岡山赴任(4)


 二階の松蔵の部屋から、下宿屋の小さな庭が眺められた。西の隅には五尺ばかりのアジサイがすっかり花をつけている。薄紫の華麗な花は松蔵が好きだった。東北の生家の庭にも、較べれば巨木に近いアジサイがあったが、八月の半ばを過ぎないと、花は咲き揃わなかった。もう赤トンボがスイスイと青空を飛び始める季節である。さすがに岡山は瀬戸内海型季候というのか温暖で、六月というのに梅雨の合い間にはカラリと晴れた日が多かった。アジサイには黒い揚羽の蝶がつがいで大きく羽を揺らして蜜を吸っていた。後赤線の入った派手な雄蝶がゆったりとかまえた地味な雌蝶を誘うように飛び立っていった。
「先生、本当は郷里に奥様おられんさるでしょ」
「いや、何回言ったら解かるんです。まだ、女房なんか持てる年じゃありません」
 若い下宿屋のお内儀は相変らず、陽気だった。ある日曜の昼下がり、休みのこととて部屋でくすぶっていた松蔵に遅れめの昼食の膳を運びながらにぎやかに話しかけたて、だが無口な松蔵にはしにかく面倒な場合が多い。さりとて無愛想な答えもならず、常に内儀の口先にへきえきする松蔵でもあった。                      
「本当に奥さんおられんさるのなら、私がぜひお世話させていただきますで」   
 女房と聞くと松蔵はすぐに、おイクの事が頭にうかぶ。あれ以来、女房というと彼女を自分と並べて考えてしまう。美人だと思う。いかにも利発そうだと思う。いかにも女らしいやさしさが溢れていると思う。あれなら、大勢の男達が嫁にもらいたがるに違いない。ちょっと貧相な自分の養子を考えてみたが、これでも自分は士族である。もっとも一昨年重方に見込まれて養子となったばかりのにわか士族には地がいないが。羽嶋の娘なら平民の娘なのだから、士族の家に嫁入るなら、まずまずの筈だと思う。松蔵は常に、こんな自己中心の自問自答をしていた。それ故、内儀の言葉もよく耳に入らない。
「じゃ、ようござんすね。今度の日曜当りにこっちへ遊びにくるように話しをつけて置きますサえ」
 松蔵は驚いた。いつの間にやら生半可な受け答えをしているうちに話しはもうそんな所まで進展しているらしい。
「ちょっと待ってくれよ、郷里に女房がいないことは間違いないが、許嫁というほどでもないが親があの家の娘ならばと言っている娘がいないでもないんだ」
「なんでも先生、そげんことなら早よう云うて下さりゃ良えじゃないですか。こっちはこっちで早合点してしまうたです。」
 商家育ちのお内儀は、それこそ歌の文句の如く米の成る木を知らずに育った。百姓育ちの待つ蔵とはまったく異質なものであったが、それだけに純朴な北東人に興味を感じていたのだろう。あるいは、師範と言えば中学よりも格が上であり、体操教師に過ぎない松蔵であっても小学校の先生の先生として尊敬をはらっていたのかも知れない。
 それ故松蔵はこうしたお内儀の御節介を、必ずしも迷惑と考えていたわけではない。まして、三年も前のイクと出逢があまりにも希薄なものであるだけに、自分でも、これが夢に近いものであることは、百も承知していた。しかし、何年も前の夢のような印象を常に現実の新しきものとして、心の中に温めて置くことの出来る松蔵が、松蔵らしいと云われる所以であった。
 実際の彼が若い頃、どんな女性の理想像を胸に画がいていたのかは詳かではない。だが彼もまた明治の一般的インテリ青年であったとすれば、鉄幹ならずとも、才たけて見目うるわしく情ありと夢に抱いたのは当然だろう。見目うるわしく情ありとはいずれの時代、文化、地域の差を問わず、男が女に抱く要求として基本的に不変なものだろうが、才たけてとなると必ずしも一致するとは云い難い。女が単に男の従属物であり、愛玩物であるためには、女は男と知的に平等となる必要はなかった。女は従順で姿形が美しく、ある場合には人形のよう可愛くさえあればよかった。そして、女大学や三従の教えに代表される男子中心の道徳規範ができる。
