結婚へ(4)


 

「左膝を屈げ-、足を前にだせ-」
 全員が膝を屈して片足を前に出す運動に移った。学校体操教授要綱の徒手体操である。これは明治四十四年、文部省がそれまでの軍部との対立から結論の出なかった学校体操を、明治四十二年に永井道明が帰朝するのを待って作成したものである。これによって学校体操は完全にスウェ-デン体操一本と化した。
「出せ-ッ」
 一斉に片足を前に出す
「もとへ-ッ」
 松蔵の、低いが通った声が広い校庭に響いた。スウェ-デン体操は軍隊と関係が深い。ドイツや英国に普及していったのも軍隊によってである。当時の軍隊が要求する、集団を劃一的に秩序だてて動作させることにマッチしていたからだった。それも、指揮者の号令一つで成し得ることが、在来の模倣を中心とした体操に比べて魅了したのだろう。
「踵を揚げ、……あげッ」
 一方ではスウェ-デン体操は、生理学的、解剖学的立場から考えられていた。従って大正年間から昭和の初期まで、学校体操の全てがこの体操一本で実施されていた。
「全員集合-ッ。整列」
 若い胡蝶たちの群は、一斉に蜜を求めるかのように散って集まる。洗晒しの白シャツに白ズボン。右手に持った号笛を え、左手は中空を差していた。
「前えっ習え」
 若いすんなりした指が、前の生徒の肩先に触れる。どの顔も若さで輝いていた。ふと松蔵は、みつの不具の指を思った。あれ以来彼女には全く会っていないし、どんな生活を続けているのかと気にはなる。足が決して中島町の方には向かないわけではないが、いざとなると途中で止まってしまう。同僚と付き合い酒を飲んだ後など、実際あの煙草屋の店先まで足を運んだことはあるが、どうしてもあの階段を乗る気にはなれなかった。トクの病気も快方に向かって自宅の中だけではあるが、そろそろ起き出して家事などを手掛けるようになった。
 来年の四月には、学校に復職したいと言っており、その可能性も充分あるように思う。しかし、彼にとっては毎日の仕事は必ずしも充実したものではなかった。スウェ-デン体操の普及に情熱を燃した若き日の事が夢のように思い出される。例え師範では体操教育が必習とは言え、学業に優秀な生徒からは、疎んじられる傾向が強かった。今日も校庭左隅の銀杏の木立ちの下では、三人程突っ立って何かしゃべっているのが耳についた。松蔵は疳に触ってつかつかと木立ちの方へ向って歩き出した。
「おしゃべりしちゃいかん。見学なら見学でも良いが、皆と一諸にやるつもりで、一生懸命見てなければいかん。」
 三人の中でも松崎有子は子のクラスでは成績も一番であり、級長も続けていて、他の教師達からの評判もすこぶる良い。
「おい松崎、お前はじこが悪いんだ」
「貧血ぎみなものですから」
 有子は平然として答えた。血色もなかなか良かった。
「ずいぶん良い顔色をしているじゃないか。見学ばかりしていると落第するぞ」
「はい先生、見学だけしていれば及第点はいただけるはずですよ」
 逆に彼女は開き直った。松蔵は小生意気な女だと思う。他の学科は全て優秀な成績である彼女にとって、体操ぐらいはどうでも良いという表情が顔にありありと現われていた。
松蔵はこうしたタイプの女はどうしても好きになれない。
 松蔵は体の虚弱な生徒こそ体操をやるべきだと思う。現に自分も虚弱だったからこそ体操をやるべきだと思って体操学校へ入学した。しかし、世間は逆である。体の弱い者達はどうしても、自分の体を動かすことを敬遠しがちだ。こうした生徒たちにこそ、相応しい体操があるべきだと松蔵は常日頃から考え続けていた。
 また、松蔵は思う。体操教師について思う。体操の教師はいつになっても体操の教師である。朝礼のとき全生徒に号令を掛ける機械のようなもので、職員会議にはいつも末席だし、他の教師達から小使いに毛の生えたような存在にしか見られていない。教頭にも校長にもなれる可能性は絶無だった。それはそれで良いと思う。しかし自分のしている仕事に皆が(他の教師や生徒達を含めて)その意義をもっと認めてくれても良いと思う。しかし、体操と言うと誰でも侮りを表情に表わした。たまに体操の得意な生徒が出てくれば、決まって学科に不得意な生徒達だった。
 もっとも、その時分の体操は現代のスポ-ツという概念からはだいぶ掛け離れていた。このような考え方は、一部は松蔵の教師としての劣等感から来ていたが、大正の初期には一般的に言ってもこんな考え方は底流にあったことは否めない。松蔵が医療体操ということばに興味を向けはじめたのはその頃であった。
 医療体操の歴史は古い。ギリシャ人達が、胴体の体操や身体を柔らかくするための運動、音楽に合わせて体を動かす舞踏体操とか、唖鈴体操のようなものを行ったことはよく知られている。ギリシャ時代の後期、アテナイでは医療体操が考えられ、食事、休養、運動の効果についての記録が残っている。スウェ-デン体操では、その出発から体操では、その出発から体操の内容を教育体操、兵式体操、医療体操、芸術体操の四部門に別けることを考えた。実際には、最後の芸術体操は具体的に実施されなかったが。医療体操は不均衡な発育発達を矯正することを目的としている。
 松蔵は具体的には医療体操というのがどのようなもので、実際にはどんな方法で、どのような患者に実施されるものか全く解らなかったらしい。ただ、自分が職業としている体操教師の仕事が、いやいや顔でついてくる生徒達に教えることのみでなく、自分を必要としている何か別の領域があることを漠然ではあったが感じたのだった。医療体操にについては、明治四十年版高島平三郎の「体操及遊戯法精義」に紹介されている。松蔵自身はこの本を実際に読んだのかどうか不明であるが、この本の中でその運動と方法について、肺結核、胃病、必臓病等の個々の病疾に応じたものを述べている。そして最後には神経症や月経不順の療法についで、マヒ筋の療法についても書かれている。
 当然のことながら、医療体操には能動的運動と受動的運動との二つが考えられた。第一の能動的運動とは、患者自身が自分の体を自から動かす運動であり、屈、伸、回転などの各運動がこれに属する。第二の受動的運動は患者の体を他者が動かす運動で、この中には圧迫、摩擦、振動、打撃などが含まれ、この運動が現代のスポ-ツマッサ-ジの原理になったと言われている。
 松蔵は医療体操というものがマッサ-ジに近いものではないかと考えたのも当然だろう。前々からマッサ-ジという言葉はあちこちで聞かれてはいたが、松蔵自身西洋の按摩ぐらいにしか考えていなかった。しかしよく考えてみると、これもあるいは医療体操に似ているかもしれないという風に考えるようになってきた。
 偶然のことながら、松蔵の後年に心の支柱となった田代博士もドイツ留学中にマッサ-ジ法を習はれている。これは偶然と云うより、整形外科の始祖としては、当然のことなのかも知れないが、軍医総監の養子でエリ-ト東大助教授が按摩を習うと云うのは、当時としても、やはり画期的なことだったに違いなかった。


 

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