病院の玄関を出た松蔵は、左手の方に向って歩き出した。宮下町の下宿へ帰るに右へ向って正門の方へ抜ける方が早いとは思ったが、まだ四時前とは言えすっかり薄闇に包まれたこんもり繁った森影が気になったからである。東京に来て一週間、大学に通い始めてからもう五月目になるが、田舎育ちの松蔵には何と言っても緑は懐しかった。
一月も半ば近く、落葉の木々は赤く夕燒けに映えた空に、くっきりと梢を浮き上がらさせ裸の小枝を寒風に吹晒されていた。定緑の木々はあせていく緑を少しでも保とうと、小枝毎にその肉厚な葉を寄りそわせて寒風に堪えていた。だらだらと下ると深遠な池にでた。松蔵は思わず「ほう」と呟やく。加賀前田百万石の旧範邦時代には典形的な池水廻遊式の庭園で、その当時は普通に心字池と呼ばれていた。
「柏倉さんでしたね」
松蔵はドキリとして振り向いた。年の頃は三十二〜三か、自分よりも十才は若いだろうと思われる背の高い男だった。山高帽を冠り、蝶ネクタイに薄いグレ−の縞の入った三つ揃いのス−ツを着こなした容姿に一分の隙も無く、チョッキのポケットには金のクサリを覗かせていた。瞬間だったが、松蔵は相手が誰であるか思い出せなかった。それでもすぐ三日前、外来病棟がわからなくて看護婦室と間違え、医局に入ってドギマギした松蔵にしっかりと位置を教えてくれた医師のひとりだった、と気が付いた。
白衣を脱いだ出で立ちがハイカラ紳士そのもので、松蔵が相手を見分けるのに何杪かの間があったわけである。看護婦にも何か強い調子で命令していたし、おそらく助教授か、例え若くとも助手ぐらいの位置にある人間だろうと思われる。
「はいそうですが…」 「岡山から見えられたそうですね」 「はぁ、故郷は山形ですが…」
松蔵はこの五日間病院内では誰にも話しかけられたことが無かっただけに、ホッとした気持で答えた。廊下を行きかう看護婦も、忙がし気につんとすまして、松蔵に一瞥だに与えなかったし、医局にたむろしている若い医師たちも、タバコをふかしながら声高に談笑する言葉にはドイツ語の単語が多く、松蔵には横で聞いていても三分の一ほどの意味しか理解できなかった。全く、今までの自分とは隔絶した社会に飛び込んでしまったように思え、悔いを感じていた。
「体操の先生だそうですね」 「は、師範の教師をしていました」 「学校の方はやめてこられたのですか」
「一応休職ということになっていますが」
「その年で研究室に入られるのは大変でしょう。申し遅れましたが、私は津田と申します」 「津田先生はここの教室の助教授か何かでいらっしゃるんですか」
ひどく気真面目な調子で問いかけてくる松蔵の言葉に、津田はびっくりしたように身をたじろがせたが、やがて快括に笑って打ち消すと、
「いやあ、僕なんか無給の医局員ですよ。それも帝大出ならいいんですけれどね、医専ですからね」 いくらか自嘲めに答えた。
「皆さんお医者様は皆帝大出じゃないんですか」
松蔵はいかにも以外なことを聞いたように問い返した。今まで白衣をなびかせて颯爽と歩いて行く医師たちの姿を全く別世間の人間としか思えなかっただけに、こんな言葉が出て来たのである。
「いやぁ、帝大出なんていくらも居ませんよ、とにかく、籍を置かせてもらって、論文を書かせてもらわないと開業できませんからね」
津田は、その頃の医師には珍らしく、あけっぱなしで零落に笑った。 「お医者様になるのも大変なもんですね」
世の中はどんな仕事でも実際自分がやってみれば、傍で見るほど楽なものではないと思う。
「あなたこそ、物好きにこんな所へ入って、これからどうなさるお積りなんですか」
松蔵にもそういう質問が一番つらい。岡山でも校長に言われたし、同僚たちから数限りなく浴せられた言葉だった。自分でもはっきりとはしていない事柄だけに、よけいに辛かった。おそらく、子供でも居たならば、こんな馬鹿げたことはいくらしたくともできなかっただろうと思う。いくら恩給が着くようになったからとは言え、子供が居たのでは何の足しにもならなかったはずである。無言の松蔵に津田は話題を変えるように話しかけた。 「ここが漱石の『三四郎』で有名な池ですよ。美弥子じゃなくて私で申しわけなかったけれど…」
「ここが…、成る程そうだったんですか」
二人は並んで池の周囲を歩いて赤門の方へと向った。冬の日差しはすっかり落ちて、赤門の形はすっぽりと暗に溶けていた。
