岡山赴任(3)


 初夏である。あれから二箇月。新任の松蔵にとっては、夢中の時期だった。木々の幹から小枝から、または大地からも外気を窺うようにおずおずと姿を現わし始めた新緑も、今は何もためらうことなく、野や山を?せるばかり緑で満たしている。あれ程、憧がれた陽光も、烈しい運動の後では汗ばんだ乙女たちのはね返る肌に少しでも涼風を流そうと樹影や校舎の後へと群がった。
 あの竹田みつの姿もいつしか松蔵の脳裏からは消えていた。留めて置くにしては乙女たちの姿は多過ぎた。全校生徒数百人。計四五才から時には二十を二つ三つ越した年頃のものまで。女として最も花する時期に違いない。連日、連日彼女たちの生地の顔と健原な姿勢が彼の目の前を行過ぎた。松蔵自身も体操と云う教科を通じて、意識的にしろ無意識にしろ彼女たちの意を向かえんとするのは当然だった。
 いかに体操教師が軽視されたとは言え、師範教育では体操と音楽は重要な科目であった。全ての生徒にオルガンの弾奏が必修とされていたし、運動嫌いとはいっても、教師と成る以上は自ら体操の実技を習得していなければならなかった。
 松蔵が高師出を差し置いて師範の教師に採用されたのも、日本体育会の体操学校で身であるからだった。明治の初年から、ドイツ式の体操を主流としていた体操伝習所に出発した高等師範系に対して、当局も新しいスウェ−デン式にしても、いずれもアメリカを経由してわが国に入って来ているのだが、おそらくアメリカ体操界の自体の本流がヤ−ンに始まったドイツ体操から、リングのスウェ−デン体操に移りつつあった時期なのだろう。
 明治三十五年、アメリカで医学及びスウェ−デン体操を修めた川瀬元九郎が、日本体育会体操学校に帰るまにおよび、そこの主流はスウェ−デン体操となっていった。従って、松蔵の習得した体操もスウェ−デン式であったに違いない。スウェ−デン体操のドイツ式に比して最も特徴的な差異は、ドイツ式では教師の動きを模倣を中心としてすることによって進められていくのに対して、スウェ−デン方式では号令によって行なわせることである。これはリングが、体操は個人の要求に応ずべきものであると考え、画一的な方式を取らずに個人の能力に応じたカリキュラムにそって能力を順時高めていく方法をとったからである。
 この点で松蔵は得意だった。私立の体操学校の出身者に過ぎない自分が高等師範出に伍して新しいスウェ−デン体操を教授していくのに誇りを持っていた。ドイツ式では一個人の体操器具でどんな種類の運動にも対応できるように着目するのに対して、スウェ−デン方式では生理学的、解剖学的効果を上げるために、各種の器具を採用する。松蔵も後には校長に進言して新しい、いろいろな体操器具などを東京から取り寄せたりしている。とにかく、新らしい息吹の中で松蔵は、日々、仕事に充実し、満足して送っていた。

 

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