結婚へ(1)


 山形県でもこの辺の婚礼は典形的な嫁入婚だった。だがこうした婚儀が一般庶民の間にも確立したのは比較的新らしく、明治以後の事である。古くは婚の字はヨバヒと読まれていた通り、男が女の許に通う婚礼で、三日餅として、女の家の親が臥床で餅を供し、わが娘の婿を認めたと云われている。
 二人の祝言は八月も終わりに近くに行なわれることになっていた。東北農村の小学校の新学期は八月二一日から始まる。トクとしては、あまり好都合とも言えなかったが、上ノ山の養家では仕度が進まず黄道吉日を選ぶとなると、その日しか他になかった。
 その日はあまり好天気とは言えなかった。花嫁行列が上ノ山の町中にさしかかった頃、怪しげな雲からついに耐え切れぬようにぽつぽつと落ち始めた。衣装を気使う付人達が花嫁に 笠をさしかけたが、何かの零が裾をぬらした。
 松蔵はこの日に限ってそれ程飲めぬ酒をあおっていた。婿さん婿さんと注がれる酒を全て受けた。自分でも良くこれだけ飲めるものだと自分におかしく自分自身で感心もしていた。ヤケ酒かとも思う。なるようになれ、そんな気持ちだった。
 イクも松蔵の前にやってきて酌をした。三年ぶりのイクの立居には、以前には見られなかった艶やかさがあった。
「どうぞ、妹をよろしくお願いします。ふつつかな者ですが」
 酔いしれていた松蔵は酔眼の内に見るイクの姿を、おそらく二年前の講習会場での、しゃっきりとした女姿とダブらせていることだろう。
「しばらくですね、今はどちらにお住まいですか」
「今は東京に住んでおります」
 先頃タマの口からは米沢の方へ嫁に行ったと聞いたように思う。
「東京の…」
 松蔵がその続きを言おうとするのを相手は巧みに座をはずして、仲人や親戚の長老達が屯ろする席へ移っていった。
「何故嫁に行ってしまったんだ。勝手に行きやがって、馬鹿野郎」
 酔いしれながら松蔵は叫びたいのを必死におさえた。宴もたけなわになるに従って、嬌声も飛び、歌声も荒れるその場の空気から新郎新婦だけが取り残されていくようだった。
やがてそれに気付いた仲人は、二人を別室に誘った。型のごとく一枚の布団に二つの枕が並べられていた。仲人が障子を締めて立ち去って行く足音を聞きながら、松蔵はいかにも大袈娑に深酔の態を示して、室の隅に重ねられた座布団に向った。二枚の座布団を大儀そうに並べるやいなや、ドサリと倒れるように横になった。トクの方には一瞥も与えなかったけれど、夜具の傍でひとりぽつねんと座っているトクの姿を意識しながらそのまま深い眠りに落ちていった。
 渇のため目覚めた松蔵は、傍のトクを見た。トクは布団の中でひとり静かに寝息を立てており、夜着の掻い巻は松蔵の足元にそっと掛けられていた。
 翌晩も宴会は続く。近隣の人達や遠縁に当る親戚が中心だったが、さすがに松蔵は酒の匂いをかぐのもいやになってきていた。その夜は二枚の布団を敷くように命じてあったが何度か目覚めてトクを窺う松蔵であった。翌日の夜行で立たねば、岡山に始業式に間に合うようには帰れない。トクの転勤の手続きを早くするようにと、仲人達から、いろいろと注意をうけたが、松蔵は右から左へと聞き流していた。
 九月の岡山は暑い。その年の残暑は特に厳しかった。トクの転勤については、自分か師範に勤めているだけに、視学や県の学務課にも伝を求めればいくらでも方法はあったはずだが、松蔵は何もしなかった。相変わらず、独身時代と同じようにスウェ−デン体燥の普及に専心していたから、下宿のおかみも休み中に彼が結婚してきたなどとは全く想像もしていなかった。
 十月になると、運動会の準備で松蔵の仕事は一段と忙がしくなっていった。そんなある日、下宿に帰った彼は、好奇心が溢れんばかりのおかみの目に迎えられた。
「お二階にお客さまがみえてますよ。女の方ですよ。たくさん荷物をもって。先生もなかなか隅におけないわね」
 まさかとは思ったがトク以外に、憶えのある女が現われる筈もない。はたして二階に昇った松蔵は、大型のバスケットの傍にしょんぼりと座ったトクの姿を見出した。
「よく来たね。」
 思わずそう言ってから、松蔵は内心しまったと思った。だが今更、取り消すわけにもいかない。
「岡山に転勤になったものですから」
 トクは深々と頭を下げた。
「こんなに早く・・・よく転勤の辞令が出たね。」  
「東京の兄が運動してくれました。勝手に来てしまって申しわけありません」
「いや−……」      
さすがに松蔵はこれ以上とがめる事もできなかった。逆に後めたささえ感じてしまう松蔵であった。
 女ひとりで一千粁の道を旅してきたトクに、その夜、松蔵のいびつな心も折れて、きちんと座ってこの夏の出来事を涙を溜めてわびるトクを思わずだきしめたとき、松蔵は始めて肌の下の女を感じた。その夜、トクは体をちぢ込ませて横になった。リフぞやの夜の如き、満たさぬ不安に対抗するためでもあった。だが松蔵の指はトクの小さなかたい乳房に触れた。トクは一瞬体を強張らした。しかし松蔵の腕が延びるに従って、深い安堵感が流れ、トクの体が除々に弛緩していくと、正臥し率直に股を開いた。
 十月十六日付で、岡山の弘西尋常小学校の訓導に任じられたトクと共にまもなく下宿も引き払って小橋町に狭いながらも一戸建ての玄関付きの家を借りた。その当時、共稼はめずらしい。
「何で岡山まで来て教師を続けようなどと考えたんだ」
 と松蔵に問われたトクは
「もしもおそばにおいていただけなかったら、ひとりで教師をしてでも何とかやって行こうと思って」
 と答えて松蔵をホロリとさせた。
 共稼ぎの朝は忙しい。特に教師の仕事は朝が早いだけに大変だった。松蔵はともかく作ってもらった弁当を持って駆け出せばいいわけだがトクはそうはいかない。後片付けをすませて晩の用意までしていかなくてはならない。そのような気の利く者などいなかった。夕方は上級学校なので松蔵の帰りは早い。小学校のトクはどうしても暗くならなければ帰ってこなかった。いろいろ雑用が待っていたのであろう。小学校の教師は実に扱き使われたものだった。トクは夕食のお菜を煮ればよいようにして鍋に入れていくのが常だった。しかしそれすらも、出来ないことがある。松蔵はただじっと妻の帰りを待つというわけにもいかない。買物に出掛け、男料理人よろしく、野菜なら水洗いして皮をむき、まな板でトントンときざむ。それから火を起こすわけだが、家中を煙りだらけにして七輪に炭をつぎ、うちわでバタバタとあおいだ。生木が燻して目にしみる。だが、お菜が煮えてもトクはまだ帰ってこない。
「あら、すいません。すっかりおそくなってしまって」
 玄関をかけ上って来るトク。
「もうすっかり仕度が出来ているのですか」
「ああ……」
 トクの気の毒そうな、その反面のうれしそうな顔は、松蔵の待つ身の腹立たしさを一瞬にして吹き飛ばしてくれた。

 

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