松蔵が急に東京へ行くと言い出したときには、さすがのトクもびっくりした。それは、松蔵の若い頃山形の片田舎で急に上京して勉学したいと父親を困らせて家出した時と良く似ていた。トクにしてみれば、四年に渡る長の療養生活から完全に離れて、元の小学校へ復職したばかりである。あまりに身勝手過ぎる、とトクは思った。しかし、一旦こうと思ったら意地にも意志を変えない松蔵であることは、トクは百も承知している。数々の不安がトクの胸をよぎったが、あきらめるより仕方ないと、彼女は卒直に思った。トクが宮下町の借屋に落ち着いたのは、節分も真近の二月の初めだった。せめて、三月まで勤めていと思ってはいたが、やはり松蔵のことが気になって校長に無理を頼んで上京して来たのである。しかし、トクの顔を見た松蔵は、相変わらずたいして嬉しそうな顔もしなかった。 「三月の終わりまで岡山にいればよかったじゃないか」
覚悟の上とはいえ、不気嫌につぶやく松蔵の態度に軽い失望を覚えながらトクはこう言った。 「あなたをひとりで置いておくと心配ですものね」
皮肉とも嘲笑ともつかぬ言葉に、松蔵はまさかとは思ったが、みつのことが気になった。それでも顔はむっつりと 「つまらないことを言うのじゃない」
と押し止めた。巣鴨の宮下町の借屋は、現代の山ノ手線の内側である。しかし当時の巣鴨は東京市内ではなく、府下巣鴨町と呼ばれていた。一時間おきに、北と南を結ぶ荷物列車が長く汽笛の音を響かせて通ってゆくのがすぐそばに聞こえた。
大学病院に通い始めてみて、さすがに松蔵は後悔せざるを得なかった。自分でも早まり過ぎたような気がしてきた。大学の教授になるような人物は中に入ってみれば所詮雲の上の存在に近かった。確かに最初の日、助手の高丈に連れられて、紹介状を持って教授室に挨拶に入っていった時には、田代博士は温顔な笑をうかべて松蔵を激励してくれたが、それ以来、教授室に入る機会は全く無い。週に一遍、医長回診で会う田代博士は、十数人の医師や看護婦を従えた王者のごとき存在であり、とうてい松蔵などに近づく余地を与えなかった。図書室に入って、それらしき文献を探してみようにも、語学の全くできなかった松蔵には、無すべきすべを知らなかった。ただ、それらしき本を開げて行くうちに、何枚から写真が、それらしき物を写し出しているのを見て取った。
無給のまま、週に三回ほど大学病院のマッサ−ジの見習いを続けていた松蔵は、大正八年七月になると、正式に東京帝国大学医学部雇い、の辞令が出た。月給は一五円だった。松蔵の師範時代の月給は四二円であったから、約三分の一である。そして、大塚の分院勤務を命じられていた。それ以後松蔵は、完全なマッサ−ジ師として、病院勤務を続けた。本郷の本院には足の向くことが少かった。しかしそこでも、松蔵は師範の体操教師時代と同じような苦汁をなめた。
患者はどうしても、医者の言うことは聞いてもマッサ−ジ師の言うことは聞いてくれない。特に整形外科の看者は、マッサ−ジとか、現代で言う理学療法治療は絶対必要なはずなのに、医者の診断は受けても、その次の理学療法は何かと理由をつけて何かと敬遠したがる看者は多かった。それでも、大人の看者はまだある程度納得させることができたが、子供の場合が多かった。母親が付いて来ているわけではあるが、馬鹿可愛がりをするので、なかなか協力してくれない。今日も、三、四才の男の子が松蔵のマッサ−ジ室に入ってきた。
「いい子だからね、先生が終わったらお菓子を買ってあげるからね」
まだ三十前と思われる若い母親は、おぶいヒモを解くと、小児マヒの男の子を松蔵のベッドにやっと寝かした。正常な右足に比べて、左足は極端に細い。松蔵は腰部から始めようと軽く手をかけた。
「あかあちゃん、痛いよう」 子供は泣き始める。マヒした左足の腰部に痛い所などあるはずがない。
「坊や強いんだろ、大きくなったら兵隊さんになるんじゃないか」 起き上がろうとする左肩をおさえつけると子供は一層、火のついたように、泣き出した。
「痛いよう、痛いよう」 母親はオロオロするばかりである。松蔵は母親に、
「どこも痛いとこなんかあるはずありませんよ」とぶっきら棒に言うが、母親にはそれが気に入らない。 「いい子だからガマンしてね」
しかし、泣き叫ぶ声は激しくなる一方である。松蔵と母親のコミュニケ−ションは完全に切り離されていた。なおも子供の肩を押し着けてマッサ−ジを続けようとする松蔵の手を、若い母親は振り切るようにして子供を抱くと、「もう結構ですから」と逃げるようにして室を出て行った。松蔵はたまらない気持だった。体操教師の時代にも、これに似た感情は何度か味わったことがある。やり切れない気持と言うのであろうか、本当に母親は我が子が可愛いいと思っているかしらと疑問に思う。この部屋に入ってくる以上、いか程かの料金は支払ってきたはずである。それはともかくとして、結局松蔵にはほとんど一指も触れさせずに帰ってしまった。
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