結婚へ(3)


 

「光春さん、お客様。よろしくお願いしますね」                
六畳ほどの小部屋に、招じ入れた りて婆は愛想よく笑って障子を閉めかける。
「何か、お酒か でもお持ちしましょうか」                  中は
派手な花柄の布団が一枚、安普請ながら小粋なつくりで鏡台の前の大型な赤い座布団に部屋着の若い女がひとり、襟足を大きく見せて座っていた。女は後を振り向く。ぎょっとした風だったが松蔵には何も解からなかった。
「いらっしゃい。初会さんね」                      
 松蔵は、どこかで見た顔だと思った。目鼻立ちの整ったその顔に見覚えがある。左手を袖に隠し女は立ち上ってきた。
「なかなか良い男っぷりじゃない。今晩は泊っていってくれるんでしょ。ちょいの間なんていやよ」
 艶やかに笑ってみせる女に松蔵は も考えがえ続けた。二十三、四にはなっているだろう。若作りしていても、特殊な商売を続けてきた女の年輪は隠し切れなかった。ふと何かに気付いた松蔵は女の左手の袂を覗き込むようにして顔色を変えた。
「先生でしょ。解っちゃった。八代先生もちょいちょい見えるのよ。安心してゆっくり遊んでいらっしゃい」
 女はゆるりと、何もかも全てを落げだしたごとく左手を袂から出した。小さく萎えた手には三本の指しか無かった。みつである。もう十年は達っていたと思われるが、昔しのあどけさが残っていた。
「あの時は随分、先生に御迷惑をかけたらしいわね。この間、八代先生に初めて聞かされ解ったのだけど。今日は先生に来ていただいて、本当にうれしいわ」
 松蔵は返答にこまった。何と答えてよいか解からぬまま、『何でこんな処に居るのだ』とどなりつけたい気持ちになる。今までの酔いも一時に覚めた感じだった。
「先生のおっしゃりたいことは良く解かるわ。だけど私だって、何も好き好んでこんなお商売を続けてるわけじゃないわ」
 松蔵もそうだろうとは思う。大きくうなづくだけで、次の句が継げなかった。ちょうど仲居が酒肴を持って入ってきた。
「今晩はお泊まりですか」
 松蔵は大きくうなずいて言った。
「いつからこんなことをしているんだ」
「もう五年にもなるかしら」
 一旦、みつはここで言葉を切ったが、帰らぬ内にもう續けていた。
「私みたいな女、こんなお商売をするしか他に何ができると言うの」
 女は松蔵のふいの出現が非常な負担であるらしかった。しかし今は野となれ山となれの気持ちにしかなれなかった。
「あれから随分あちこちと奉公に行きました。子守りになったり、下働きの女中になったり。でも長い所で三月、早いと三日で暇を出されました。手のことを始めから言って使ってもらった場合もあるし、隠して使ってもらった事もあるけれど、どちらにしても同じことでした。」
  黙って聞くしか松蔵には方法がない。
「あらいやだ。先生、一杯召し上がらない。うっかりしちゃってすいません」
 みつは左手で器用に膳を引き寄せると右手でチョコを手渡して酌をした。
「君もどうだい」
「あらいただくわ、十年ぶりで先生にお会いしたんですもの。今夜はジャンジャン飲みますよ」
 松蔵はみつに差し返しながら、見まいとすればする程、その左手に視線のゆく自分を感じた。
「五年前に母が病気になりまして。母の手ひとつのお針の賃仕事では、体をこわしてしまったんですね。私もどうにもならなくなって、入院させようにも、芸者屋じゃ買ってくれないし、女郎にしたって中島町あたりでは片輪の女郎なんか誰も見向いてくれません。それでも世の中にはもの好きな男もいて、こんな曖昧宿でも世話してくれた人がいたものですから。本当に前借りできたあの時はよかったなと思いました。母も入院させられましたものね」
「で、お母さんはどうでした」