 だが、我が民族に於いて古代から男子中心の文化、社会が築かれていたのだろうか。母信家族の農耕を主とした弥生民族を考える時、必ずしもそうとは思えない。むしろ、こうした男子中心の社会が成立したのは中世から近世に掛けて、それも一部、武家を中心とした貴族階級及び従属した武士社会、農民ならば地主階層、近世に勃興した商人にしても、多数の従業員を擁した富裕な階層に限られたのではなかろうか。
 これらの階層では、ほとんど女が家の外へ出て経済の一翼を担う必要はなかった。しかし、大多数の農民を主とした一般社会では、女性の助けなしに家計の成立は難しかった。この点では男だけが山野を跋こした狩猟民や家長の下に山野を徘徊した遊牧民の立場とは大いに異る。定住して同じ家計の一翼を担う協力者としての立場を願うならば、見目うるわしいだけでなく、才たけてと願うのは当然だったろう。
 また掠奪婚を遊牧民族の中に見出すなら、ヨバヒは農耕民族の中にのみ見出せる風習である。前者に対して後者には女性の拒否も含まれており、或意味では女権が確立せられたと云える。云い変えれば、近世までの吾が国に於ける一般民衆の中では、女の位置が家庭内で欧米のそれと比較して、必ずしも低かったとは云い切れない。
 松蔵も生まれながらに、こうした農民の血を享けていた。成程、女子師範に赴任時、おなごに教育などと気取ってはいるが、女性観にはそれなりの祖先から享けた識見があった筈である。それならばこそ、例え零細士族の家を襲ったと云え気取ることなく、多年に渡り妻の教員としての社会参加を許し、いわゆる当時としては珍しい共稼き生活を続けている。その為には彼自身の言を借りれば、男料理人よろしく夕飼の仕度に打輪をはたき、生木の煙に燻されてしみる涙を押さえたのだった。
 後年、彼が仕遂げた一大事業しても、妻、とくの助力なしには全く成立たなかった筈で専政亭主として号令だけでは如何んとも仕難い事業であった。
 下宿屋の内儀の話は本当に真実味があるのか、単に彼を揶揄しただけのものだったのか、松蔵自身にも分からなかった。それでも松蔵は土地の娘たちが馬鹿に美しく見える日もある。また、お内儀の話に妙な期待を抱いてしまう日もあった。
 そんな松蔵に故郷の実父から突然の手紙が来た。晴天の霹靂とでも言うのか、彼にすれば、降って湧いたような話だった。羽島の娘を嫁に貰わぬかという文面がみとめられている。その娘は三年前に女子師範を出ており、現在教員をしていることも付け加えてあった。松蔵は小踊りした。
いくら明治の世とはいえ、早や末期写真がなかった筈はない。その気になれば写真のひとつも要求できないことはなかっただろう。もっとも現代の我々が考えるよりも嫁選びは単純だったかもしれないが。松蔵ははやる心をおさえて、そのような娘ならば嫁にしてやっても良いというような至極もったいぶった書面を送った。何度かに渡る郷里とのやり取りがあって両家の婚約が順調に推移しているのを松蔵に感じさせた。
 先方も大いに乗り気らしい。少し早すぎるが夏休み中には祝言をあげるところまで話は進んでいった。休みに入ったものの、校長は新米の松蔵に何やかやと雑用を言い付ける。心は逸る松蔵であったがそこは新参者の悲しさ、ようやく上の山の土を踏めたのは八月に入ってからだった。まず代第一に何を指し置いてもイクに逢いたい松蔵であった。さりとて羽島の家に飛んでいくわけにも行かず、家に戻るや否や松蔵は妹のたまに助勢を頼んだ。                                       
