東大医局(2)


 

松蔵がマッサ−ジ師の資格をとれるようになったのは大正七年の九月である。校長の葛山に資格を取ることを勧められて受験したのだったが、さすがに岡山県で受験することだけは恥かしかったらしい。なにせ現職の師範教師が按摩術甲種試験を受けるのだから、無理もない。松蔵は海を越えて徳島まで出掛けて行ける。別に教師だからと言って合格証書を持っていたから何の妨げになるというものでもない。
 しかし十一月になっていざ本物の合格証書が徳島から送られてくると、何か松蔵は落ち着かなかった。マッサ−ジだけが医療体操の全てではないと思われたし、よりむしろ、医療体操それ自体の本質を知りたいという願望はつのるばかりだった。葛山に相談すると
「やはり学問と云うかそう云う新しいことは東京へ行くしか方法はありませんね。東京と言えば帝大でしょうね。それ以上はお医者様に聞くよりか方法は無いんじゃないですか」 
松蔵は東京と聞くと、自分の母校の体操学校を考えては見たが、やはり医者と聞くと帝大が自分の新たな目標となることを理解できた。
「どんなお医者さんに聞けば解かるのですか」
「整形外科の先生でしょうね。岡山の医大には外科はあってもそんな学科はありませんし、東京の他は京都と九州の帝大くらいでしょう」
 整形外科。それは松蔵にとって耳馴れない全く新しい言葉だった。 
「整形外科と言うのはどんな病人を扱うのですか」
「同じ外科でも必ずしも切ったり縫ったりしないらしいですね。私も詳しいことはよく解かりませんが…」
「私みたいな、医者でも教師ものが研究のために入れてもらえるでしょうか」
「普通ではまず無理でしょうね。でも貴方の場合、按摩術の免許を持っているんだから、ことによったら治療師として、医局に入れてもらえる可能性があるかも分かりません。運動してみたら如何ですか」
 その夜から松蔵はさっそく新しい試みに熱中し始めていた。履歴書を添えて自分の希望を書き述べた手紙を東京帝大整形外科教室に書き送った。一二月の初め、整形外科教室から簡単な反信が届いた。当分は無給嘱託で良ければ、研究許可の辞命を発することができると書かれてあった。
 翌朝、その文書を手にした松蔵は勇躍して校長室の戸を叩いた。東大からの手紙を見せて突然休職を願い出た松蔵を、校長は訝かし気な気持ち面差しで眺めていた。
「今さら急に教師をやめて何になるんだい。まさかその年でいくら勉強しても医者になれるわけじゃあるまい」。
 変わり者の松蔵であることはよく知っていた校長ではあったけれど、
「一応、二、三年休職させていただいて、研究がすみ次第、もう一度教師の仕事に戻りたいと思っています」
「それもいいだろう。しかしまたこの学校というわけにもいかないよ」
「それは覚悟しています」
「第一ここには無給と書いてあるじゃないか。いくら子供がない君とは言え、奥さんだけに働かせてどうするのかね」
「その点はいくらか、夫婦で共稼ぎした蓄えもありますし、まもなく恩給もつくと存じますから」
 松蔵の一本気な性格を知り過ぎていた校長は、彼を特別に奉給を一級上げて即日、休職の辞令を出してくれた。十二日十三日付けである。そして二十日にはもうすでに東京へ行き、東京帝国大学の門をくぐっている。しかし最初に整形外科教室に入ったときは、いままでそうした経験が全く無かっただけに相当戸惑っているらしく、自伝でこんな風に述べている。
「同じ教室でも中学や師範の教室とはまるで勝手が違います。医者と看護婦が居るのは当然ですが、その他にも小使いや雑役婦や何をするのかちょっと見ただけで見当のつかない人が択山いるのは弱りました。ちょっと見て変っているのは陸軍の制服を着ている人間の居ることでした。おそらく軍医だったのでしょう」
 その時の東大整型外科の創始者、田代義徳博士であった。博士は多年のドイツ留学から帰朝されると露戦役の負傷者の治療に当られた後、東京帝国大学医学部教授となり、初めて整型外科の講座を開設された。京大での松田道治博士、九大での佳田正雄博士に先立つこと数年である。
 博士は元治元年、(一八六四年)栃木県の足利市の郊外に生まれ、明治十年大学講備門、即ち、今の東大に入られている。養父、田代基徳は初代の軍医總監で、緒方 庵に学んだ人であり親子二代にわたり、我口、近代医学の父とでも云うべき、医学界の功労者であったとは意味深い。明治三十三年、東大助教授だった田代義徳は文部省の囲学留学生として、海外渡航を命ぜられる。そして、ベルリン大学ではウォルフ教授に、ハンブルグ大学ではウンナ教授に、それぞれ皮膚科学を学び、ついでフライブルヒ大学のチ−グレル教授とハイデルベブルヒ大学ではウルビウス教授に整形外科学を学んだ。特にウルビウス教授には腱移植術を学んでいる。そして最后にウルツブルヒ大学のホツフア教授からは、整形外科マッサ−ジ術を学んだ。外科と云えば、その頃外傷の治僚ばかりと考えられがちだった時代に、云わば按摩とでも云うべきマッサ−ジ術を大学教授が来られた意義は甚だ深いものがある。
 整形外科の整の字は「束」え、支え而正え(これを束ね、これを支えしてこうしてこれを正す)と云い、多くの働きを現わす。矯正というよりも、学科の内容を踏まえている。 創始期、矯正外科とすべしとの論もかなりあったらしい。本来は一七四一年、フランス人アンドリ−がくる病の子供の脚を真っすぐに治すことによって、オルトベヂイ(整形外科)という言葉を使用したのが最初と云われている。古くはギリシャのヒポクラテスの著書の中にも、脊椎彎曲、内飜足、脱臼等の文字が出ているが、完全に独立してそう古い歴史は持ち得ない。


 

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