「三日も持ったかしら、肺病の第三期じゃあね、後には何も残りません。残ったのは前借金だけですものね。それもかせぎが悪けりゃ増えていく一方ですし値」
「君も随分苦労したんだな」
「あ~らいけない。すっかり、いやなグチばかり、話しちゃって、先生早く、お床に入りましょう」
 みつは立ち上がって扱きを解きかけた。
「おい、待ってくれ。今日はそんなことどうでも良いんだ。君の話をひと晩聞いて飲み明かしたいんだ」
 松蔵はびっくりして中立ちしてみつの手を押し止めた。左手が触れる、冷い感触が後に残った。
「そんなことおっしゃったって、お商売はお商売ですもの。寝ていってくださらなければ、私が困ります」
「そんなことはどうでも良いんだ、まあいいから、そこへ座りなさい」
 松蔵の厳しい調子にみつは再び腰を落とした。
「初めは随分悲しい事が多かった。手のことを隠し通そうと苦労したけれど、やっぱり一番辛かったのは指を見られたとたん、客の態度がガラリと変って『おれは片輪者なんか買いに来た憶えはない』と階下にどなり込んで行かれたときの悲しさ、客と抱え主との間に入って身の置き所がないと言うのは、ああいう事なんでしょうね。後から抱え主からお前の心が足りないからと、キセルの火で肌を焼かれたりして随分つらい思いをしました。
 いつしか松蔵の左手はみつの中にあった。さすがにその左手は派手な  黄の袂の中に隠され、そっと松蔵の手の甲をなでていた。彼はなされるがままに、彼女の温もりを感じた。
「どうせ女郎になるなら、女郎になり切ろうと決心しました。だって仕方ありませんものね。そうしなければ借金は増えていく一方だし、どんな客でもいいからひと晩何人でも回しでとって随分稼いだんです。男って、変な趣味があるもんだから、隠さずにいると、かえって気楽に寄ってくるものね。どうせなら、巾着女郎とか、みみず千匹とか、言われるようにと努力したんです。それが良いか悪いか解からないけれど、今じゃカニ女郎と言われて少しは名前が通っているんですよ」
 みつは荒んだ調子でこうまで言い切った。 
「そんな馬鹿なこと言うものじゃない。もっと人間らしく大事に生きなくちゃいかん」
 松蔵はきっぱりと言い放ったものの、自信が無かった。
「じゃあ先生、私どう生きればいいんですか。他にどんな生き方が…学校にも入れてもらえなかった私が…」
「………」
「そんな事より早く先生、寝て下さい。寝ましょうよ。私、先生と寝られると思うとうれしいんです」
「も、もういい」
 松蔵は立ち上がった。みつは驚いて待つ蔵を押し止めた。
「先生、待って下さい。先生に行かれると私・・・・怒られてしまいます。お願いですから」
 松蔵は金を出すのももどかしく財布ごとつかんで置くと、寄り縋るみつの体を振り切るように階段を駆け下り、タバコ屋の表に飛び出した。松蔵は夢中で歩く。十年前の若き日の出来事がまざまざと思い起こされる。
「体操教師のくせに」
 と言った田辺の声が、何ども何度も待つ蔵の耳に鳴り響いた。
 翌朝、腫た眼で登校して来る松蔵を、八代は鷹のような眼差しで待ち構えていた。職員室は半分程しか席がうまっていなかった。
「ヤァ先生、昨夜は良かったでしょう。なかなか味があると評批なんですよ」 
 松蔵は無言だった。八代はそれを恥じていると勝手に解釈して猶も続けた。 
「どうです。あんな娘が教師になったら大変ですね。もっとも、あなたみたいな先生にはいいかも知れないがね」
 八代はずるそうに笑って、意味有り気に松蔵の顔を見た。
「あなたはそれで教育者なんですか」
 キッとなった松蔵は思わず大きな声で叫んだ。教員室中の眼が松蔵に注がれた。


 

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