔵はこうした子供達を何人か、奉職してきた学校で見てきたし、トクからの話でもそんな話を聞いた覚えがある。体の不自由な子供達ばかりを集めて、差別のない理想的な、楽園のような学校を創れないものであろうか。
ちょうど世間は、第一次世界大戦を終わって、大正デモクラシ−の時代に入っていた。労農運動も盛んとなり、一方では新しい文芸運動も起こってきた時代だ。大正九年十月に、キリスト教社会主義者賀川豊彦の自伝小説、「死戦を越えて」が刊行され、大正期最大のベストセラ−となって上・中・下三巻が計六十万部も売れたのもこの頃である。社会事業に代って登場し始めていた。
ある一日、分院へ見回りに来た田代博士は、マッサ−ジ室にも気楽に入ってきていつもの温顔で、話し掛けて来た。
「どうだね、医療体操の研究はうまく行っているかね」
松蔵はこれを潮に、日頃の夢を博士に話すことができた。忙がしい体にもかかわらず、博士は松蔵の話を異常な興味をもって聞いてくれた。
「それは良い事だと思う。もう欧米の文明国ではりっぱにやっていることだ。私も実は、それをやってみたいと日頃から思っていた。お前が本当にやる気があるなら、できる限りの後援をしてやるよ」
その夜の松蔵は異常な興奪に襲われて眠れなかった。しかし、果たして自分に出来るだろうか。まあ医療体操の方はどうやら自分でやれない事はない。遊戯や学科は、トクに教えさせれば良い。トクも十三年も小学校の教師を勤めてきたのだからやってできぬことはあるまい。だが、トクがこの新しい事業に賛成してくれるだろうか。松蔵はそれが一番心配であった。松蔵は、自分自身の性質が、突拍子も無いということを人に言われるばかりでなく、自分自身もよく承知していた。
次の日は日曜だった。朝食を済ませた松蔵は、トクを呼んでおもむろに自分の考えを告げてみた。トクはさすがに初めは驚愕の意を顔に表わしたが、いつもの松蔵の調子を知っているだけに、何の異論も示さなかった。松蔵には何だかもの足らぬ感じさえしてきた。 「失敗したっていいじゃないですか、また二人して、教員にもどればいいのですものね」 トクは氣楽にこんな事を云ってのけたが、松蔵は何が何でも、やり抜かねばと心に決めた。
翌朝、病院に出勤するとすぐに、津田医師にこのことを話した。 「高木さんの持論の『夢の楽園教療所』ですか」
その頃、整形外科教室で、助手だった高木憲次は盛んに、学校と病院の併設された『夢の楽園教療所』の必要性を訴えていた。現在ではまだ「夢」でしかないけれども、将来、治療に長期を要する肢体不自由児が、治療と同時にせめて小学校(尋常・高等)卒業資格を取れるような教育設備を設けた「教療所」が是非ほしい。治療に専念するため教育の機会を失ったり、教育のために治療を断念して一生不治に陥ることさえある子供達を救うにはそれしかない、というものであった。
これは、ドイツの不具者教療所(クリエツペェルンハイム)に範を得たものであるが、高木助手はとりわけ熱心だった。これより先、大正七年の九月に初めて自分の母校であった本郷小学校へ出かけて、全員の整形外科的学童調査を行っている。それから本郷や下谷の区役所を訪ね、手足の不自由な子供の実情を話し、教療所を是非設置してくれるように働きかけた。何回となく足を運んだが関心はゼロに等しかった。東京市役所も訪ねてみたが、同じだった。ついには大正九年の四月には文部省まで出かけていったが、大学の一助手に過ぎない高木の言葉に耳を貸すような進歩的な官僚はまだ居なかった。
高木をここまで追い込んだのは、ひとつの出来事がきっかけとなっている。彼が研究室だけの精進では、進歩しつつある医療の思恵に患者が浴することのできないことを切実に感じたのだった。大正七年三月七日、彼は日付けまでもはっきり銘記している。看護婦が、いかにも当惑した様子で助手席に入ってきた。
「今日は休診日だとお断わりしたんですが、どうしても診てくれとおっしゃって、どうしても帰りません。できればすぐに入院させてくれと聞かないのです」
どうしましょうか、という言葉の終わらぬうちに、勝手にドアを開けて一人の男が、学令前の男の子の手を引いて入ってきた。男は官員風のフロック漢というから、今なら、さしずめきちんと背広を着こなしたサラリ−マンといったタイプであったのだろう。
「一見して、この男の子が先天性股関節脱臼になやんでいることは、跛行の模様にて明確なり。しかして年令は既に七・八才に及ぶべく、しかも男性なり。その予後は最早完璧を期し難い。何故今日迄放置して顧みざりしにや。幼児期にさえ治療すれば簡単に治療せしめ得ると予約することの出来る疾患のうちの一つであるのに…。何事ぞ!とグットくる」 今の今まで診断はもちろんの事、面会も拒絶するつもりでいた高木は、子供を見て、その予後を思うと、義憤の途りついうっかりと声を掛けてしまった。
「今までなぜほっといたんですか」 いくぶん語気が荒かったと思う。
「放っておいたわけでは無いのですが、この子が生後一年前ですでに、この子が先天的股間節脱臼であることは解かっておりました。しかしお金と時間さえかければ完全に治すことができることも知っていました。そこでこの五年間、酒や煙草はもちろんの事、全てを節約してようやく金の都合をつけて、上京してきたものです」
話を聞いているうちに、高木は眼瞼にじんとくるのを覚えた。親心としてまことに同情はするが、どうしようもない現情を話してやる他はない。
「お話を聞けば、親子さんとして放って置いたのでないことだけはよく解ります。生後一年半の、軟骨でできていた関節も六才六ケ月の今では完全な骨覚に置き変えられています。これでは発育力も、順応力もすっかり乏しくなっているから、もちろん整復だけは出来るが、整復しても完全に正常になることはまず難かしい。ようするに手遅れなんですよ」 高木はこう話すより他し方がなかった。それを聞くと、いきなりそのフロック漢はそのまま土間にあぐらをかき、男泣きにむせいだ。
「借金するなと言われた親の遺言に、そむいてでも始く治してやればよかった」
その父性愛から来る慟哭には高木も貰い泣きせずにはいられなかった。もちろん、ここでは経済面の理由が主な理由となっているが、せっかく、最早期診断を受けながら、早期治療の必要を父親に徹底しなかったことが悲劇の根本だった。高木は思う。研究室だけの精進だけではだめで、やはり社会に出て知識の普及をしなければならないことに深く思い至ったのである。
現代でこそ、整形外科の発達は、股関節脱臼でびっこを引き引き特有な足どりで小学校へ通学してくる子供達の姿はほとんど見ることは無い。しかし、何年も前までは必ず一つの小学校に一人か二人のそんな子供達の姿を見かけたものである。筆者自身も、学生時代に身障センタ−で、
「親が無知だったからよ」
と自嘲的に笑っていたまだあどけなさの残った少女の顔が忘れられない。故郷の山河に別れを告げて幾日、そう云われ続けてまた少女は、そう云うと、右肘を引きずり、面接室の重い扉を押して出て行った。
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