「あれ兄さん、おイクさんじゃありませんよ。おイクさんはね、とっくに米沢の方へ嫁に行ってます。兄さんのお嫁さん二なる人はおトクさんと言って二つ違いの妹さんですよ」 
松蔵は愕然とした。羽島の妹が二人姉妹であったとは今の今まで知らなかった。おイクの妹なら、さぞかしおイクに似た顔立ちをしているだろう。とは思ってみても、何となくしっくりこないものがある。今の今まで松蔵の思い続けていた幻影はおイクのものであってみれば、今更、姉妹とはいえおトクという全く別人の存在にすり変えられては、何とも気持の結着を着けようようがなかったろう。
 今朝駅へ着くとまっすぐ養家へ立ち寄って養母に帰郷の挨拶を済ませてきた。松蔵はどちらかと言うと、養母と気が合わない。何となく煙たく感じて三十分ほどで辞してきたが、養家には昨年、養父重方の葬式で訪ねて以来初めてであった。上ノ山藩でも小心者に過ぎない柏倉家は月岡城のすぐ真下、鶴脛町にあった。長禄年間(一四五七年)肥前の僧侶月秀という人が、一羽の鶴が脚を治しているのを見て温泉を発見したという鶴脛の湯は古い。上の山藩では他藩、例えば岡山藩などとは異なり、小身者は城の周辺に住み、大身となるに従って城から遠のくのが習いだった。それ故廃藩以後は効外にあった高禄者の屋敷に比較して利があった。養家ではもちろん松蔵の祝言を喜んでいたが、嫁を向えるその家でありながら何らの仕度をする様子もなく、ある意味では冷淡にも見えた。
 松蔵はともかくも父親に祝言の延期を求めてみた。
「何を言うんだ。今更。犬の子を貰うわけではなし、結納もすませたものを。馬鹿気たことを言うな。」
 藤吉は全く、取合おうともしない。松蔵にしてみても当然のことだと思う。しかし、イクの幻影を追い続けていた自分にとっては、あまりにも哀れの様な気がした。
「そうそう嫌がられずに、嫁っ子の顔ば見てこい。気だての良い女ごだぞ。」
 翌日松蔵は藤吉につれられて羽島の家を訪れた。蔵王の山裾に広がる村々は稲作ばかりでは成り立たない。桑畠や果樹園など、起伏のあるこの辺りの農村に緑の色合をつけた。しかし、逢いに行った筈であった御当人のトクは不在だった。夏休み中にもかかわらず、学校に行っているという。
「お前ひとりで学校さ行って来いや。」
 藤吉も今さら学校まで着いて行くのが憶くうらしくて、トクの父親と秋の収穫の話を続けていた。今年四月にトクが転勤した西郷小学校は松蔵の母校でもあったし、畔を二回りもすれば学校の裏手に出る。勝手知ったる場所である。松蔵は果樹園を抜けて校内に入ろうとした。
「だめじゃないの、そんな所から入っちゃ。正門の方に回りなさい。」
 校庭では十数人の生徒を集めて小柄な若い女教師が遊技を教えていた。低学年らしく、青バナをたらした男の子も何人か見掛けたが、女教師の真勢な態度におされて真夏の炎天にもかかわらず遊技をつづけていた。
「そこは、道じゃありませんよ」
この所ずっと町姫ばかり見なれてしまった目には、無造作に髪を束ねて白絣り一枚の姿はどうしても野暮たく見える。
 女教師は遊技をやめて校庭の隅へと歩き出した。松蔵も戻るに戻れず、土手を飛び越すとそのまま校庭に立ちすくんだ。今まで押えていた汗が一度に額へと流れ出て来る。
「羽島先生はどちらでしょうか」
 松蔵はドギマギしながら女教師に問いかけた。どう見ても美人という顔立ちではない。丸顔でおでこと頬は高くそびえ、まん中に低い鼻が控え目に鎮座していた。
「だめですよ、どうして世門の方へお回りにならないんです」
 女教師はなおも詰問の手をゆるめない。松蔵は日頃自分が教えている生徒達と、そう幾つも違わない若い娘にたしなめられたのを不快には感じたが、なおも再び問いかけた。
「羽島先生はどちらですか」
「羽島は私ですが何の御用ですか。」
 開き直る女教師に松蔵は丁重に頭を下げた。
「柏倉と申します。よろしくお願いいたします」                 

 一瞬女教師の顔に紅がさした。
「岡山の師範学校に行っていらっしゃる、後藤さんでいらっしゃいますか。知らないこととは言いながらとんだ失礼をいたしました」
二人の間に気まずい空気がながれた。 
「一応職員室の方へどうぞ」
「いえ、ここで結構です。授業中の御様子ですから、これで失礼します」
「いいえ、ただ子供たちと遊んでいるだけなのですから…」
 子供達は敏感に二人の様子をさとると小声でささやいた。
「あれ、きっと先生の婿さんだス」
 そして校門へとゆっくり歩き去る松蔵の後姿を見送ると、子供達がはしゃぎ始めた。
「うわあ−。先生。よい婿さん貰ってよかったス」
 自然の子はそれなりに早熟である。トクは赤く染まった顔を上げられなかった。
「何だあの娘、小生意気な。山梨県みたいな顔しやがって」
 帰る道すがら松蔵は憤然とした想いだった。
「同じ姉妹でもああも違うものか」
 細面のイクの面影が抜けきれぬだけに、畔を抜けて、赤紫にうれた実をつけた桑畠の間に入っても同じ思いだった。また同じその道を一時間ほどしてトクも歩いていた。
「何故あんな事をしてしまったんだろう。あの人が果して私を好きになってくれるれだろうか」
 トクは自分の容姿に自信がなかった。幼い時分から何かにつけて全てに姉のイクと対照されていた。周囲がイクの評判をすればするほど自分の容貌に対する劣等を意識した。遇然とは言いながらあんな出逢いに終わった先ほどの出来事を考える。別に自分は何もやましい所はない。あの人があんな所から入ってくるから悪いんだ、と思う。自分の顔にしても、姉さんは父さんに似て、私は母さんに似ただけのことだ。しかし世間というものはどうして何でも比較したがるんだろう、とトクは思った。
 朝方はくっきり青い空に端正な山波を画がいていた蔵王も、今はすっかり厚いベ−ルに被われていた。あれが主峰、刈畳山と思われる辺り、窒雲は一段と濃く薄墨色をを成して、時折、黄金の矢をまたたくように発していた。やがては地上にまでその矢は届くだろう。
 トクは突然、桑畠を吹き抜ける一陣の風に身を固くよじらせた。そして身近く迫る未来に不安の影を隠せなかった。
 後年、トクはその顔を教え子たちの前で、あけすけに自ら山梨県と評している。
「山梨県は周りが全部山で、真ん中が甲府盆地と云う平らな所。だからうちの先生(松蔵)、若い頃から私の顔を山梨県、山梨県と呼ぶのよ」
 低学年担任のトクが地理を教えることはまずなかったが、よく子供たちにこう云って地勢の概念を分らせた。幼ない子たちでも先生が自分の顔を不美人だと評しているはすぐ分った。なるほど云われてみればおでこで頬もいくらか飛び出していた。でもお目めも二つきちんと並んでいるし、まん中は平いらだと云うが、お鼻もある。子供たちにはなぜ先生の顔が不美人なのか、よく理解できなかった。
 まして若い年頃の娘だったら、それなりの輝きを持っていたに違いない。云はば十人並、丸いモンゴリアン特有の顔立ちだった。同じ姉妹でも妹のイクの顔にはアリアン様とでも云うのか面長で鼻筋が通りちょっと彫りの深い顔だちだったに過ぎなかった。

 

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